大神とマリアを乗せた公用車が、夜会の開かれるウラジミール侯爵邸のエントランスに到着したのは午後六時丁度だった。
 エントランス脇の広場には、軍高官や貴族達の所有する蒸気自動車で溢れかえっている。
 制帽を被り白い海軍軍礼服に身を包んだ大神は、ドレスアップしたマリアをエスコートして、エントランスの幅の広い階段をゆっくりと歩んだ。
 玄関ではフィラトフ大佐が如才無く来訪する出席者と挨拶を交わしている。
 大神とマリアがフィラトフ大佐の近くまで来ると、フィラトフ大佐は大袈裟に両手を開き、ハラショーを連発した。
 「素晴らしい、マリア!スーツ姿の君も素敵だったが、ドレスを着た君の姿は…うん、まさに聖母降臨の図にも似ているな…さあ、中に入り給え、今日は君たちが主賓なんだ。」
 大佐に案内され、二人は長い廊下を奥深く進んだ。
 大きな扉が観音開きに開くと、まばゆいばかりの光が部屋の中から漏れ、それから割れんばかりの拍手が鳴り響いた。
 大神とマリアは一瞬顔を見合わせ、それからゆっくりと大広間の中央に向かって歩いた。
 幾つもの円卓の中央に開けられた通路を進みながら、フィラトフ大佐の招く中央壇上に登り、二人は出席者全員に向かって深々と礼をした。
 再び拍手が大きくなった。
 フィラトフ大佐は二人の前に立つと、一礼し夜会の開幕の挨拶を始めた。
 「今晩は、皆さん。ロシア陸軍第二機甲師団第三戦車部隊、陸軍大佐フィラトフです。
皆さんも既にご存知の通り、今日の夜会には日本から素晴らしいお客様を招いています。
帝国歌劇団のトップスターのお二人、マリア・タチバナさん、大神一郎さんです!」
 万雷の拍手の中、大神は再び深々と礼を繰り返しながら絶句した。
 「…お…俺がトップスターだって?…」
 「すみれが聞いたら怒るでしょうね、隊長」
 横でマリアが悪戯っぽく笑った。この余裕がトップスターたる資格なんだろうな。緊張に
膝ががくがくしている大神は、改めてトップスターとしてのマリアを認識するのだった。
 拍手はまだ止みそうにない。フィラトフ大佐はマリアに小声で耳打ちした。
 「…突然で申しわけないが、マリア。ここに集まっているみんなに一曲歌でも披露してもらえないだろうか?」
 フィラトフ大佐の申し出にマリアは快く応じた。
 「どんな歌がよろしいでしょう?」
 「君にまかせるよ、マリア。楽団は大抵の曲は弾けるよ。」
 「いいえ、大佐。楽団は要りません。」
 「え…本当かい?マリア」
 「…ええ…楽団は要りません…」
 壇上中央に集声器が用意され、マリアはその前に立った。
 夜会の会場は水を打ったように静まりかえった。
 「…今晩は、帝国歌劇団花組マリア・タチバナです。……今日は母がよく歌っていた日本の歌を歌いたいと思います。」
 うさぎ追いしあの山
 こぶな釣りしかの川
 夢はいまもめぐりて
 忘れがたき、ふるさと…
 マリアの少しハスキーな声が、万感の想いに満ちて会場全体に響きわたった。
 歌が終わり、一瞬しんと静まりかえった会場はやがて拍手と歓声が渦巻いた。
 「ウラー(万歳)」
 「ウラー!!」
 「ウララー!!!」
 マリアは出席者に向かって深々と礼をした。
 「ありがとう、マリア。素晴らしかったよ。」
 フィラトフ大佐は満面に笑みを浮かべて、マリアを抱き背中を叩いた。
 「さあ、君たち、席にどうぞ。ここの料理は『コーシュカ』と一味違う。ウラジミール侯爵邸の料理長は、正統のロシア宮廷料理を継承しているんだ。特に私はこのキエフ風のチキンカツレツが大好きでね。ナイフを刺すと中のバターが勢い良く飛び出すから、注意しなければならないがね…」
 大神とマリアは、フィラトフ大佐の如才ない話術にうなづきながら、ロシア料理を楽しんだ。
 「…昼にあれだけ食べたのに、まだ入るよ、マリア…」
 「本当に…美味しいですね、隊長」
 次々とワインやカクテル、様々な手の込んだ料理が円卓に並べられ、歓談が続いた。
 やがて、一組の男女が大広間の中央に歩み、楽団が輪舞曲を奏で始めた。
 白い軍礼服に身を包んだロシアの若い士官と、貴族の娘然とした若い女が優雅に踊り始めた。
 「さあ、いよいよ舞踏会の始まりだな、大神君、マリア、君たちもそろそろ踊らないか?
ロシアに来たら凍りつかないために踊らなければならないんだよ、大神少尉」
 大神とマリアは顔を見合わせ、お互いに小さくうなづいた。
 ウィニアフスキーの「モスクワの思い出」が哀愁を帯びたヴァイオリンの曲調で奏でられ
始めた。
 大神に優しく抱かれ手を重ねられたマリアは、初めて舞台に立った時よりも気持ちが昂揚
していた。大神の体温が感じられ、整髪料のほのかな香りが鼻孔をくすぐった。大きく脈打つ胸の鼓動が大神に聞こえやしまいかとマリアは心配になる。
 「…マリア…」
 「何ですか、隊長」
 大神の声はいつもよりずっと低く感じる。
 「…前からこんな風に君と踊ってみたいと思っていた。」
 「……私も…です…」
 消え入りそうなマリアの声が漏れた。
 二人は静かに確かめ合うようにステップを絡めあい、大きくステップを踏み出す度に、マリアのドレスの裾が優雅に広がった。
 三曲ほど踊った二人は喉の渇きを覚え、壁際のバーカウンターで軽いカクテルを頼んだ。
 給仕がカクテルをステアしている様子を眺めていると、後ろから女がロシア語で声を掛けてきた。その言葉を聞いてマリアは弾かれたように後ろを振り向いた。
 マリアと同じくらいの背格好の女が立っていた。短めの黒髪をきちんと束ね、意志の強そうな大きな鳶色の瞳がまっすぐにマリアを見つめている。
 「…オルガ!…オルガね!」
 信じられないというようにマリアはかぶりを振った。
 二人は抱き合い、それから確かめるようにお互いの顔を見詰めた。
 「…生きて…生きていたのね!オルガ!!」
 オルガ・アクショーノフ…
 ロシア陸軍准将セルゲイ・アクショーノフの姪オルガは、父のスパイ容疑のために一家で
シベリアの小さな街に移り住み、そこでマリアと知り合った。境遇の似た二人はすぐに打ち解けて、多くの時間を一緒に過ごした。教会や学校で小説を読みまわし、編み物を教えあい、お互いの家で一緒に料理を作った。
 革命戦争が激しさを増す中、青年革命同盟に入った二人は所属する部隊も違っていたため次第に会う機会が少なくなった。やがてオルガの所属する部隊が前線で壊滅状態となったことを伝え聞いたマリアは、オルガはもうこの世にいないのだと自分に言い聞かせた。
 そのオルガが目の前にいる。鳶色の大きな瞳はそのままに…そして美しく魅力的な女性に成長して…
 「マリア……まさかあなたが日本で女優になっているとは思わなかったわ…」
 「…オルガ、あなたは今…何をしているの?」
 「陸軍の通信と広報を担当しているの……さっき新聞社の人から今晩のフィラトフ大佐の夜会に日本から女優が来るって聞かされてマリアのことを思い出していたの。そしたら本当にあのマリア・タチバナなんですもの!驚いたわ……あ、あそこにいるのは秋水さんだわ…秋水さーん!」
  オルガの指さすほうには、あの帝都日報の記者、秋水永久也がいた。
 「大神少尉、マリアさん、今晩は。」
 少尉と呼ばれ、大神は改めて秋水を見据えた。軍礼服を見れば確かに少尉とはわかるに違いないが、当然のように呼びかける秋水は警戒して当然だ。
 訝しげな大神の表情を見てとった秋水はやれやれとでも言うように両手を上げた。
 「フィラトフ大佐に聞いたんですよ…僕とフィラトフ大佐はポーカー仲間なんです。いつもあの「コーシュカ」の奥の部屋でやるんです。帝国歌劇団のトップスターがいい男と二人で歩いていたらそりゃあ気になりますよ。これでも新聞記者の端くれですからね。あの
後大佐に聞いたんですよ、あの色男は誰だってね。そうしたら…」
 秋水は手にしていたグラスに口をつけカクテルを飲んだ。
 「そうしたら、駆逐艦「はやかぜ」の少尉がマリア・タチバナの親善公演の護衛に付いているとのことで…大神少尉、ご苦労様であります!私の大切なマリアをロシアの熊達から守ってください!…それじゃあ、オルガ、後でみんなで遊戯室に行こう。あそこならゆっくり話ができる。…君も色々話したいことが有るんだろう?…それじゃ、みなさんまた後で…」
 秋水は挨拶もそこそこに、隣にいた軍高官に声をかけ、談笑し始めた。
 ひとまずほっとした大神だったが、マリアの表情は硬かった。
 「大丈夫よ、秋水さんには何も話していないし、これから何も話すつもりはないわ。」
 秋水を警戒する二人の表情を察したオルガは大神とマリアに約束した。
 「…ありがとう、オルガ…」
 微笑むオルガの表情は少女の時のままだった。
 夜会も終盤にさしかかった頃、大神、マリア、オルガ、秋水の四人は遊戯室に集い、小さなテーブルを挟んでグラスを傾けた。
 オルガは部隊の広報担当ということで秋水とは親しいらしい。フィラトフ大佐とも親しい秋水の話は明日からの部隊の行動の詳細にまで及んだ。出発時間から途中の宿泊地に至るまでおよそ輸送計画に合致している。
 「…秋水さん…どうしてそんなに詳しく知っているんですか?」
 不安に駆られた大神は秋水に詰め寄った。
 「…どうしてって…僕も一緒に行くからですよ、大神少尉。ここにいる四人共、行き先は
同じ。目的はそれぞれ違うけれどね。マリアは親善友好、大神少尉はその護衛、オルガは移動演習、僕は取材旅行。寛大なフィラトフ大佐に乾杯!」
 大神の酔いは一気に醒めた。