戦争少女論

私的マリア・タチバナ論

  マリア・タチバナは戦争をしている。

 もちろん、対降魔部隊としての帝国華撃団は、組織的には陸軍、海軍に比してやや秘密めいた特務機関的な色彩が強いが、まぎれもなくそれは戦争装置である。しかしながら、その戦争装置の仮想敵は、特定の国家や民族ではなく、アウトサイダー=「魔」である。その意味においてゲームで語られる戦闘の敵は、反乱を目論む地下組織であって、明確な意思を持った戦争装置では無い。数多くの兵器(光武)を使って、いわば集中砲火的な攻撃で相手を殲滅しても、後味の悪さを感じないのはそのためだ。明確な意思を持った戦争
装置としての帝国華撃団と、アウトサイダー=「魔」の戦い。2.26を彷彿とさせるような映像表現に暗示されているように、「魔」との戦闘は、戦争でも聖戦でもなくあくまでも鎮圧である。好ましくない
存在を排除、鎮圧する組織としての帝国華撃団。その構成員は「魔」を殲滅せることにためらいは無い。主人公、真宮寺さくらにとって「魔」は先祖にさかのぼって邪な存在であり個人的な復讐の対象となっている。このことは戦闘の正当性を確保するために重要だ。(先祖代々という言葉は、日本人にとっては極めて怖い言葉なのだ。)
 ゲームとしてのサクラ大戦は、この真宮寺さくらの魔に対する因縁、復讐についての共感と、戦争装置として魔を殲滅する任務が相互に共鳴しながら進行していくのである。
 だが、このストーリーの中ではマリア・タチバナは、一人の完結した戦争機械として他のキャラクターとは全く異なる音楽を奏でている。
 多感な少女時代を革命という対立する強固な戦争装置の狭間の中で育ったマリアにとって、生活の幅を超えた思想の暴走さえも一つの日常であった。自らが選択した思想のために自らを完結した最小単位の戦争機械と位置づけ、ストイックに任務を遂行する少女。精巧に造形された精密機械のように黙々と任務を遂行し、命令のためには大量殺戮さえも厭わぬその姿は、畏怖と憧憬の対象だったに違いない。マリアは完璧な戦争少女だったのだ
 その完璧さゆえ、任務至上主義のストイックさゆえにマリア・タチバナは帝国華撃団の構成員として抜擢され、大神が来るまでは隊長の重責を担うことになる。同胞や敬愛する上官を失い、戦争の有り様に幻滅していたマリアにとって、手段を全て浄化してしまう降魔殲滅の目的は一つの救済だったに違いない。
 革命下の極限的な状況の中で一つの戦争機械と化した少女は、どのような敵(つまり人間以外の魔であったとしても)に対しても、戦争をしてしまう。
 「お前は何のために戦うのか」
 およそ目的が退行してしまったような狂信的なテロリストにさえも、マリアは多分問い質すのだ。
 「お前は何のために戦うのか」
 答えが得られるわけではない。だが、マリアの内部ではその問いを発することによって、一方的な鎮圧、
成敗の行為を戦争に還元するのだ。そして彼女は撃つ。
 サクラ大戦のオープニング、銃を構えかけて一瞬マリアは眼を閉じる。そして意を決したようにトリガーを引く彼女の姿こそが政治的な暴力を戦争に還元するマリアの象徴的なシーンだ。
 ロシア構成主義に特徴的な黒と赤のスタイリッシュなカラーリング。死と秘密を暗喩する黒衣、美しく冷徹な表情…十分に成熟した女性のストイックなエロティシズムと甘美なテロルの血のイマージュのアンビバレンツ…安易な対立論にはしたくないが、エロスとタナトスの融合は美しい。
 だから、
 だから、少女は銃を構え、軍服を着る。
 仮想空間の中に跳梁する戦争少女達…その生い立ちが悲しければ悲しいほど美しく、そのストイシズムが気高ければ気高いほどに悲しい戦争少女達…
 「愛の嵐」で半裸のナチス軍服姿で気だるくシャンソンを歌っていたシャーロット・ランプリングの貧弱な乳房…職業テロリストの傍らで大型拳銃を構えるマチルダ…猫のバスケットとマシンガンを抱えながら
狭い船内通路を疾走するリプリー…
 エロスとタナトスのイマージュの中に交錯する少女達の幻影の中に、何度も改造されたエンフィールドを
片手に立ちすくむマリアの姿が浮かぶ。
 もう、君は戦争をしなくてもいいんだよ
 エンディングでそんな台詞を心中つぶやきながら、
 あなたは、あなたのマリア大戦を終えればいい…
 
(BY モンペール旦那)1998・10・4

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