「命の大切さ?」 KARAKUCHI
生徒や学生が、人の命にかかわる事件を起こすと「命の大切さ」をもっと教育したいと校長は語る。
「命の大切さ?」
これは、いつでもどこでも、かなり教えているような気がするが・・・・教え方が間違っているのでは?
そもそも「命」とは何なのか?生物学的な「生命」が大切なのか?それとも?
その昔、ご飯粒をこぼしたり、残したりすれば、お百姓さんが真心込めて作ったものだから・・・と教育した。米一粒の大切さ、有り難さに説得力があった。語る親自体も、お百姓さんに感謝する心をもっていた。米一粒の物質的な価値よりも、その背後にある愛情、真心を感じたのである。
「命」の大切さも同じだろう。「命」自体よりも、その背後、即ち命が生まれてきた「原因」から考えるべきだろう。
「人権について」 KARAKUCHI
最近、気になる言葉の一つに「人権」がある。
本来、人権は、とても大切なものだ。しかし、人権を声高に主張する人々の話を聞いていると、人権というよりエゴ、自己中心という言葉の方が、似合っているように感じることが多い。
彼らのスタンスは、いわゆる弱者の味方のようだ。確かに、弱者は人権を踏みにじられる可能性が高い。それに対しては、断固として闘うべきだ。
ところがどうも「強者=悪、弱者=善」という単純なステレオタイプで物事を見ている人が多いようだ。彼らの主張する人権には、単なるエゴ、わがままに過ぎないものがかなりある。
感謝するということと、全てを肯定するということは違う。強者と見られている側にも問題は多いのは事実だ。恩恵を受けている事実をきちんと認識し、感謝しつつも、間違っている部分は断固として正していくという、自立した姿勢を持つ必要がある。
未熟な『知的自転車』 匿名
私は『パーソナルコンピュータ』という言葉の持つ響きが気に入っている。逆に『PC』という言葉は、冷たくて、悲しいほど味気ないイメージを持っている。
私の知り合いで「マックもウインドウズもよくわかんな〜い」と言う女性がいるが、彼女が私のマックを指さし、「そのPCが・・・」と話を続けたとき、妙な違和感を感じたのをよく覚えている。
別に彼女が悪いとか、そういう話ではないし、そこまで考えてしまう私の方が意識過剰だと思うのだが、コンピュータというものは、人間に身近な道具であるべきだ、というのが私の基本的なスタンスなのだ。
それが、実際はどうだろう?
かつて日本経済を支えた団塊世代の男達は、今や自分たちが作り上げてきた会社からのリストラに脅え、パソコンの操作が会社に残るための必衰条件と皆が思いこみ、満員電車に揺られながらパソコンの入門書を片手に「くそっ、パソコンくらい俺にだって使えるさ」という言わんばかりだ。
暇を持て余した主婦達は、旦那に「ねぇ、○○のお家もパソコンを買ったらしいわよ・・・」と猫なで声でねだる。ここでケチだと思われては男が廃ると、なけなしの給料をはたいて、決して安いとは言えないパソコンを妻に買い与え、自分は労働に汗水流す間に、世間知らずの妻は高速回線で接続されたインターネットの出会い系サイトにはまり、ガキに刺されている。
日本という国では、それを『IT革命』と呼んでいる。
コンピュータは、十数年前からハードウェア以外、大きな進歩はない。人々は、よりスピードの速いマシン、より見かけのよいマシンを求める。市場原理からいえば、ニーズに見合う製品を投入するのは、製造メーカーとして間違ってはいない。
『本当にコンピュータは、我々をよりよい社会に向かわせているのか?』
そのような議論をまれに聞くことがあるが、ナンセンスだ。馬鹿馬鹿しい。コンピュータは道具だ。道具は正しい使い方をしてこそ、便利なものへと変わる。道具が我々を幸福にしてくれるのではない、我々を幸福へと導くのは、我々自身だ。
コンピュータは会社にしがみつくための道具ではない。ガキに刺されるためのものでもないし、依存するものでは絶対にない。
かつてスティーヴ・ジョブズは、マッキントッシュを「知的自転車」と比喩した。人間は鳥のように空を飛ぶことはできない。しかし、飛行機を作り出し、鳥以上に空を飛ぶことができた。自転車は単純な構造ではあるが、人間の歩行能力を自転車という道具を使うことによって、飛躍的に高めることができた。コンピュータという道具も、人間の知的能力を同じように高めるためのものだ、と。
ローマ字変換で日本語を入力していて、誤って仮名変換のキーを押してしまい(基本的にマックのキーボードにはそのようなボタンはない)、『お』と入力したいのに『ら』と表示されてしまう。インターネットに携帯電話から接続するために数時間費やした結果、なかなかつながらないメーカーのサポートに電話で問い合わせる羽目になる。
不満を一気に書いてしまったような気がするが、もちろんパソコンによって生活が便利になった側面もあるわけで、コンピュータを否定するわけでもない。長々と書いたことを一言で言ってしまえば『パソコンは、まだ未完成で未熟な道具だ』ということだ。
その、未完成の未熟な道具に振り回されて生活するのは、まっぴらだ。パーソナルコンピュータは一部のパソコンおたくだけのものではない。少なくとも私は、逆にその未完成で未熟な道具を使い回してやりたいと思う。
当たり前の話だが、人生にはもっと大切なことや楽しいことが、知っている範囲だけでも、他にいくらでもあるということだ。
「介護と在宅ワーク」 楽ちん介護の探求者
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■■■ 私の在宅ワーク歴
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私の在宅ワーク歴も13年になる。これほど長くなるとは思わなかった。最初は夫の転勤に伴う一時的なものという位置づけで、職場復帰もしくは別の会社でステップアップの予定だった。
その間誕生した子供に障害があり、しかも重度であったことから、フルタイムで外で働くことは困難となった。もちろん、在宅ワークより外で働く方が作業効率、精神衛生上も、いいに決まっているから、ベビーシッター、保育園などにトライしたことは言うまでもない。障害者や高齢者であっても、病気をせず健康であれば、いろいろ道は開ける。しかし、今日元気だからといって、明日も元気という保障がないといった体調の子供を抱えては、チームで仕事をしたり、頻繁に打ち合わせをしたりという仕事はできない。やむを得ず、在宅ワーク状況が続いている。
幸い、パソコンや通信手段の性能が向上したことから、在宅ワークでかなりの仕事がこなせる環境が整ってきた。13年前のコンピュータセンターで動かしていた計算が、今ではパソコンに移ってきているのだから、この間のハードの進歩はすごい。パソコン、ソフトは会社から、ほぼ3年に1回、新しい機種を提供してもらっている。FAX、プリンターは個人持ちなので、スピードに難がある。
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■■■ 在宅ワークの有利不利
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好きで選んだ在宅ワークではない。在宅ワークしか選択の余地が無いのであれば仕方あるまいが、可能ならば外で働ける環境を目指すのが一番。「子育て期間中でから」とか、「会社の介護在宅ワーク制度があるから」といって、安易に在宅ワークを選択することはお奨めできない。
在宅ワークの最大利点は家でできるということ。従って、家から出られない人でも仕事ができるということで、働けなかった人が働けるというメリットはある。
反面、家で仕事をするということは、家の中に厳然とオフィスでも設けない限り、家事の山、育児や介護の渦中で仕事をすることになる。家事の山がドーンとのし掛かってくる気分になるときがある。これは、能率に影響する。家では何かと中断されることが多く、まとまった時間が必要な、資料を検討すること、ロジックを考えることには不向きな環境だ。通勤時間のないことにより創出された時間は、これで相殺されてしまう。
いつでも仕事時間が生み出せるようで、何かとじゃまも多い。日中家にいると、セールスの電話が多いことには閉口する。しかしながら、いざとなれば、深夜でも早朝でも可能。これは日中何かと雑事が多い主婦には、最後の手段である。
もう一つ、在宅ワークではいわゆるスキルアップが難しいという不利がある。今、どんな技術が必要とされているのかが分からない。私の場合は、仕事がほとんど無い時期、別のアルバイトで、CADやExcelを使いこなせるようになったと共に、今まで関わっていなかった新たな分野の知識を得ることができた。たまたま、これが、その後の仕事の範囲に合致していたのは幸運だった。
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◆■■ 在宅ワークを続ける条件
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まずは、仕事があること。これはなかなか難しい。こちらもそれでなくてもそんなに暇ではない。リハビリ、診察と頻繁に病院へも行くし、学校関係の行事やPTAもある。従って、いつでも何でもやりますという感じで営業ができない。
ひたすら仕事が来るのを待っていることになる。次に仕事が来ないかもしれないと思うと、何でも断れないという弱みもある。結構無理して仕上げる場合も多々ある。
それでもできる時間には限りがあるから、このくらい、これ以上はできないという範囲を主張することも必要。仕事と家事の区別を付けること。これは私にはとても難しい。これができる人は、在宅ワークに成功する人なのだろう。ある程度の家事の停滞には目をつむる勇気が必要。家族にも、仕事をすることが自分の精神バランスに取って必須なことなのだと理解してもらわなくてはならない。
○○ちゃんのお母さんという以外で社会と繋がっていられるのは仕事があるから。仕事があることが精神のバランスには不可欠な人間もいるのだ。それでも、仕事は自分の知的満足のための道楽と割り切れるほどドライにはなれない。
経済的に仕事することが不可欠な人から見れば、何とも贅沢な働き方だろう。余程特殊能力で無い限り、育児、介護をしつつ、在宅ワークだけで高収入を得ることはできない。この辺が、在宅支援の貧困な日本での限界だろう。
という訳で、新たに、パソコンを買って、何か家で仕事をしようという場合、最初から収入を目的とするのは不可能。まずは自分自身への投資、楽しみという気持ちで始めることが、長く続けられることになるだろう。
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◆◆■ 在宅ワークを選択するのか
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最近、大手ソフト関連会社で、介護のための、在宅ワーク期間を設定するという話があった。一年で終わる介護であれば、どんな手段を取ったところで、解決は容易な話だ。
繰り返すが、他の手段が可能であれば、在宅ワークを選ぶべきでないというのが私の結論だ。もちろん、人それぞれ性格も異なる。公私をきっちり区別できる人であれば、在宅ワークの利点を最大限に生かしつつ、生活全般をエンジョイできるだろう。自分自身はどういう人間かを見つめ直すきっかけでもある。
−−−− 迷っている方の参考になるでしょうか。それとも新たな不安になってしまったでしょうか。 −−−−
「私たちがマンションを買った訳」
楽ちん介護の探求者
◆やっぱり「家」は生活の基本条件?
バブルのころ、「年収の5倍で家が買えるように」などという言葉はむなしく、家を持つことなど夢のまた夢だった。「家さえ、諦めれば何でもできる」と、車を買い換え(もちろん、病院に行ったりと、車は必須だったけど)、あちこち旅行にも出かけた。
その時々で、一番条件のいい場所に自由に移動できる(もちろん、資金面の制約はあるが)ことを考えると、賃貸も捨てがたい。しかし、広くて、自由に改造できる家があればとの思いは次第に増していた。自分では移動できない障害児に広い家が必要とは、奇異に感じるかもしれない。専用の椅子、日中横になるスペース。車椅子で家の中を移動するためには、かなりゆとりがいる。お風呂、脱衣所等にも広いスペースが必要だ。できることなら、雨の日、大量の洗濯物を干せるスペースだってほしい。
贅沢を言えばきりがない。
改造も賃貸では限りがある。玄関までのわずか3段の階段が、どれだけ苦痛になったことか。
◆資金面から、新築マンションしか選択の余地なし
思い通りの家を望むなら、やはり一戸建てか。駐車スペースがとれて、広々して、段差のない平屋かエレベータ付き。それで、学校が目の前でなどというのは、予算上不可能。条件の優先順位は次のように考えた。
1.学校(兄弟で学校が異なる)、通勤から自ずと決まる地域
2.可能な予算(ローンの組易さ)
3.駐車場
4.広さ
5.間取り
条件1,2でもう、マンションしか選択の余地が無かった。さらに、ローンがたくさん借りやすいという点で、中古より新築マンションという結論になった。勿論、多額のローンにローン破産という言葉が頭に浮かんだ。資産価値などない
ことは承知していた。しかし、今、そしてこれから十数年の間が、一番、家が必要な時期なのだから、その間は何とかなる。その後は狭い遠い家でもかまわない。そういった気持ちが固まっていった。
◆40歳までにベッドにするぞ!
地域、予算、駐車場は、必須条件。後は、広さと間取り。
腰痛持ちに、布団は辛い。布団から抱き起こして、立ち上がるという時、膝に、腰に、痛みが走る。子供を落とすわけににはいかない。「40歳までベッドにするぞ!」は願望的な目標だった。そこで、ベッドを3台入れられる寝室が条件となった。子供が具合が悪いとき、夜寝てくれない。長期戦に備え、睡眠時間を確保し、体力を維持するためには、前半
お父さん、後半お母さんという感じで、交代で対応する必要がある。
◆お風呂は広くて、脱衣所広々あったかがいい
お風呂は子供と二人いっしょに入れることが条件。幸い、最近のマンションのお風呂は広くなる傾向で、まあ、不満はあるが、我慢できる広さのものが多かった。脱衣所に、横にして着替えさせるスペースが必要だが、これは、少なかった。
◆改造予定で購入決定
寝室とお風呂と脱衣所、この3つの条件を満たす物は意外に少ない。
玄関脇に物置きがあるタイプは、車椅子を置くことを思うと、非常に魅力的だ。こっちの間取りのこの部分とあっちの間取りのこの部分がミックスされていたら、と思うことはいっぱいあったが、自分で間取りが自由にできないもどかしさ。
玄関が狭い、ダイニングがもう少し広ければと、いろいろ不満はあったが、寝室、お風呂、脱衣所の条件クリアで、購入を決めた。将来、風呂、脱衣所、トイレを一体で改造できそう、玄関は下駄箱を取れば車椅子が置けそう、ということも決定の理由だった。
◆引っ越しは疲れました
引っ越しはやっぱり疲れます。「この際、いらない物を捨ててすっきり住もう」などと最初は考えていたはずなのに、最後は、「とりあえず荷造りが先」と、結局あまり必要のないものもそのまま持ってきてしまいました。前回、前々回の引っ越しから、全く開けられずにそのままであったダンボール。結局そのままでした。
というわけで、改造予定で買ったマンションでしたが、すぐに改造に取りかかる精神的余裕はなく(資金的にも余裕がなかった)、1年が過ぎて行きました。
◆限界に達した玄関の狭さ
我が家の玄関、典型的なアパート、マンションの玄関でした。すなわち、ドアを開けると、ドアの幅で半畳程度のたたきがあり、正面は廊下、側面の片側は靴箱、反対側は壁というタイプでした。
ここに、車椅子を置くとどうなるか、おわかりでしょう。車椅子の脇を、体を横にしてすり抜けて生活することになります。車椅子を畳めば、少々スペースが広がるものの、狭いことには変わりありません。おまけに、車椅子を置くのは、ドアの取手の反対側、多くの場合、靴箱の前ではないですか。ということは、脱ぎ捨てられた靴が、たたきの狭い残ったスペースに散乱することになります。
最初はバギー型の車椅子1台だけだったので、何とか生活できました。ところが、新しい車椅子がこれに加わったことにより、玄関の狭さは限界に達しました。
◆工事の開始
車椅子を置くために玄関を広くすること、これは入居時点からの課題でした。引っ越し疲れと資金不足からずるずる延ばしていた改造でしたが、狭さが限界に達し、いよいよ改造に取りかかることになりました。
工事期間は1週間。玄関の他に、寝室にもう一つドアを付ける工事も同時に行いました。ちょっとした改造ですが、大工さん、ペンキ屋さん、タイル屋さん、建具屋さん、電気工事に壁紙の張り替えと6人の職人さんが入れ替わり立ち替わりです。
工事費用は約50万円、このうち、玄関部分の改造については、一部自治体からの補助がありました。
◆玄関の改造ポイント
玄関は、ます、靴箱を取り、そこに車椅子を置くスペースを確保することにしました。上部の棚は、半分が配電板なので、そのまま残しました。靴箱があった場所は、床はタイル貼りに、壁は靴箱があった部分の高さまで板貼りにしました。板張りにした理由は、車椅子で壁を傷付けたても汚れが目立たないようにというものです。
反対側の壁は30センチほど部屋側に引っ込めました。これで、車椅子の乗り降りの時、回り込んでの介助が楽にできるようになりました。
引っ込めたスペースの一部には、新たに靴箱を設置しました。これは、工事とは別で、スペースにピッタリの注文家具としたので、結構割高でした。大工工事やシステム家具とすれば、工事費にいくらか上乗せする程度でできたでしょうが、スペースもぎりぎりでしたし、玄関の顔といった意味合いもあったので、ちょっと奮発しました。
狭くなった部屋の方は、玄関側の壁いっぱいに収納スペースを取りました。以前から持っていたシステムタイプの本棚と通販の本棚を組み合わせて、天井までの本棚です。一部は、パイプと上部の棚板を追加して、コート掛けとしました。
それでも荷物はいっぱい。これは、何でも取っておく習性のある家族なので、なかなか解決できない問題です。
◆床板、壁紙について
入居から1年で改造したので、まだ壁紙等はそんなに汚れていませんでした。そこで、マンションの施工会社に、床板、壁紙等の内装材の会社と品番を問い合わせて、同じ内装材を使用しました。床や壁に継ぎ目は、あまり目立ちません。
気に入った壁紙に取り替えて気分を一新する楽しみはありませんが、我が家のように、あまり時間を置かず、改造をお考えの方は、あらかじめ内装材を問い合わせておくことをお奨めします。
「乗り物の話」
楽ちん介護の探求者
●石原都知事の新機軸第3段
銀行への外形標準課税、ディーゼル車の粉塵除去装置の義務化に続く、石原東京都知事の新機軸第3段として、都内を走る車への課税の話が出ていた。車の通行量を規制するためにはそれしかないかな、という意味では大賛成である。しかし、車に乗るしかない人たちの公共交通利用が可能になるような施策は考えているのだろうかと不安を感じる。
●車に乗るしかない現状
確かに車はドアツードアで楽ちん。でも、渋滞があったり、近くまで来ても駐車場を探して時間がかかったりと、決してベストの乗り物ではない。荷物が多い時、雨の時は誰だって車の方が便利。車椅子は、常に大きな荷物と共に移動しているようなものだから、車が便利。
そもそも、ほとんどの公共交通機関は元気で体力のある人、荷物もなく身軽な人しか向かないようになっている。山手線など、ラッシュアワーを避けても、すいている時間など皆無という状態では、ハンディのある人は利用しづらい。エスカレーターも完備まではまだまだというところだし、最近やっと増えたとはいえ、エレベーターはほとんど設置されていない。日本を代表する東京駅ですら、エレベーターは一般のルートと別の位置にあり、ハンディのある人が気軽に利用できる形態ではない。駅員を呼ばなければ利用できないエレベーター、エスカレーターも多い。
蛇足だが、鍵のかかっている車椅子用のトイレほど役に立たないものはない。
最近開業した都営地下鉄は、その点改良されている。各駅の目に付く位置にエレベーターが設置され、誰でも利用できるようになっている。この状況で初めて気軽に電車で移動ということが可能になる。
●車での移動も大変
車で移動といっても、楽ではない。駐車場が近くに見つからない場合、雨でも降ったら大変だ。車に乗せて、車椅子を畳んで、乗せてと腰にずしんと来る。いずれはリフトカーにするしかない。時間に確実ということからすれば、電車がいい。でも、気軽に電車には乗れない。
●ベビーカー論議
14,5年前は、ベビーカーで電車に乗るということはできなかった。折り畳んで持つようにとの放送、表示がされていた。片手に子供を抱き、片手にベビーカー、背中に大荷物(ミルクにおむつ、着替えと赤ちゃん連れは荷物が多い)、危険きわまりないスタイルだ。もう一人兄弟を連れてなどとなったら、全くどうすればいいというのだろう。
これが変わってきたのは10年前くらいからだろうか。
私がしばらく暮らしたスウェーデンでは、乳母車で地下鉄に乗るというのは当たり前の状況だった。もちろん、ラッシュアワーを避けてというのは言うまでもないが。駅にはエスカレータが完備され、エレベータも必ず設置されていた。核シェルターにもなるように計画されたという地下鉄であるから、堅い岩盤の地下深くに作られた地下鉄、健康な人でも階段での上り下りは考えられない。
子供を乗せるのもベビーカーなどという折り畳みができて軽量のものとは全く別物の、頑丈で重い乳母車である。日本の軽自動車に対し、ボルボといった感じの乳母車である。それを、ひょいとエスカレーターに乗せている。私は、日本製の軽いベビーカーに乗せた子供を、上りに乗せるのがやっと、下りは冷や冷やモノ。やっぱり骨格が違うのかと思い知らされた。
でも、多くの人がベビーカーで外出するからこそ、車椅子でも便利なようにエレベーターが設置されているのではないか。そんな風に感じた。
振り返って、日本。ベビーカーの電車への進出は、車椅子にとっても頼もしい仲間と感じていた。利用者が多ければ、エレベーターだって、エスカレーターだって設置の可能性が高まる。ちょっとしたハンディのある状態にある人誰もが利用することを考えれば、別ルートなどという不便な場所に設置するはずがない。
残念なことに、未だベビーカーで電車に乗ることに反感を持つ人も少なくない。しばらく前、新聞の投書欄でのベビーカー論議も賛否相半ばという感じだった。乗るなと言う人、子連れは全くどうやって移動したらいいと言うのだ。子連れという一番人数の多いハンディキャップに優しい社会の実現が、ハンディのある人全てに優しい社会への第一歩だ。
●ハンディのあるひとということ
ハンディのある人というのは、車椅子に乗っているというような場合だけでなく、ベビーカーの親子連れ、足の弱いお年寄り、妊婦、体調の悪い人、大きな荷物を抱えた人と、誰もがハンディを抱えた状況はありうる。ハンディということを広い意味でとらえないと、誰もが自分自身の問題としてとらえないと、誰もが暮らしやすい社会の実現は難しい。
高齢化は誰もに関わる問題。高齢者、赤ちゃん連れという多数派のハンディキャップの存在は、社会を動かす大きな力になるはず。
明るい未来の実現の糸口は見えていると思うのだが。
「こんなホームヘルパーがいいな」
楽ちん介護の探求者
●ヘルパーを頼むには、気力が必要
ヘルパーにできること、できないこと、頼みやすいこと、頼みにくいことがある。ヘルパーがいれば、全て簡単に解決というわけにはいかないのが、人を相手にする仕事の難しさか。
ヘルパーというのは他人が家に入ること。何となくヘルパーの来る日はちょっと家を片づけて、とかえって疲れてしまうし、やってもらうこともなくなってしまう。大変だから手伝って貰うのだと、家がごちゃごちゃしていることを見せてしまう。これができるかできないかが一つのハードル。ヘルパーに任せるというのは、多少気に入らなくても任せるという気構えが必要。これもまた、ハードル。
現在のところ、ホームヘルパーは素人である。今後、ヘルパーが専門職となっても、我が家のことについては素人なのだから、任せるのはなかなか大変。我が家流の介護と家事を伝授するつもりで、人を育てる気構えで取り組まなくてはならない。その気力があるうちに、ヘルパーに入ってもらうことが、ヘルパーに対する満足感につながるのではないか。介護疲れが限界に達したならば、煩わしさが先に立ってしまう。
●身体介護ができる?
身体介護といえば、食事、お風呂、排泄の三つがポイントか。状態にもよるが、食事を食べさせるには、介護する側される側、双方に、慣れて貰うことが需要。食べやすいもの、食べにくいものを説明しなくてはならない。どういう食形態がよいのか、好きなもの、嫌いなものは。いざという時のため、
市販のものでは何がそのまま食べられるか。こういったことをマニュアル化して 一枚のカードに書き込めるようにし、本人(ないし家族)とヘルパーの間で取り交
わしておく。状態に変化のあったときは、内容を更新することも忘れずに。 見やすいカードの表示がマニュアル化されれば、ヘルパーが変わっても、一定の質の介護が受けられよう。
お風呂、我が家では、ヘルパーは前後の着替えの手伝いのみ。それでも、後で、 ゆっくり一人でお風呂にはいれるだけは助かっていますが。
ヘルパーには、最初から、「やります」という感じで、水着持参の気構えが欲しいところ。やっぱり、最初が肝心、こちらの体調が悪くなってからでは遅いかなと少々反省中。
排泄。これも慣れて貰うしかない。できるだけ、介護しやすい住環境を整えておくことが、本人、家族の役割か。
●家事援助はやっぱり大事
本当は、身体介護を十分やってもらえるなら、家事援助の比率は低くなるだろう。 でも、身体介護の手助けには少々力不足というヘルパーの現状からして、家事援助でもやって貰わなくては役に立たないという気になるのも事実。
また、本人、介護者がいつも元気なわけではない。具合が悪く、買い物にも出られない事態も多々ある。そういったときに、いつもの買い物をお願いするには、日頃から、頼んでおかなければ無理。具合の悪いとき、どこそこの店のどのおむつなどと指示できない。
介護のために付随して発生している家事も多い。特別な調理、洗濯など。 これを援助してくれないヘルパーなど無意味。介護者は日に何度となく手を洗う。
だから手荒れがひどい。「あかぎれ」など現代の死語が日常的。ひびのある手での水仕事ほど辛いものはない。HELPER,HELP?
●本当にほしいのは家事のプロ?
家事というのはその人流、それぞれの流儀がある。料理の味付けなどは言うまで もなく、洗濯物の干し方、畳み方、雑巾の絞り方に至るまで、それぞれ違う。日本の家事全般に言えることなのかもしれないが、和洋中、食器も、家具もいろいろあって、マニュアル化されていない。もう少し、家事の外部化、産業化が進んで行けば、解決するのかもしれないが、今のところ、無理。
本当は、家事のプロに頼みたいというのが、一番求められているヘルパーの姿かもしれない。
●ヘルパーを育てていこう!
やはり、ヘルパーに頼むのは大変。私たち介護者は何しろ専属の介護者でプロなのです。ヘルパー(介護補助員)が専属介護者よりできないのは当たり前。だからこそ、そうやってヘルパーを育てて行くのが介護者の役割。頑張りましょう。