ピクセル・ドリーム
 

 今日も雨だ。このところ雨ばかり続いている。
 鉛色の空に、シアン、イエロ、マゼンタのネオンがにじんでいる。
 頭の悪そうなパンクスの男女がショーウインドウの前に座ったまま、キスをしている。
 しあわせそうだね、君たち。スキンヘッドに雨は冷たくないかい?
 ロバートはにこにこしながら、パンクス達に投げキッスを見舞った。がらがらに痩せたパンクスの女の子は顔をしかめて舌を出した。
 この昂揚した気分!体が数千倍に膨張してしまって、自信がみなぎっているカンジ!
 みんなみんなヴィジュアルドラッグのプレゼントだ。
 ヴィジュアルドラッグに副作用が無いなんてのは嘘だ。    トリガー映像とBD刺激で搾り出された脳内物質は、LSDとたいして変わりがない。
 その興奮は突然やってくる。まったく不意に、しかも不連続に。甘美な励起状態…現実と幻覚の境界はいつも曖昧だ。時々、体が溶解して醜い巨大な昆虫になることもあるし、遠い宇宙の果てで「パートリッジファミリー」を見ながらハーゲンダッツのアイスクリームを食べていることもある。神様のように優しい気持ちで街を俯瞰することもあるし、凍えた猫の眼で、高校生の女の子の長い脚を見上げる時もある。
 所在無く街を歩いていた私は、いつものように「ROSE」のドアを押し開けた。
 初老のマスター以外店の中には誰もいない。
 カウンターの一番奥の席に座り、ダイキリを頼んだ。
 カウンターの片隅に置かれた小さなモニタには、車を運転する女の緊張した表情がクローズアップされている。ソリッドなモノクロームの映像には見覚えがあった。会社の金を使い込んだ女が、周囲の目を気にしながら逃走するシーンだ。この後、女はモーテルのバスルームで殺される。モノクロームの映像のはずなのに、奇麗に磨かれたタイルの硬質な質感、女の白い皮膚、金色の産毛、鮮やかな血の色がリアルに思い出される。真っ赤な血溜まりの中、放心して立ち尽くす私の姿…大きな柱時計が三点鐘を打ち鳴らした。長い長い三点鐘…あの映画にそんなシーンはあっただろうか…
 目の前に置かれたグラスの薄緑色の液体の中に映っている顔は奇妙に歪んでいる。
 「…大丈夫ですか?よろしければ冷たい水でも…」
 顔色が悪いですよ、と初老のバーテンダーが心配そうに私に声をかけた。
 「…大丈夫…ちょっと風邪気味なんだ…」
 バーテンダーは小さくうなづき、僅かな微笑を湛えながら、乾いたクロスでグラスを磨いている。言い訳のつもりで風邪気味だなどと言ったが、本当に寒気がしてきた。
 「ああ、忘れていました…先日、お連れのお客様が忘れ物をなさいまして…」
 バーテンダーは腰を屈め、カウンターの下の小さな引き出しから何か銀色に光るものを取り出し、私の目の前に静かに置いた。
 細身のライターだった。そのライターに見覚えは無かったし、この店に誰と来たのかも思いだせなかった。当惑した私の表情にバーテンダーは何か言いたそうだったが、静かに微笑みながら再びグラスを磨き始めた。
 私の中では、言い様のない不安が膨れ上がっていた。今まで何度もVDを試してきたが、こんな気分は始めてだった。VDの副作用であるランダムアクセスは混乱はするものの、決して不快な気分にはならないものだ。
 
 背後で扉が開く気配がした。バーテンダーは戸口の方を見てゆっくりと会釈し、それから私の方を見て悪戯っぽく微笑んだ。
 「お連れ様がいらっしゃいましたね。」
 驚いて戸口を振り返ると、若い女が立っていた。グレーのスーツを着たスクエアな雰囲気のその女は、何も言わず当然のように私の隣の席に座った。女の横顔を窺ったが、見覚えの無い顔だった。
 女はギムレットを頼んだ後メンソールの細い煙草を取り出し、カウンターの上に
置かれていたライターを手に取り火をつけた。煙草をはさんだ指が細かく震えている。
 どうやら、私は彼女と知り合いらしい。席替えで偶然好きな女の子の隣に座ってしまった時のような、妙にどぎまぎした気分だ。
 「随分、捜したのよ…ここに来るまで…」
 女の声は、鼓膜を通さず直接脳に響くような不思議な声だった。よく思い出せないが
その声には聞き覚えがあった。
 「ねえ、今どんな気分?」
 「…よくわからない…少し混乱しているようで…」
 「…混乱?…」
 女は私の顔を凝視めていた。吸い込まれそうな碧色の瞳に私は少しときめいた。
 あせっちゃいけない。視線を外し、グラスを傾ける。眼の前の小さなモニターの中で
ブロンドの女は小さなモーテルに入っていく。アンソニーパーキンスが慇懃な笑みを浮かべている。ブロンドの女の顔がアップになった途端、突然画像は静止画になった。
 静止画に見入っているうちに、私はモニターに異変が起きていることに気がついた。
 画面の左下から、きらきらと光る粒子が液体となってゆっくりと流れ落ちている。
 プラスチックのボディを伝って流れ落ちた粒子は、画像を映しながらカウンターの上にひろがっていく。
 驚いて立ち上がった私の足元に、恐ろしいほどの速さでその液体は広がった。
 液体化したピクセルが明滅しながら、私の足元に様々な映像を映し始めた。
 「…まずいね…これ…どうしよう、かな?…」
 女は、私に銃を突きつけている。
 この銃には見覚えがある。改造したエンフィールドだ。
 「動かないで!…」
 女は全く表情を変えず、銃を構えている。
 足元に流れ出した液体化したピクセルには、様々な人物が映し出されている。
 何かを喚き散らしている母親…初めてセックスした高校時代の女の子…交通事故で死んだ
妹………そしてぼくがころしたおんな…
 全てを理解して、ポケットの中の血の着いたジャックナイフを取り出そうとした時、
 全ての映像が消えて、僕の脳漿がはじけた。


目次にもどる旦那の独り言にもどる