LDって何?


三四郎が小学校低学年の頃のわたしの日記を発見しました。
わたしが忘れていた彼の状態がよく書かれているので、
ここに書き写してUPしました。(1999.12.6)こちらから

T.LD=学習障害(児)の略です。(1998.7.22)

LDは英語のLearning Disabilitiesの略です。
「学習(人が生活していく上で必要な技能を修得していく力)に関係する能力の いくつかがうまく育っていない」ということだそうです。(上野一彦訳)
さて、我が家の長男・三四郎がちょっと普通の子と違うぞと思ったのは幼稚園 に入ってからです。集団で行動することが極端にうまくいかない。それは、決ま りごとが彼にはほとんど理解できなかったからだと思います。鬼ごっこ一つする にも彼は鬼になったらいやだいやだと騒ぐばかりで、同じ年齢の子とたくましく 遊ぶということがありませんでした。どちらかというと、嫌われていたのかもし れません。本人は天真爛漫で、どうして皆が、自分を排除しようとするのかわか らないから邪険にされながらも、友達について歩くのでした。
小学校に入る時 の就学時検診でひっかかったら、それから考えようと思っていましたが、何も言 われず入学。ひらがなは読めず書けずの状態でした。ほんとに読み書きが出来る ようになったのは小学4年生のはじめ頃でした。

一見したら何が問題なのかわからないけれど、集団生活や学習に極端に困難を きたす、このような子をよく学習障害児と言っていますが、実は1人々問題が違 うようです。どこかに障害があるから、こうなのですと言えない、不思議な欠落 をそれぞれが持っていて、努力では克服できず、否定されながら二次的な問題を 抱えていく子が多いように感じます。正直言ってわたしにもLDというものがよ くわかりません。 まだ続きます。お待ち下さい。

U.成長の過程をもう少しくわしく書いてみましょう。(1998.9.14)

2年保育で入った幼稚園。発する言葉は単語がほとんど。切れ切れの単語だけ。
意思表示はできる。また、言われている言葉もわかるみたい。しかし、お友達と 遊んでいて物が貸せなかったり、反対に借りたくて大騒ぎしたり。つまり言葉で 意志疎通が出来なかったのだと思う。
年長の時の担任とのやりとりは鮮明だ。わたしが「この子には何か問題がある ように思うんですが」と言うと担任は「少し遅れているけどお母さん心配いりま せんよ。そのうちわかるようになるから。」そう言われてそれにすがりたかった けど、いつも見ている母親の勘はそんなことではぬぐえなかった。「絵本をよく 読んであげて」とか「たくさん語りかけをしてあげて」とも言われたけど、それ は心がけてしていることばかり。そうしていてもこの子はある種の欠損をもって いるんではないか?と思わずにいられなかった。そんなに言うなら大通り小学校 の「ことばの教室」に行ってみたら?といわれて、連れていったこともある。先 生が三四郎を自由に遊ばせてくれながら観察したが「まだわかりませんね。次回 に来ていただく日をこちらから連絡しますから。」と言われてそれきり連絡なし。

小学校にあがると1年生だから幼くてあたりまえという雰囲気で、それなりに 溶け込んでいるように見えた。(実際彼は体が小さくて笑顔がステキでかわいい 子だった)しばらくすると朝一緒に行く同じ幼稚園出身の男の子が「おまえはバ カ!」と言って押したり石を投げたりするので登校途中泣いて帰って来ることが あった。わたしは心配で団地の5階の通路から彼らが見えなくなるまでしばしば 見ていた。彼が大泣きするのは友達に馬鹿にされたり邪険にされる時だ。友達に ついて歩きたい。相手にされていたらうれしい。

1年生の6月のある日、彼は学校から帰るなりカバンを置いて友達の家に遊び に行った。男の子数人が自転車に乗って彼を待っていた。小犬のように喜んでつ いて走って行った。
しばらくすると電話のベル音。知り合いのお母さんから「今ロープウェイ前の 電停で三四郎くんが車に跳ねられた。動いているから大丈夫だからね。
すぐ来て!」びっくりしたけど案外冷静。保険証など持って、寝ているいりちゃ ん(その頃2歳前)をそのままに、自転車で駆けつけた。すでに担任の教師が救 急車に乗り込んでいて、わたしを待っていた。三四郎は痛いよ〜痛いよ〜と叫ぶ ばかり。左足が力がない。しかしけがは打撲で、左足が倍くらいに腫れ上がった にすんだ。しかしどうしてそのようなことになったかを見ていた人などの話を聞 いて知るとわたしは深刻な気持ちになった。
自転車で青信号を駆け抜けていった友達数人。歩きの三四郎は追いつこうとす る。向こうから「早くこ〜い!」と言われてすでに赤信号になっているにもかか わらず飛び出した、というのだ。運転手さんにはお気の毒なケースだ。向こうか ら呼びかけた子供たちも気の毒だ。彼らが悪いわけではないけれど、心に傷を残 した子がいるのではないかとわたしは思う。

つまり三四郎はしてはいけないこと、というのが極端に理解できなかった。善 悪の判断や生活のルールといったもの。体験的に怖い思いをしたことによって以 後信号には注意するようにはなった。赤は止まれ、青は歩いてもいい、などと教 えても、では青でも車が近くにきていたら渡ってはいけないという判断ができな い。言葉で教え込もうとすることがほとんど意味がなかった。字も数字も彼には ただの形にしか見えなかったらしい。真似して書かせても容易に覚えられない。 文章を書く事はできなかった。絵日記などを書く時は、一文字ずつ教えて写させ た。数字の概念がないようだった。いつもほがらかだけど「わからない!」でわ めき始めたらしばらく静かにならない。(これは勉強だけの話でなく。)この子 には何か問題があるとさらに疑いつつ、夫がよき聞き役になってくれて何でも相 談できるのでどれだけ慰められたか。

小1の後半、新聞か何かで知ったのだろうか水道方式で算数を教えてくれると いう「暢学塾(ちょうがくじゅく)」とめぐりあった。そこは「学習に困難をき たす子のための塾」と銘打たれていた。先生と子供マンツーマンで2時間、遊び やおやつを含んで指導してくれる。ここは親が必要に迫られて作った学習塾だっ た。中心的に運営していた笠井さんという人が三四郎の様子を見て「ここに行っ てみたらどうかと思うんだけど」と「感覚統合」訓練を手がけている札幌医大の 当時衛生短大部の佐藤教授と弟子の小野先生に引き合わせてくださった。
小野先生は検査をした上で「学習障害と言える問題を持っていると思う。」と おっしゃった。その時始めて学習障害LDという言葉をはっきりと聞いた。それ でもよくわからなかったことも確か。だけど、彼が怠け者で努力しないから「で きない、わからない」のではなく、脳のある部分の働きが鈍いか、滞っているか で、理解できないのだということを教えられて、妙に納得した。小野先生は小学 校に出向いて担任に彼の状況を説明してくださると言った。そのことを担任に話 すと「いえ、僕が医大に行って話を伺います」と言ってくれた。まだLD=学習 障害という言葉がほとんど知られていない頃のこと。担任にも戸惑いがあったろ うと思う。しかし最初の担任から理解のある人だったのはラッキーだった。

それから毎土曜日、中の島の幼稚園の機具室で、感覚統合訓練というのを受け た。三四郎は人に触わられるのが嫌なようだ(前にならえ!をすると小競り合い になることもそれで理解できる)、目が回る状況でも回っていないそうだ、運動 バランスが極端に悪い・・・等々、それに対応する機具を使って運動する&遊ぶ。 たとえばボールプールの中で遊ぶ。(最初は用心して遊んでいたけど、次第に嬉 々として遊ぶようになった。)ブランコのようなものでぐるぐる回る。(目が回 らないらしいからへっちゃら。刺激して目が回るようにしてやるのだそうだ。) 小野先生は「この感覚統合訓練で何かが出来るようになる、目に見えて変わる と思わないでください。」と言っていた。わたしも果して何がしかの効果があっ たかはわからない。一見楽しい訓練を3年生の終わりまで(小野先生が信州に異 動するまで)続けた。
小野先生が何の根拠があって言ったのか知らないけど「きっと4年生くらいに なったら読み書きが出来るようになると思う。」とおっしゃった。夫はその言葉 を忘れなかったそうだ。その通り4年生の前半、車の中で見える看板を「ハルヤ マ」とか「ニチイ」とか読み始めた。それからめざましく読めるようになった。
ところで、三四郎はこれ程読み書き・計算が遅れていながら、誰にも特学に行 ったら?と言われず義務教育は普通学級で過ごした。彼は勝手に外に出てしまっ たり、危ないことをするという問題行動がなかった。黙って座っていたら、ほが らかないい子だなと思われていただろう。不思議なアンバランスさ。「宇宙人」 のような、わたしたちの理解不能な部分を持った不思議さ。
不定期につづく。

V.進学のこと(ちょうど1年前)(1998.11.13)

中学3年で進路を決める時、担任はまず、札幌市内で行けるところはないと思 うと言った。受け入れてくれるとしたら、登別の一私立高校と、余市の北星学園 だろうか、との事。あと成績を度外視した地方の道立高校。過疎化が進んでいる ところは高校を無くしたくなくて、成績が悪くても受け入れる傾向があるから。

余市の北星学園にドライブがてら行ったことがある。着いても三四郎は車から 出ようとしなかった。どうやらここに追いやられるような気がしたらしい。キリ スト教精神の高校だからその点はうれしい。しかし、ここには全国から不登校だ った子たちが集まっていて精神的なレベルはかなり高い。精神的に幼い三四郎が 下宿生活しながら彼らとうまくやっていける気もしないことは確かだった。
LDの子の第一の特徴は(三四郎を見て感じる事だが)他人とうまく付き合え ないことだ。状況を理解することができなくて、一人で「いやだいやだ」と騒い でしまう。相手の気持ちを想像することがとてもむずかしいようだ。余程理解あ る人でないと、単なるわがままか、おばかさんということで嫌われやすい。だか ら子供には好かれないけど、大人には愛されやすい。

担任に紹介されて、羽幌の手前の道立苫前商業にも息子と夫は見学に行った。
宿泊&交通は苫前町持ちの一泊見学会。帰って来た夫は、三四郎があそこで生活 できればこんなにうれしいことはないけれど彼には無理だろう。だいいち商業高 校の勉強に到底ついていけないだろう、と言った。
札幌市内に行くところがなければ寮や下宿になるだろうと思っていたけど、見 学に行けば行くほど、まだ手元において高校生活送らせたいという気持ちが強く なった。いよいよ行くところがなければ家から歩いて10分くらいの私立高校に、 直談判に行こう、こんな子ですが入れて下さいとお願いしようかと考えた。

中3の11月になってから、教会の若い牧師から高等養護は考えていないか、と 問われた。「三四郎は普通学級で過ごしてきて高等養護にはいれるんですか?」 とわたしの方が質問した。「大丈夫でしょう」と簡単に牧師は言った。この牧師 はうちの教会が不登校の子供を集めてやってる「コイノニア学園」の学園長も兼 務していて、子供たちの進路を独自に探し歩いていた。通学できる高等養護は少 ないけれど豊明高等養護は通学のみで、まだ親元から離すには忍びないさんちゃ んにはいいと思うんだけどなぁと言う。わたしはすぐに豊明に電話して見学させ てもらった。職業科の学校だけれど、体の丈夫な三四郎にはむしろいい訓練の場 かもしれないし通学することのメリットは大きい。一人で公共交通に乗って自在 に行動して欲しい。後日三四郎も見学して「うん、ここがいい」と言ったが、人 に迎合しやすい彼のことだからどれ程切実に思ったかはわからない。

まず教育相談所で知能検査を受けて下さい、その数値が高くても高等養護に入 れないし、低すぎても受け入れられないかもしれないということだった。中学を 通して相談所に行くことになっている。それで担任に話をしたら、少なからず驚 かれた。苫前商業だって受け入れてくれるようなのに、なぜ高等養護に?と思わ れたようだ。まず通学させたいこと。まだ親の愛情を注いでやりたいし教えもし たい。また、勉強がまったくついていけないのに、普通の高校に行ってお客さん でいることは彼には苦痛じゃないかと思う、とお話したと思う。友達も作って欲 しかった。普通学級では彼は浮き上がるか、浮き下がるかのどちらかだ。相手に されないのだろう、友達がいなかった。(以上の思いはすべて親の思い。)
相談所での検査では彼は高等養護に受け入れられるに十分な生徒だった。今ま で普通学級で授業をよく耐えてきたものだ、と心が痛んだ。12月初め、志望校を 豊明高等養護一つにした。学力試験じゃないと言ってもちょっとした学力的な試 験と面接があって、彼は受験生のドキドキを少なからず味わったようだ。合格発 表の日までおちつかないことしきり。合格の知らせを受けた時はホントにうれし そうだった。こんな風にして彼の進路は決まった。

LDの子供の進学は今深刻だ。入れてくれる高校が少ないということがまず最 初の難関。高校に万一入れても、中学と同じようにお客さまの状態が3年続くこ とがほとんどだ。彼らにあわせたプログラムというのが、義務教育にもなかった し高校に行ったらなおのことないから。ほったらかしか、落第か、あるいはいじ めにあうか、様々な問題に出会っているはずだ。じっと我慢すればやり過ごせる 3年間かもしれないが。また三四郎のように高等養護に入った者にも新しい問題 があった。ここでも彼は異質な生徒だった。今のクラス担任にもすでに指摘され ているのだが、社会常識や正しいことの理解が極端にむずかしい。単に知的障害 といえない独特のものがある。先生には「LDの子は本来高等養護には入れない んですよ。」と指摘されている。ただ、友達はできた。親友という言葉も使うよ うになった。女の子とも仲良くなったようだ。
LD独特の問題・・・このつづきは少々頭と理性と根気がいるため、またしば らくお時間を下さい。

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