自立生活を考える
三澤 了(全国頸髄損傷者連絡会顧問・DPI日本会議事務局長)
■ なぜ自立にこだわるのか?
障害者の自立が叫ばれ、自立生活といわれるものの実践が各地で試みられ始めてから、かれこれ10年近い月日が経過する。しかしながら自立とは何か、自立生活とはどんな生活かということを真正面から問われると、答えに窮してしまうことになる。「自立した生き方とは、自分自身の生き方に対して自らの意志で選択、決定をし、その結果に対する責任は自らが負う生き方であり、自立生活とはそうした考え方に基づいて、自分自身が独立した主人公としての生活を営むことである」というようなことを読んだり、聞いたりするとなるほどと思うし、自分自身でも似たようなことを人前で話していることもある。だが、こうした言葉に全面的に素直になれない部分が残ってしまうのも事実である。
私自身、現在は独りで自分の家に住み、何人かの介助スタッフに生活の主要部分を支えられて暮らしており、誰からも管理されたり、強制されたりすることのない生活を送っているが、「自立生活」をしたいからこうした生活をしているわけではなく、現在の自分が自立していると胸を張って言うことにも、多少の抵抗がある。生活のなかで常に自主的な選択や自主的な決定をしてきたとは言いがたく、なりゆきに従って現在の生活が成り立っている部分も少なくはないだろうし、責任の果たし方も中途半端でうやむやにしてしまったことも過去に何回かはあるのではないかと思う。
ただ余計なところまで他人に頼って生きたくはないし、まして他人から"ああしろ、こうしろ"と強制されたくはない。社会の中で生きていれば様々な制約があり、それに身体の障害が加わるのだから、それほど自由気ままな生き方が出来るわけではないが、それでも可能なかぎり自由に、自分の力で納得のいく人生を歩みたいという願いを人並みには持っている。要するに自立したいとか、自立生活を追求するという意識はあまり強くはなく、一人の独立した個人として当たり前の社会生活を営みたいという欲求が私を支配していると言える。
■ 自立を支える社会的条件は何か?
しかし、現状では生活の多くの部分に介助を必要とするような重い障害を持つ者が、一人の社会人として普通に生きるということがそれほどたやすく出来るわけではない。人が正常な社会生活を営むためには衣食住を始めとして基本的な条件整備がなければならない。さらに誰もが生きることに誇りを持ち、自由で豊かな生活を営むためには、基礎的な条件に加えて個々の生活者の状況に対応するより肌理こまやかな生活条件が必要となる。しかし、障害者をとりまく生活条件や社会環境は十分な配慮や、質と量の厚みを備えたものとはなっておらず、障害者が普通の社会生活を営み、自立していくことを難しくしている。
いわゆる重度障害者と呼ばれる、雇用の対象となりにくく、生活の多くの部分に介助を必要とする障害者が独立した個人としての生活を営むために必要な社会的条件としては、所得保障の充実、住宅・移動条件などの生活環境の整備、介助体制の確立、社会参加の機会の拡充などが主要なものとしてあげることができる。これらの条件はまだまだ整備の途上にあるものばかりであり、私自身にとっても、また、私の周囲の障害者を見回してみても十分な条件が備わっているとは言いがたい状況にある。
私の周囲の障害者の多くは障害基礎年金を主要な収入としているが、その金額が独立した個人としての生活を賄うに足るものではないことは、誰もが認めざるを得ないところであろう。厚生省自身も年金が生活全体を賄うためのものではないと言明しているが、特別障害者手当というものはあるものの、他に収入の道を持たず、過去に蓄積のない障害者は、自分の生活を営む経費をいつまで経っても親や家族に負担してもらうか、生活保護に頼るしかないのが現状である。生活保護という制度は親や家族に扶養してもらうことを原則とする制度であり、障害者の独立や自立を支えるものとしては、はなはだ不適当な制度といえるが、他に手段がない以上やむを得ない。
障害者の独立・自立生活が経済的に保障されていないのと同時に、障害者を取り巻く環境条件も、独立した個人としての生活を築こうとする障害者の前に大きく立ちはだかっている。住宅問題は日本社会全体にとって深刻な問題であるといえるが、地域で独立した生活を営もうとする障害者にとって住宅取得の困難さは、一般の場合とは比較にならないほど大きい。民間のマンションやアパートを借りたくても、車いすや電動車いすを使用する障害者に快く貸してくれる人はまだまだ少数であり、不動産屋から門前払いを食らわされたという話は、頻繁に耳にする。一方、障害者の住宅対策の中心を担うべき公営住宅は、応募用件や入居基準が障害者の実態にあわないところも多く、必ずしも住宅対策の核とはなり得ていないのが現状である。特に単身障害者が入居できる公営住宅の数は、きわめて限られたものでしかなく、今後の拡充がもっとも望まれるところである。
介助体制の不備も障害者の独立生活を阻害する大きな要因となっている。母親を主とする家族に頼るしか介助のあてがない状況の下では、障害者が独立した個人として生きることははなはだ難しく、どうしても家族の保護や庇護の対象としての位置から抜け出ることができずに、依存心だけが肥大化してしまうということとなってしまう。介助体制整備に関してもっとも基本的な役割を担うべきものは公的介助サービスとしてのホームヘルプサービスであろうが、近年は社会の高齢化対策として、この部分の拡充を望む声が強く、国も一定程度の改善策を明らかにしている。しかし、介助問題の視点があまりにも老人問題に偏りすぎているという印象が強く、活動期にある障害者の生活を支える介助という視点が抜け落ちていると感じを抱かざるをえない。老人に対する介助と障害者が必要とする介助には重なり合う部分も多々あるが、本質的な違いも大きいはずである。特に障害者の場合はその人の生活スタイルや生活センス、あるいはその人を取りまく環境によって介助の内容も量も大きく変化するものであり、単に介助の量的拡大がなされれば良いというものではないと考える。
「障害者の自立を支える介助の在り方はこうだ」という程確固としたものを私自身持ち得ていないのが現状だが、各地で取り組まれている障害者の手によるケアサービスシステムの実践の中から、自ずと一定の方向が生まれてくるのではないかと、期待もし、楽観もしている。ともあれ、以上述べたような基盤の整備がすすめられなければ、障害者の自立とか独立した個人としての市民生活といっても、それはどこか変則的で、いびつな形態をとらざるをえないものに終わってしまうのではないかという危倶を抱いている。
■ 障害者自身の抱える課題は何か?
それでは条件さえ整えば、障害者の自立や自立生活は可能になるのかというと、残念ながら障害者を取り巻く状況はそれほど単純ではないようである。障害福祉年金から障害基礎年金に変わっていちばん喜んだのが障害者自身ではなく、障害者の親や家族であるという話や、同じく年金額がアップして顕著になったのは、障害者の部屋にビデオやオーディオなどの高価な機器が並ぶようになったことと、海外旅行の体験者が増えたことという傾向は、あながち悪いとばかりはいえないが、それでもやはり障害者が生活者として自立していくことの難しさや、制度的条件整備とは別に変えていかなければならない状況があることを物語っているように思われる。
従来の日本の社会意識は、障害者が特別の生き方を強いられることを拒否したり、他人に全面的に庇護されて生きることを拒否し、自分自身の意志で社会と積極的な関わりを持って生きたいと願うことを当然と受けとめるのではなく、そうした姿勢や願いは特別なこと、時として危険なことと位置付ける傾向が強くあった。こうした状況の中で障害者自身も多くの欠落部分や依存体質を始めとするいくつかの特別な体質を持っようになってしまっている。障害者が本当の意味で社会生活を営もうとするときには、多少痛みをともなうものであっても、それらを客観的に見つめてみることも必要であろう。
従来、障害者の生活は往々にしてあらかじめ他者によって用意され、与えられた生活である場合が多く、障害者自身もそのことに無感覚であったり、無抵抗でありがちであった。その結果、障害者は常に保護や庇護の対象とされ、社会的にはいつまでも子供扱い、半人前扱いされ続けてきた。依存することや支配されることに無感覚、無抵抗な状態が長引くとき、そこには肝心な部分を他人まかせにしてしまう"お任せ体質"とでもいうべきものが発生し、障害者を支配しようとする。その体質を野放しにしていると、自分自身の人生に責任を持つことすら放棄し、生きることの目的を見失ったまま、何事も適当なところで諦めてしまい、時として年若い時期から老人のように余生を生きる感覚がはびこることになる。
こうした状況を脱皮し、依存と支配を拒否して自分自身の生活を大切にしていこうとする考え方、自らの人生をいい加減なものとして扱うのではなく、自らの命を尊び、最大限の豊かさと充実を追求していこうとするのが、障害者の自立運動の理念であろう。そして、その理念にのっとって、障害者を子供扱いにし、半人前扱いにする社会を否定し、障害者が当たり前の市民として生きることのできる社会的条件や社会意識を作り出そうとする動きが自立運動の実践の基本であろう。
こうした考え方や意識が障害者の中に芽生え始めたのは、ここ10年足らずの間であろうが、その実践として家族から離れて一人暮らしを始めたり、施設から出てアパート暮らしをするといった、独立した個人としての生活を追求しようとする障害者が全国各地に生まれてきている。しかしながら、それらの障害者の中には自立意識だけは育っても、それを具体化する生活者としての感覚や消費者としての能力が十分に備わっていない場合も多く、社会生活を営む上でさまざまなトラブルを引き起こしているケースも見受けられる。
朝はいつまでも寝ている、時間にルーズで平気で遅刻をする。どこへ行くにも寝間着みたいなトレーナーを着て格好を構わない。そして日常的な生活経費には無関心なくせに、異常に倹約家であったり、その逆に時折の外出時には高価な買い物をしたり、豪華な食事をしてしまう。何らかの行動を起こすことはできても、その後始末や次の段階につなぐ作業を疎かにしてしまう。これらの指摘は障害者に対してつねづね浴びせられる批判であり、私自身も思い当るところがないわけでもない。どんな格好をしようと、どんな生き方をしようと個人の自由だという意見もある。しかし、社会生活を円滑に営んでいこうとする場合に上記の指摘を完全に無視していては正常な人間関係を築くことは困難であろうし、障害者が自立していく社会条件を作りあげていこうという主張も社会的な説得力を持つものとはなり得ないであろう。
■ 自分と社会を変えていく勇気と情熱を!
残念ながら、現状では介助を必要とするよう重い障害を持つ者が、自立した社会人として普通に生きていくためには、まだまだ特別な努力や作業をすることが要求される。介助者探しを始めとするしなくてもよい苦労をしなければならないし、日常的にちょっとした危険は、家のなかにいても、町のなかでも覚悟しなければならないだろう。また、スムーズに生活を営むために必要な道具や機器を取り入れたり、利用できる制度を的確に取り入れるための知識を身につけることや、介助に頼る部分をできるだけ減らす工夫と限られた介助力を有効に利用する技術の習得も必要となろう。
大げさな言い方をすれば、これらのことに積極的に立ち向かう意志と行動力が必要であり、極端に消極的であったり、必要な努力や作業を忌避していては、社会的な自立も自立生活も覚束ないこととなろう。誰かに言われて自立するのではなく、誰かのために自立するのでもない。自分自身が心豊かに楽しく生きていくために、自分自身と社会を変えていく勇気と情熱だけは持ち続けたいと思っている。
(頸損解体新書.1995, 北国の頸損かわら版.2001〜2002)