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テレビ放映作品の残酷描写について

 恥ずかしながら、私は週に10本近くアニメを見ているような人間である。衛星放送だって ほとんどアニメしか見ていない、というよりアニメを見るために衛星放送に加入したのであり、 思い起こせば恥ずかしい限りである。
 さらに私は何もしていないときになんとなくテレビをつけておくという習慣がないので、 テレビというメディアで得ている情報はほとんどアニメ作品のみであり、他にテレビで見ているもの はというとプロ野球中継かNHKのドキュメンタリーぐらいしかない。
 したがって、知人と雑談しているときに芸能人の話題などを振られると、名前を覚えている芸能人の 人数が一般人の10%に満たないような私の頭脳ではリアクションに窮することが少なくない。
 つまり、テレビでアニメしか見ていないような人間は一般人よりも社会的地位が下ということである。 社会はいつの間に、見ているテレビ番組で階級が決定されるようになってしまったというのだろうか。
 しかも、私が今まで見てきたアニメ作品の中には死ぬほどつまらなかったと思うものも数多く、そのような ものを毎週見ている暇があったら一般人が笑いながら見ているような普通のバラエティー番組を見ていた方が 遥かに有意義な時間を過ごせたに違いない。
 何故私はこんな自虐的なことをやっているのかと、ときどき情けなくなることがある。

 まあ、そんなことはどうでもよろしい。(いいのか?) 最近のお気に入りのアニメは、テレビ東京系列で 夕方6時から放映している「無限のリヴァイアス」である。きちんと毎週見続けていれば非常に面白い作品だと 思うのだが、如何せん低年齢層の視聴者が見てもおそらく理解不能であるため、この時間帯に放映するのは 不適当だと思われる。
 他にも、深夜に放映しているにも関わらず明らかに子供向けな作品があったり、日曜日の朝に難解極まるSFアニメを 放映していたりと、テレ東系列のアニメ作品には放送時間が不適切なものが多い。スポンサーの関係なども あるのだろうが、現状では手当たり次第アニメ作品を放映しているだけで局の方針というものがかなり いい加減に感じられるので、局の名誉のためにも一考していただきたいところである。

 いや、これも今回のテーマとはあまり関係のない話であった。といっても、「あまり」ということは少しは 関係がある、ということなのでご容赦いただきたい。今回の雑文のテーマは、テレビ放映作品でときたま見られる 残酷描写を、視聴者としてどう受け止めるか、ということである。


残酷描写の批判に対する批判

 先にあげた「無限のリヴァイアス」の第18話は、見ていて相当精神的につらい話であった。これを 書いている時点ではまだこの作品は放映中なのでこの先まだまだつらくなってくるのかもしれないが、 とにかくなぜこの話が見ていてつらいものであったかというと、かなり残酷な描写があったからである。 (別に視覚的にスプラッタなシーンではなかったが)
 そして、こういった残酷描写がテレビで放映されると、必ず「こんなものを放映すべきではない。 制作スタッフにモラルはないのか」といったような批判が起こる。前述のリヴァイアスの18話などは まだいい方で、最近までWOWOWで放映されていた「今、そこにいる僕」の第3話などはネット上の 掲示板などで、これ以上はないような叩かれ方をされていた。
 放映される時間帯が深夜ならばこういった批判もほとんど聞かないのだが、やはり子供も見ている ような時間帯に放映されているアニメ作品だとこのような批判は多く、おかげで放送局の規制も 厳しくなる一方である。
 しかし、私はこのような動きに異を唱えたい。このような残酷描写は、その作品のテーマを語るために 必要不可欠であり、しかもそのためには視聴者をわざと不快な気分にさせる必要があるからである。

 例えば、戦争を扱ったドキュメンタリー番組などを見ていただきたい。戦争の悲惨さが嫌というほど 語られているはずである。見終わった後、気分が悪くならない人などほとんどいないであろう。 そして、そのような番組で気分が悪くなればなるほど、視聴者は「戦争をしてはいけない」と考えるのである。  要するに、アニメ作品での残酷描写もこれと同じである。あえて視聴者の気分を害するような描写を 入れることで視聴者に問題提起をし、「こんなことが現実に起こらないように考えて欲しい」という メッセージを伝えているのである。
 ドキュメンタリーは事実の報道だから良い、ということもないだろう。残酷描写を扱った作品の制作スタッフが 批判されるのは、その描写がスタッフによる作為であり、スタッフの責任であるからであろうが、 戦争のドキュメンタリーでもアニメの残酷描写でも視聴者の気分を悪くするものであるという点では何ら変わりはない。
 作品内での残酷描写で不快になった気分を、制作スタッフの批判に当てるのは筋違いである。


物語でテーマを語ることの意義

 ここまで読んでいて、戦争のドキュメンタリーとアニメ作品を同列に論じるのは無理があるのでは ないか、と感じられた方も、もしかしたらいるかもしれない。確かにドキュメンタリーとアニメ作品では 視聴者層があまりにかけ離れているし、前者の場合は残酷描写に対する覚悟もある程度できた状態で 見るだろうから、比較の対象にすべきではない、という考え方もある。しかし、私はそうは思わない。 むしろ、テーマ性を語るのならドキュメンタリーよりもアニメ作品のように「物語」という形式で語る ことの利点の方が大きいと思うのである。

 まず、ドキュメンタリーは、それだけですでに見る人を限定している。好き好んでドキュメンタリーを 見るような人間は、すでにその問題について考えようという姿勢を持って視聴に望んでいる場合が多い。
 偶然テレビをつけたら入っていて思わず見てしまった、というような状況でもなければ、新たにその問題について 考えようという視聴者層は獲得しにくいのではないだろうか。
 それに対して「物語」(アニメ作品に限らない)の場合は、より幅広い視聴者層に対してテーマ性を 語ることができるのである。作品内で語られるテーマ性などには最初はまったく興味がなくて見ていた としても、物語に引き込まれるうちに作品内の問題提起に対して否応無しに考えさせられてしまうのである。
 つまり、物語というのはテーマの翻訳装置のようなものであり、その点はダイレクトにテーマを伝えよう とするドキュメンタリーよりも優れているのではないだろうか。

 しかしだからこそ、低年齢層の視聴者にアニメ作品の残酷描写が与える影響というものを危惧する人も いるであろう。これに対しては、私はその残酷描写が不快感を伴うものであれば、何の問題も ないと考えている。確かに、残酷描写を見せられてしまった子供は、心に深い傷を受ける場合もある かもしれない。しかし、冷たいようだが私はそれで構わないと思う。そのことでその子供が深く悩み、 作品内で見られた残酷描写を嫌悪するようになれば、それでその作品はテーマを伝えることに成功したと 思うからだ。

 したがって、私は見ていた作品の残酷描写に著しい不快感を感じた場合は、その作品を高く評価することにしている。 決して、私を指して「この人は悪趣味なのでは?」などという勘違いをしてはいけない。気をつけるように。



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