「1986年のクリスマスカード」

 雪が静かに降り始めた。
 しんと凍てついた冬の空から大粒の雪がふわりふわりと落ちてくる。
 空には月も星も無かった。頬に舞い降りた雪が解けて、冷たい水になって首の方に伝い落ちた。
 「…いい店ありますよ…女の子たーくさん!…ねえ、せっかくのクリスマスがたった一人じゃ寂しいよ、おじさん。」
 今さっきまでスノーボードをしていたような格好の若い男が馴れ馴れしく私の後を追って来る。卑屈な目が鬱陶しい。用は無いというように手を振ると、舌打ちをして歩道の脇の雪山を蹴った。
 私の心は、コートの中の一枚のカードに集中していた。
 性質の悪い悪戯だと思う気持ちと、もしかしたらという淡い想いが交錯した。もしこれが悪戯だったとしても、どうしてこのようなカードを私に送りつけたのかが知りたかった。
 コンビニの前で、私はそのカードをコートのポケットから取り出し、コンビニの大きな窓から漏れる光にかざした。
 愛らしいキャラクターのついた小さなカードには、緑色のボールペンで几帳面そうな細かな文字がまっすぐに並んでいる。

     メリー・クリスマス!
     いつものように、楽しい楽しい「コロバ」のクリスマスパーティー!!        
     今年も朝までノンストップ!

     日時 1986年12月24日 PM:7:00

 私はその文字をじっと見つめた。
 13年前の日付のクリスマスカード。
 裏返して消印を見ると1986年の12月15日の差し出しになっている。 
 コンビニの自動ドアが開き、厚底ブーツの若い女が怪訝そうに私を見た。着メロが鳴り始め、女はコートから携帯電話を取り出しながらもなお私の方を見ているようだった。
 私はそのカードをコートのポケットに納めて、再び歩き始めた。
 かん高い女の声のジングルベル、ビング・クロスビーのホワイト・クリスマス、甘ったるいJPOPのクリスマスソング…
 信号を渡る度にめまぐるしく曲が変わる。
私はクリスマスイブに賑わう街の中を何度か折れ曲がり、ようやく目的の小路にたどりついた。 大きな通りから一本中小路に入っただけで町の喧噪が嘘のように消えた。
 私は小路の真ん中で立ちすくんだ。
 …この小路の奥の駐車場の手前を左に曲がって、…白州ビルの2階…
 除雪が不完全な歩道に足を取られながら、私は駐車場の手前を左に曲がり、雑居ビルの壁面に並んだ行灯の中に店の名前を探した。
 行灯の光は殆ど消えていて、点いているのはまばらだ。
 「コロバ」の看板は以前に見たときと同じく、ガムテープで×の字が書かれたままだった。2年前に閉店してから買い手のつかないその店はそのままになっている。
 「コロバ」は、昼間は喫茶店、夜は酒を出す小さな店で、大学のサークル仲間が良くそこに集まった。その当時の流行で店には小さなモニターにニューウェーブ系のミュージックヴィデオが映し出されており、私たちはその店で一番安いウィスキーを頼み、ポテトチップスを肴にいつまでも飽くことの無い会話を楽しんだ。サークル活動の主目的であるミニコミ誌の企画や編集の話をすることも有ったが、それよりは、最近一番関心を持っている音楽や映像の話をすることが多かった。
 サークルの中心になっていたのは、久瀬と井原と私の三人で、昼間は殆ど講義にも出ず学生控室で無為な時間を過ごし、夜は金も無いのに毎晩飲みに出かけた。とにかく調子が良くて人を惹き付ける(もちろん女もだ)才能に恵まれていた井原。人を笑わせ、楽しませる話術と文才に恵まれていた久瀬。理屈っぽく「評論家」と呼ばれていた私。それぞれ女の好みも性格も違ったが、不思議と気が合い共に行動する時間が多かった。その後、妻の織絵とサークルで知り合うことになり、久瀬や井原とだけ行動することはさすがに少なくなったが、それでも織絵を仲間に加えた形で飲みに行き、朝まで飲み明かすことも少なく無かった。
 楽しい日々は1987年の5月まで続いた。
 大学4年の初夏、久瀬は交通事故で呆気なく世を去った。悲しいという感情では無かった。当然あるべきものがそこに無い、という喪失感だけが卒業まで重苦しく続いた。
 井原は、運命の悪戯で私の就職した会社のライバル会社に入社し、私は就職後、対して時間の経たない内に、織絵と結婚した。
 最初、会社宛に届けられたクリスマスカードを見た時には織絵に話すべきかどうか随分迷った。2年前「コロバ」が閉店することを人づてに聞いた時にも、織絵は結局行かなかった。久瀬の印象が余りにも強く残っているからだ、と彼女は答え、少し涙ぐんだ。
 私は結局小さな嘘をついた。得意先のクリスマスパーティーに呼ばれてどうしても断れない、と。
 せっかくのイブなのに、と嘆きながらも織絵はそれ以上何も言わなかった。娘の誕生日にも早く帰れない仕事だから、とりたてて不自然な事でも無いのだ。
 私はさびれた雑居ビルの階段を登った。遠くから下手くそながなり声のカラオケが聞こえている。
 二階は廊下の照明が消えており、非常口を示す緑色の灯りだけが点っている。私は仄暗い廊下の奥に向かってゆっくりと歩いた。扉の上の行灯は割れて、もう「コロバ」とは読めなくなっている。
 扉の前に立った私は、しばらく逡巡した。ドアのノブにはうっすらと埃が積もっている。
 ゆっくりと手を伸ばしドアのノブに触れると、静電気がスパークを起こし、その衝撃に私はよろめいた。信じられないほどの衝撃だった。胸が激しく動悸を打っている。荒い呼吸を静めながら私は恐る恐るもう一度ドアのノブに手を伸ばした。今度は大丈夫だ。ざらりとした埃の感触を手のひらに感じながら、ノブを回すと思いの外鍵はかかっていないようだった。
 ゆっくりとノブを回し重い木のドアを少しだけ開けた。冷たい風が顔に当たる。中は真っ暗のようだ。期待外れな気分と安堵の気分が半々だった。
 思い切ってドアを全部開けた。
 
 ぱーん!

 耳が痛くなりそうなクラッカーが鳴り響き、目の前にまばゆい光が満ちた。
 「メリー・クリスマス!!」
 大勢の声が口々にメリークリスマス!と叫び、けたたましい哄笑が飛び交う。
 唖然として棒立ちになった私は、数人の手で店の奥に連れ込まれ、私は奥のボックスに放り込まれた。
 起きあがって周囲を見回すと、店の中にはサークルの仲間がにやにやして私を見ている。その姿はどう見ても昔のままだ。何一つ変わっていない。
 「びっくりしたかい!加賀美」
 振り向くと、そこには久瀬がいた。
 例え夢の中でも人は周囲の状況に同化しようとする意識が働くのだろう。私はごく自然に答えていた。
 「…ああ、十分驚いたよ。心臓が止まりそうだ。」
 にこにこしながら久瀬は、ビールを飲んでいる。カウンターでは井原が後輩の女の子にギャグを連発しているようだった。視線が合うと井原は手をひょいと上げて笑みを浮かべて、また女の子と話し始めた。
 私の目の前にビールが置かれた。顔を上げると織絵がいた。髪を肩まで伸ばしていた頃の織絵だ。
「…さっきまでねえ、久瀬さん、女の子達に大顰蹙買っていたんだから!くだらない駄洒落だけならともかく…あーんなこととか、こーんなこととかスケベなネタばっかり!!」
 久瀬は目をぐりぐりさせながらおどけている。
 少し気分の落ち着いてきた私は、店の隅の窓を見た。そこには大学生の私がいる。グラスを持つ私の手が少し震えた。
 店の天井からぶら下がったモニターにはトンプソン・ツインズのミュージックヴィデオが流されている。丸眼鏡をかけた小太りのマスターも昔のままだ。
 久瀬は後輩を相手に得意のプログレ、テクノ、ロック講義を始めた。ELPから始まって、YMO,つぇっぺりん、くらふとわーく、
盛り上がる話についつい私も口をはさみ、気がつくと、ナムジュンパイクの映像論や浅田彰の評論や筒井康隆の新刊の話で盛り上がっていた。話題になっている出たばかりの新刊の内容は、もうとっくに忘れかけていた昔の本だったが、
それでも話しているうちに粗筋は思い出すことが出来た。
「筒井はねえ…少しずつ読むんだ、俺は。全部一遍に読んでしまったらもったいないから、死ぬまで少しづつ読むんだ…」
久瀬は笑いながらそう言う。
「久瀬先輩なんて、長生きする典型の顔してますよ。ほら、じいさんになった時の顔が簡単に想像できると想いませんか?加賀美先輩」
話を聞いている内に、私の目はぼうっと熱く膨れ上がった。慌てて上を向き、グラスに残っていたビールを喉に流し込む。
 クリスマスツリーの電飾の赤や青や緑の光が目の奥で滲んだ。
 私はもうここに居てはいけないような気がしてソファから立ち上がった。
 「どうした?酔っぱらっちまったか?加賀美」
 心配して井原がそばに来た。
 「…何でもない…ただ、今日はこの位にしておくよ…」
 久瀬と織絵が手を振っている。
 私も手を振って答えながら、ドアを押し開けて外に出た。
 廊下は暗いままだった。振り返るのが怖くて私はまっすぐに階段に向かい、俯きながら階段を降りた。
 ビルから出ると、雪が激しく降っていた。
 小路から大通りにでると、目の前にホワイトイルミネーションの無数の白い光が降る雪に遮られて明滅している。
 通り過ぎる恋人達の脇をすりぬけながら、私はコートの中の携帯電話を探した。自宅にかけると、二回の呼び出し音の後、織絵が出た。
「…はい、加賀美です。」
「…あ…俺だ…」
「案外早かったのね…終わったの?パーティー」
「…ああ、今、終わった。」
「楽しかった?」
「とても…とても楽しかったよ」
「良かったわね」
「…子供達は?」
「まだ、起きているわよ。待ってるって…」
「…わかった、急いで帰る…」
電話を切り、私は地下鉄の入り口に向かった。
階段を降りる時、ガラスに映った私の姿は間違いなく30代後半のサラリーマンの私だった。
 安堵しながら、私はポケットの中のクリスマスカードを探した。
 カードは無かった。
 多分、「コロバ」のテーブルの上に忘れてきたのだ。残念なような気もしたが、反面これで良いという気持ちにもなっていた。
 …果たして俺の話を信じるかな…
 階段を降りかけていた私は足を止め、向きを変えて再び階段を登り始めた。
 地下鉄の入り口には小さな花屋があり、私はそこで薔薇の花束を買った。
 「めりーくりすます!」
 店の太ったおばさんが薔薇の花束を手渡す時に威勢良く叫んだ。
 メリークリスマス!
 私は小さな奇跡に感謝しながら、雪の舞う冬の空につぶやいた。 
 
 


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