吉牛士一級への道!
原作者 01-TYMeさん
01-TYMeさんのサイト『はじめに閲覧されるべきもの』
今朝も吉野家は慌しい。
辺りを見回すと、俺のような出勤途中のサラリーマンの他に、仕事あがりのお水のお姉ちゃん、バイク乗りの兄ちゃん、 現場のオッサン、挙動不審なヒゲ面、徹夜明けとおぼしきメガネ、ツレがいないとトイレにも行けなさそうな学生諸君 エトセトラ……が、口々に難解で優柔不断な注文をしたり、必死に紅生姜に手を伸ばしたり、黙々と競馬新聞片手に 特盛りを咀嚼していたりと、とにかく普段通りの客層が普段通りの賑わいを見せていた。 俺はというと、この数分間ひたすらお茶をすすっていた。
注文の品が来る前から早くも残り少なくなった味のないお茶をすすりながら下目使いに腕時計を見ると、いつも通り 順調に出勤時刻のリミットが迫っていた。まあ、そんなことはあまり気にしていない。俺は極めて冷静に昨日の晩に台所を 放置することにしたのだし、極めて冷静に目覚まし時計をギリギリの時刻にセットし、極めて冷静にこの時間帯の吉牛を 朝飯に選んだのだ。
もちろん、俺は今だって十分冷静だし、この数ヶ月間自炊率0%なのも計算のうちだ。今の俺の心は、注文を取る前に 出されるお冷やのように冷徹そのもの。ちなみに今の俺の手元にあるお冷やはグラスが冷やされていてちょっと感心 したのだが、入っているのは直の水道水なのでぬるかった。ふざけるな! こんなもんが飲めるかぁぁぁっ!
そうか! お前らには、そんなに俺がキレかけているように見えるか! こんな時間に店に来るな迷惑だなんて 客に向かって言い放つか! 何? そんなことは言っていない? 違うな。俺はいつも見ているんだ。注文を取りに来る ときに俺を見る、お前らの人を見下した侮蔑の眼差しを!
『お前ら嫁に朝飯ぐらい作ってもらえ。』
目は口ほどにモノを言うんだよ! 客をバカにするのもいい加減にしろ! 嫁がいたら、誰がこんな成人病の 温床にメシを食いに来るかぁぁぁっ!
空しい。
俺は何をくだらないことを考えているのだ。
被害妄想も甚だしい。
気を取り直して、お冷やのグラスに手をかける。グラスは冷たいのに中身はぬるいという詐欺のような お冷やを、俺は飲み干した。
俺は、店員が注文を取りに来たときのことを回想する。
カウンターに立ったのは、最近入ったバイトの女の子だった。「いらっしゃいませえ、おはようございまあす」
個人的に、俺の脳内では勝手にボイスを丹下桜に変換している。あまりの忙しさに、すでに半泣きの様子だった。
だめだ。この子は、きっと複雑な注文は覚えられない。吉野家に数ある注文技の代表例として、「キャンセル技」という大技が存在する。
例をあげてみよう。『えーと、牛丼大盛り! ……は、やめて御飯とおしんこ』
このケースのコツを解説すると、『大盛り!』の『り!』ははっきり言い切らずに『り〜』もしくは『りぃぃ』と 語尾を伸ばすのがポイントだ。すると店員は疑心暗鬼に陥り、硬直時間が発生する。この硬直時間中に『……は、』で キャンセルをかけ、御飯とおしんこを入力するのだ。目押しは必要ないが、目押しで入力した方がこの後のタマゴと味噌汁 に繋げやすい。しかし、初心者はおしんこで止めておいた方が無難だ。
すると、店員はこう言ってくれる。『あい、大盛キャンセル白米お新香!』
見事だ。
しかし、今目の前にいる丹下桜変換ボイスのバイトの女の子にそのような技を仕掛けては、こちらが 遅刻ダメージを受けてしまう。それどころか、コンボを失敗して注文と違う品が来てしまい、仕方なく 『それでいいです』と妥協ダメージを追加されてしまうことにもなりかねないではないか?
そのようなことはできれば避けたい。ここは一般人のように振舞うのが賢明だ。「えーと、並とタマゴ」
『えーと』をつけるのは、言葉をちゃんと聞き取ってもらうための工夫である。俺が優柔不断なわけではない。念のため。
「はい、ありがとうございまあす。並タマゴ一ちょー!」
うむ。実に微笑ましい。独りで並タマゴを注文する。シンプルイズベストであろう。
俺が素早く注文を終えると、バイトの女の子は今度は向かいのカウンターに座っている学生諸君に注文を取ろうとした。
顔を見れば、どいつもこいつも腰の据わっていない優柔不断そうな学生どもだ。朝から吉野家なんて来るな。なぜそんな 金があるんだ、こいつらは!「えーっとねえ、大盛」
「オレも」
「あ、じゃあオレも」
「んーっと、並」
「特盛お願い」
「並ちょーだい」
「はい、特盛一丁と大盛三丁、並二丁ですね。ありがとうござ……」
「あ、ちょっと待って。やっぱ大盛ツユダクで」
「何それ?」うろたえるバイトの女の子。なんということだ。素人丸出しのキャンセル技を仕掛けやがって! お前らには十年早いわぁぁぁっ!
「あー、ツユをいっぱいかけて、ってこと」
「じゃあオレもやっぱそれ」
「オレ、ネギ嫌い。ネギ抜きってできる?」
「は、はい。できますけど…」
「じゃあそれ」
「はいぃ」だめだ。これでローテーションが二分は遅れる。俺の職場のタイムカードは風前の灯火か?
「じゃあオレはツユ抜き」
「ネギ多めってできるの?」
「で、出来ますうー」なぜ、『出来ません』と言えん! 言え! 言ってくれ! 頼むから言ってくれ! 俺が許す!
「オレはツユダク」
「あ、あの、すいません。もう一回お願いします」
「大盛ツユダク」
「オレも」
「大盛ネギ抜き」
「並ツユ抜き」
「特盛のネギ多め」
「並ツユダク」
「はい、ありがとうございますうー。特盛ネギダク一丁大盛ツユダク二丁ネギ抜き一丁、並ツユダク一丁ツユ抜き1ちょー!」おおっ! 素晴らしいぞ! この難解な注文を、たったこれだけのやり取りで覚えるとは! 成長したものだ。
俺は、『人間には無限の可能性がある』などという言葉を、本気で信じてみても良いと思った。「あ、やっぱツユ入れて」
お前ら、俺の代わりに会社に行け。
数分後。
俺は、もう吉野家には来たくないと本気で思った。
なぜかというと、この学生諸君の方が注文の品が先に来たからだった。
会社の帰り道に街の中を歩いていると、突然アンケートを取らされた。
質問の内容は、『明日、世界が滅びるとしたら今晩は何を食べますか?』というものだった。
俺は『おにぎり』と答えた。
以前の俺だったら『吉野家の牛丼』と答えていたかもしれない。
だが、もうそんな気はさらさらなかった。
ところが俺は、例によって味のないお茶をすすっていた。
結局、また吉野家に来てしまったのか。
いいのか、これで。
成人病で死ぬぞ、俺。
待てよ、今は生活習慣病って呼ばれてるんだっけ。どっちでもいいか。
あのアンケートの通り、明日世界が滅んでしまえばいい。
そうなれば、朝からイライラしながら牛丼なんて食わなくて済むし、成人病の心配もない。 台所も片付くし、腐った米も処分しなくていいなぁ。考えてみれば会社なんて行かなくていいんだから、 吉野家なんて来なくていいんだ。今晩は目覚ましをかけずに寝よう。気持ち良いだろうなぁ。「へいお待ち、並ツユダクタマゴ味噌汁! ごゆっくりどうぞ」
店員が迅速に運んできた牛丼を前にして、俺のとことん後ろ向きな妄想は中断された。
この時間帯はかなり空いていて、俺の他には数人しか客がいない。
もっとも、晩飯どきなのでコンスタントに客は来るだろうが、朝のように極端に集中してはいない。 なぜあのバイトの女の子は、このような平和な時間帯に勤務しないのだろうか。人選を間違えているとしか 言いようがなかった。俺は無気力に七味を振り掛け、いい加減に紅生姜を乗せて、割り箸を手に取った。
少し力を入れて、パキンと割り箸を割る。すいません、この割り箸を使ったせいでまた森林を破壊してしまいました。再びわけの分からない妄想に入ろうとしたとき、家族連れらしき三人組が店に入ってくるのが視界に入った。 母親、息子、娘と言ったところか。まあ、そんなことはどうでもいい。俺はタマゴをかき混ぜ、牛丼にかけた。
すると、何やら家族連れの息子と娘がジーッとこちらを見ているのに気づいた。何を見ているんだ。 俺は少し気になって、丼をかき込むのをためらった。「いらっしゃいませ。ご注文をどうぞ」
店員が、素早い動作でお茶を配りながら家族連れに尋ねた。
母親はなぜかおずおずとした態度で、周囲を気にした様子で言った。「あのう……並、一つ」
「はい、並一丁」
「…………」
「あの、ご注文はお決まりでしょうか」店員は、さらに二人の子供にも注文を促した。
しかし、母親は申し訳なさそうに答えた。「いえ、並一つでいいんです」
店員は、少し怪訝な表情をしたあと状況を察したのか、驚愕の表情を浮かべた。
あの、かつて俺とその仲間がいかなる姑息な注文技を用いても眉一つ動かさずに完璧な記憶力で注文に 応じていた、あの店員が!
驚愕したのは、俺も同じであった。まるで、あの『一杯のかけそば』の、何のひねりもないパロディ (吉牛バージョン)のような状況に、遭遇するようなことになろうとは!俺の脳裏に、妄想が炸裂した。きっとこの親子は、今日が父親の命日だったのだ。それで、父親の遺言が 『お前らに、吉野家の牛丼を食わせてやりたかった』とかで、今日になってやっと吉野家まで来ることが できたのだ。しかし、経済的に厳しいこの親子は並一丁を頼むのが精一杯。あと九十円出せば、値段的にリーズナブルな 牛鮭定食を頼むことも出来たものを!
いや、それ以前になぜ百円引きのときに来ないのだ? 百円引きのときに来れば、同じ値段でタマゴに味噌汁を 付けることすら出来るというのに!
いや、違う。できることなら、彼らだって百円引きのときに来たかったに違いない。だが、百円引きのときは 店が混んでいる。そんなときに、家族連れで並一丁、などという恥ずかしい注文が正常な神経でできるだろうか? いやできはしない、できはしないだろうさ!
どうすればいい。何か俺に出来ることはないのか。こんなときに、吉牛士として俺にできることは、いったい何だ!店員に、硬直時間が発生していた。何かしなくてはならない。きっと、この親子連れは吉野家に来るのは 初めてなんだ。何かを見落としている。その何かを伝えなくては!
「あのう、すいません」
気がつくと俺はまるで、あの簡易アイスボックスに手をのばし、周囲をビクビクと見回し、 思いっきり不審にサラダを取ろうとしたものの結局行動に踏み切れず、止むに止まれず店員に 『そこのサラダを取ってもいいんでしょうか』と尋ねてしまうときのような情けない声を 店員にかけていた。
店員が、こちらを見る。俺には、言うべきことがあった。しかし、これでいいのだろうか? 違う、そんな疑問は関係ない。この親子には、今しかないかもしれないのだ!
それに比べれば、俺の一時の恥など! 俺の言うべきこと、それは……。「ツユダクにしてあげてください」
言ってしまった。
本当にこれで良かったのか。
余計なことを言って、この親子のプライドを傷つけてしまったのではないか。
だめだ。どこを見ればいい。俺のしたことの結果を、どうやって確認すればいいのだ。 一瞬とも永遠ともつかぬ時間が流れた。姑息な勇気を振り絞って、母親の方を見た。すると、母親は深く頭を下げていた。誰に向かって。 俺に向かってか。俺は、人に頭を下げられるようなことをしたのか。全く確信が持てない。 そのとき、店員が声を張り上げた。
「ありがとうございます、並ツユダク一丁!」
店員が、急ぎ足で店の奥に引っ込んで行った。母親は相変わらず頭を下げていて、子供二人は 笑っている。
俺は格好悪く笑うことしかできなくて、急いで丼をかき込んだ。