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NHKスペシャル「世紀を越えて・ゴミの逆襲」

 実は私は、環境問題に対してけっこう深い関心を持っている人間である。 何しろ、私は車に乗らない人間なのだがそのことの理由の一つが、「環境問題で悩んでしまうから」 というぐらい深い関心を持っているのである。
(「車に乗らない理由」というのもいろいろと語りたいテーマではあるのだが、それも けっこうな分量になると思われるのでまたの機会に譲る)

 とはいえ、80年代後半の環境問題ブームの頃のように悩んでみたとみころで、個人レベルの努力 はほとんど無意味だということは歴然とした事実であるので、現在では「時は世紀末」という気分 も手伝ってか、「自分に関係ないところで問題になっていることなんてどうでもいい」という 感覚が蔓延しているようなところがある。実際、今の日本では現実的にはその通りで、 かく言う私も環境問題に対しては妥協にまみれた生活を送っている。そもそも、今現在パソコンを 使用して膨大な電力を消費している時点ですでに努力しているとは言えない。
 そのような日々を過ごすうちに、環境問題について考える時間も昔に比べると確実に少なくなって いったわけで、友人知人と真剣にそういう会話をしたことも数えるほどしかない。私の経験では、 そういう話題で信念を持って議論ができる人間というのもそう多くはないのではないかと思う。

 といっても、こんな時代でもNHKだけは地道に環境問題を扱ったドキュメンタリーを放映し続けて いる。少なくともテレビというメディアでは、環境問題を「考えさせる」姿勢を打ち出している番組 作りを行っているのは間違いなくNHKだけだろう。ただ、NHKのドキュメンタリー番組を喜んで見ている ような人間は、一般的にはかなり特殊な人間らしいのだが。

 最近、NHKは「世紀を越えて・豊かさの限界」というシリーズで20世紀の資本主義社会における 「消費こそ美徳」という価値観を振り返るドキュメンタリーを放映しているのだが、私はこの シリーズの第6集「ゴミの逆襲・氾濫から脱出できるか」を見ていて、久しく忘れていた 「ぶつかり合う信念と理念」を垣間見て、不覚にも目頭を熱くしてしまった。
「やりたいことが何もない」と日本の多くの若者が口にする一方で、未だにこの現代社会で本気で 信念をぶつけ合っている人達もいるのだということを改めて確認させられ、感動してしまったので ある。
 そのようなわけで、私も久しぶりに環境問題について真剣に考えていた頃を思い出してしまった ので、このとき私が見た番組の内容を及ばずながらも私なりの見解で語っていきたいと思う。


信念を持って対立する姿

 ドイツのミュンヘンは、ゴミのリサイクル化を成功させた数少ない都市の一つである らしい。税金とゴミの回収費を分けることによって「ゴミを減らせば得になる」システムを構築し、 資源として利用できるゴミは無料で回収することによって、住民にリサイクルを習慣化させた。 その結果、ミュンヘンのゴミ処分場に運ばれるゴミの量は、かつての50分の1に減少したそうである。

 これだけなら、リサイクルの成功例ということで単なるおめでたい話で終わるのだが、 さすがにそれだけでは終わらなかった。ミュンヘンでゴミのリサイクル化が定着した一方で、 ゴミを固形燃料化して燃料として利用しようという業者が登場したのである。
 普通にゴミを燃やすと、ゴミに水分が含まれているため温度が上がらず不完全燃焼を 起こして問題のダイオキシンなどが発生してしまうのだが、ゴミを乾燥させた後に細かく 砕いて圧縮して固形化すると高温で燃焼するため、有害物質が発生しにくいのだと言う。 そして、ゴミ固形燃料を高温で燃やすためには、ゴミの中にカロリーの高いプラスチック が含まれている必要があるらしいのだ。

 察しはついていると思うが、もちろんミュンヘンの住民はプラスチックはプラスチックのみ で、リサイクルのために分別しているのである。ところが、ゴミ固形燃料の業者はプラスチック のゴミもその他のゴミとまとめて捨てるよう呼びかけているのである。
 結果として住民は、習慣化したリサイクルのための分別を続ける人と、分別をやめてしまう人に 分かれてしまったらしい。

 当然のことながら、住民のリサイクル派と業者のゴミ固形燃料派が対立することになるのだが、 業者側は「ゴミ固形燃料は発電に使用されるので、一種のリサイクルになる。従来のリサイクル よりコストもかからない」と主張する。
 すると住民側は「燃料のためにゴミを出すよう求めるのは間違っている」と主張し返すのだが、 業者側は「いずれにしてもゴミを出さずには生活できないでしょう」と切り返す。

 ここで私は思ったのだが、お互いの主張は決して間違ってはおらず、どちらも言っている ことは正しいのである。どちらも正しいのだが、正しいがゆえに信念を持って対立しているの である。この、忘れかけていた「互いに信念を持って対立する姿」というものに私はいたく 感動し、「ドイツ人は尊敬に値する」とさえ思ってしまった。
 番組的にも、特にどちらの肩を持つわけでもなく視聴者に考えさせる引きで終わる。


資本主義とリサイクル

 ここから先は、番組を見終えてから考えた、私の個人的な意見である。私としてはリサイクル を支持する考えに落ち着いたのだが、現実的には固形燃料化の方が今の社会に受け入れられやすい、 というのも十分に承知している。それを踏まえた上で読んでいただきたい。

 結局ミュンヘンでの対立は、多くの環境問題を論じるときの結論がそうであるように、資本主義で押し通すか、 環境への影響を重く見るか、という対立なのである。確かに資本主義社会ではコストの削減は 重要な命題であり、同じゴミの再利用ならわざわざ効率の悪いリサイクルを選択するよりは、 少しでも生産的なゴミの固形燃料化を推進するというのもうなずけるだろう。

 ゴミ問題を考えるときに曲者なのは、この「生産的」という考え方である。「消費こそ美徳」 という考え方には現在では表面的には難色を示す人も多くなったと思うのだが、この「生産的」という 言葉には未だにプラスのイメージがある。考えてみればわかるのだが、「消費こそ美徳」という価値観を 支えているのは「生産的」という言葉の甘美な響きである。
 例えば、引越しのときなどに、運送に邪魔なものは捨てて、引越し先で同じものを買った方が 金がかからない、という経験をしたことはないだろうか?
「需要があるから供給する」のではなく、「供給があるから需要している」のである。何かが おかしいのではないか? 効率がいいのは人間の作った価値観である金銭的な数字上のものであって、 物質的にはゴミが増えただけではないのか? 「ものを買う」という行為は、もしかしたら 「将来ゴミになるものを、お金を出して引き取る」ということではないのか?

 前述した通りゴミの固形燃料化は、ゴミを燃やして発電に使うので一種のリサイクルになると説明されている。 「生産的」な考え方ではあるのだが、今度はその発電したエネルギーを「消費」しなければならない。 その「消費」が新たなゴミを生み出す(そのゴミも燃やすのだろうが、過程で確実に資源を食いつぶしている) とすれば、理想とされている「資源循環型」の社会に到達するのは、永久に不可能ということになるだろう。

 もちろん、リサイクルにもエネルギーは使用するし、例えゴミを完全にリサイクルすることができたとしても、 発電所では相変わらず石油を燃やしている。どちらが良いかと言えば、少なくとも経済的には固形燃料化の方が 良いのだろう。そして、この先も多くの人間は「消費こそ美徳」という価値観を持ち続け、ゴミ問題に対しては 対症療法的な解決法しか持てなくなっていくのだろう。

 最後の最後でずいぶん後ろ向きな結論になってしまったが、個人的には一つの番組を見てこれだけのことを 考えられた、というだけで満足している。実際、一人の人間がゴミ問題に対してできることは何もない。(断言)
 しかし、考えた末に価値観を変えてみることは人生観を変えることにも繋がるわけで、それはそれで良いこと なんじゃないだろうか。



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