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『胸の奥には』〜And There's A Hurting
Thing Inside〜  (1999・12・3)
 
 「とうとう見つけたわ。」
指に挟んだ細いシガレットからメンソールの香を漂わせながら女がつぶやいた。
 彼女の視線の先にはタブロイド版の新聞に載った小さな記事があった。
 1925年のニューヨークのダイナー。
 どう見てもまともな商売で身を立てているとは思えない様子の女だった。
 ティーンズショップで誂えたようなミニタイトのスカートと身体の線が透けて見えるブラウスに身を包んではいるが、滲み出た疲れを隠せない年齢になりつつあるのは後ろ姿が証明している。
 彼女の席の横のガラスには雨が強く叩き付けられて外のネオンが滲んで見える。
 「ジェローム、とうとう見つけたわよ、あいつを……。」
 ダイナーの天井の隅にまるで誰か親しい相手が居るように小声で囁いた。
 短くなったシガレットをすでに溢れそうになっている灰皿に突っ込み、半分程残っていた冷めたコーヒーを啜った。
 銀色のケースから新しいシガレットを出そうとしてそれが最後の1本と気付き軽く舌打ちしてから銜えカチリとライターの蓋を開ける。
 炎がオイルの匂いをまき散らす。
 深く吸い込んだ煙をゆっくりと吐き出すと右手にシガレットを持ったままテーブルから新聞を取り上げた。
 もう一度舐め回すように新聞記事を読み始める。
 日本から来た貴族院議員と女優が市長の主催するごく内輪のパーティーに出席したという簡単な記事とパーティー会場での写真だった。
 小柄な東洋人の老人の横に立つ西洋人の女性。
 小さな写真だが彼女が際立った美貌の持ち主だという事は充分解った。
 そしてそれはこの5年間彼女が探し続けて来た女の姿だった。
 ペーパースタンドで買った新聞の中にこの記事を見つけてから暗記してしまう程繰り返し読み返した。
 プレートの上では食べ残したバーガーからこぼれたケチャップの縁が薄黒く変色し乾き始めている。
 彼女がこのテーブルに座ってから随分と時間が経っているらしい。
 灰皿の縁で軽く灰を落とすとシガレットの先を写真の中の人物に押し付けた。
 質の悪いパルプがちりちりと音を立てて黒い小さな円を描き、細い煙と供に写真の背の高い女性の姿を消した。
 
 
 9月に入っても残暑厳しい日が続いてはいたが、少しずつ秋の気配も漂いだした帝都。
マリアが花小路伯の護衛を終えて花組に復帰してからすでに1ヶ月が過ぎていた。
 帰国直後の熱海旅行中に密かにされた大神とマリア二人だけの約束。
 長い別離の時間と隙間を埋めるかの様に折々に触れて熱い視線が絡まりあうものの、表立っては節度ある態度で過ごす二人だった。
 かつて特別休暇を取ってロシアまで行った二人の事を知るまわりの者達からすれば、何とも歯がゆく見えるのだが。
 そんなまわりの思惑など気にもせずお互いの職務に専念する大神とマリアだった。
 『青い鳥』の舞台練習が始まり、黒鬼会との戦闘も頻繁になり始めた頃。
 その日は夕刻から空模様が怪しくなっていた。
予報によるとかなり大きな台風が帝都を通り過ぎるとの事で、帝劇でも台風に備えて各自が作業に追われていた。
 マリアは備品のマッチと蝋燭が心許ないという事で近く迄買い物に出ようとしていた。
 「隊長。」
 「やぁ、マリア。
 出かけるのかい?」
 「ええ、ちょっと買い出しに。」
 「一緒に行こうか?」
 「非常品を買いに行くだけですよ、そこまで。」
 「良いじゃないか、嵐の前の帝都散歩だよ。」
 「ふふふ、良いですね。」
 そんな他愛の無い会話をかわしながら二人は並んで銀座の街へと出かけていった。
 マリアは予め買い物のリストを作っていたので必要な物を揃えるのは思ったよりも早く済んだ。
 「えっと、これで全部揃いましたね。」
 荷物を抱えた大神にマリアは小さなメモ用紙に書き込んだ買い物リストを眺めながら言った。
 大神はちらりと三越の前の大時計を見上げた。
 「マリア、ちょっとぐらいなら大丈夫だから寄り道して行こう。」
 「まぁ、隊長ったら……。」
 そう言いながらもマリアは嬉しそうに頷いた。
 コーヒーを一杯ずつ、そして隊長が煙草を一服するぐらいの時間なら天気も持ちそうだった。
 マリアはそう判断したのだ。
 近くにある馴染みのカフェは二人の隠れ場所だった。
 路地の裏にあり、口数の少ないマスターが煎れてくれるコーヒーは格段に美味しかった。
 カフェのドアを開けて店内へ入ろうとした時、マリアは突然振り返った。
 誰かが自分の事をじっと見つめている、そんな気がしたからだ。
 雨を含んだ重い雲が垂れ込める街角には早く用事を済ませて家路に急ごうとする人々が気忙しく通り過ぎて行くだけだった。
 帝劇女優のマリアが街角を歩いていたからといって特別立ち止まって珍しげに眺めるなどという野暮な事をする輩もいない様だった。
 視線を感じた方向を見回してもそれらしい人影は無かった。
 (気のせい?)
 そう思いながらマリアは店内へ足を踏み込んだ。
 
 
 二人が帝劇に戻ろうとカフェを出た時にはもう小降りの雨があたりのペーブメントに黒ずんだ染みを作り始めていた。
「隊長、降ってきましたね。」
 「今ならまだそんなに降っていないから急いで劇場へ戻ろう。」
 「はい。」
 そう言うと大神は買い物袋を落とさないようにしっかりと抱え直した。
 「じゃ、劇場迄走るぞ、マリア。」
 大神がそうマリアに声を掛けた時だった。
 「Hey you! You! Maria!」
 聞き慣れたニューヨーク訛の英語で呼び止められた。
 振向いたマリアの背後にはブルネットの女性が立っていた。
 「随分と御無沙汰だったわね。」
 そう言うとにやりと笑った。
 イギリス人が聞いたら眉を顰める様な猥雑な形容詞が並んでいた。
 「パム……。」
 掠れた声でつぶやくマリアの表情が強張った。
 その様子に大神も不審げな表情を浮かべた。
 「マリア?……知り合いかい?」
 大神の問いにマリアは答えなかった。
 「うふふ、懐かしくて声も出ないのね。」
 「どうして……。」
 「どうして?それはこちらが言いたいわ。
 あれからどうして居たの、マリア?
 随分探したのよ、あなたが姿を消してから。
 それがびっくりするじゃない、日本で女優なんてやってるんですもの。
 貴女みたいな人殺しが!」
 早口で捲し立てられる英語は訛が強く大神には殆ど話の内容が聞き取れなかった。
 しかしマリアの様子を見る限り嬉しくない再会だという事だけは理解出来た。
 「市長のパーティー記事を見た時は私も自分の眼を疑ったわ。
 だって、かつてアメリカでも人気を誇ったレビュウスタアのマリア・タチバナ嬢は今は日本でトップの女優だ、なんて書いてあるんですもの。」
 「あの時の取材の記事を読んだのね……。」
 マリアの言葉にパメラは鼻先で笑いながら付け加えた。
 「マフィアの用心棒の事を日本ではレビュウスタアとでも言うのね、笑っちゃうわ。」
 パメラは金色のチェーンの付いた黒い革のショルダーバッグから銀色のシガレットケースを取り出した。
 蓋を開けて細いシガレットを1本取るとマリアにも勧めた。
 マリアは黙って1本引き抜いた。
 パメラはシガレットケースを仕舞うとライターを取り出した。
 「昔はよくこうやって二人で一服したものよね。
 貴女は酒場の用心棒、私はしがない街の客引きで。
 店の前で所在無さげに立っていたのは二人とも一緒で。
 雨が降れば二人で軒下に、そう今みたいにね。」
 話しながらライターの蓋を黒ずんだ血の色のマニキュアを塗った親指で苛立たしげに開け閉めしている。
 カチャカチャという金属音が耳障りだった。
 「パム……。」
 マリアの言葉を無視してパメラは話し続けた。
 「初めはロシアから密入国してきたばかりの貴女は言葉が解らないと思って私一人でしゃべっていたわよね。
 綺麗な顔してるし、街に立てば一晩で随分稼げるのにといつも思っていたわ。
 でも、愛想は無いし……人を殺している方が性に合っていたのね。」
 「ねぇ、パムお願い。」
 マリアは懇願するように言葉を遮った。
 さり気なく後ろに一歩下がって二人の会話を邪魔しないようにしている大神を気にしながら。
 しかしパメラは話をやめようとはしなかった。
 「でもまぁ、あの頃身体を売って暮らしていたんなら今頃こんな国で女優なんてやってられないでしょうがね。」
 饒舌でスラング混じりのパメラの言葉を大神がどれ程聞き取れるか解らなかったが、マリアにとってニューヨーク時代の話を大神の前でされるのは堪らなかった。
 もちろん大神はマリアの過去についてはある程度知ってはいるのだし、マフィアの用心棒として暮らしていた時期がある事も当然知っていた。
 だからそれが無意味な殺人を犯して来たという過去だという事も知っているはずだった。
 だが、今のマリアにとって大神の前でその頃の自分を語られるという事は耐えきれない拷問に等しかった。
 マリアが動揺しているのを楽しむようにパメラは言葉を続けた。
 「それが貴女、市長のパーティーに御出席なさってるんですものね、もう驚いたわよ。」
 そう言いながらシガレットに火を着けた。
 促すようにライターを近付けたのでマリアも手にしていたシガレットを銜えた。
 マリアのシガレットに火を着けるとパメラはショルダーバッグを引き寄せてライターを放り込んだ。
 そのままバッグの中に手を突っ込むと小さな銃を取り出した。
 「この銃、覚えてる?
 街角に立つ私が一度死ぬ程危ない目に遇った後貴女が選んでくれたのよね。
 そう、撃ち方も貴女が教えてくれたのよね。
 まぁ、あの後は誰も撃たずにやって来れたけれど。」
 パメラは冷たい声で言い放った。
 「死んでもらうわ、マリア・タチバナ!
 貴女が殺した弟の敵を討たせてもらうわ。」
 話ながらカチリと撃鉄を起した。
 迂闊だった。
 手にしていたシガレットを投げ捨てジャケットの下のエンフィールドに手を伸ばそうとした時にはすでに銃口がこちらに向けられていた。
 「動かないで!
 貴女が弟を撃ち殺した時、あの子は、あの子は丸腰だったのよ!
 卑怯もの!」
 その瞳は脅しなんかじゃなく本気でマリアを殺そうとしていた。
 「くっ……。」
 マリアは下唇に歯を立てて呻いた。
 「不様ねぇ、貴女程の名手が。」
 離れて立っていた大神が身を翻してパメラを制止しようとした。
 「そっちの貴男も動かないで!
 動くとこの女の命は無いわよ。」
 そう言うと彼女は唇の端をちょっと持ち上げるように冷たく微笑んだ。
 「そう、こんな時貴女は確かこう言うんだったわね……、До свидания!」
 別れの言葉と同時に引き金が引かれた。
 「マリア!」
 その瞬間大神はマリアをかばって飛び出した。
 マリアを突き飛ばした直後に大神の身体がガクリと崩れた。
 「ぐおっ……。」
 叫びともつかないうめき声を上げて大神が倒れかかるのをマリアはスローモーションの映像を眺めているような心持ちで見つめた。
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