中島寅彦さんのレポート&コラム




「五体不満足」の満足度

 生まれつき両手足のない早稲田大学生乙武洋匡氏の「五体不満足」が三百万部以上も売れている。ある一週だけの売り上げをみると、「窓ぎわのトットちゃん」を抜いて過去最高を記録したともいう。この不景気に度肝を抜くような話である。口に筆をくわえて花の絵をかく星野富弘氏の詩画集も総計数百万部というロングセラーを続けているが、障害者の本が単独でこんなに売れたのは初めてのことだろう。それはもちろん内容が優れていたからだろうが、これだけの大ベストセラーになると内容だけでは片づけられない。三十万部くらいなら素直に称えていた人も、三百万部となるとちょっとおちょくりたくなるだろう。障害者たちも心中穏やかならぬところがあろう。

 いったいどういう人たちが買っているのか興味の尽きないところだが、新聞や雑誌への投稿類を見るかぎりでは、子どもをもった若い主婦などが多いようだ。たとえば、級友や教師の思いやりにあふれたエピソードは彼らに感動ョと勇気を与えている。イジメやシカトや清潔病や学級崩壊にさらされているという学校現場などどこ吹く風という感じで、キツネにつままれたような気もする。教育関係者なら当然そこから何らかの知恵を汲み取りたいと思うだろう。もっとも、そこに共通しているのは手放しの賛^美ばかりで、批評精神に裏打ちされたものはほとんど見うけられない、というのも一つの特徴である。もっと詳しい分析を聞きたいと思うのだが、障害者の本を自由に批評する風土はまだまだ培われていない。 

 折しも巷では「だんご3兄弟」というCDも三百万枚を超えヲる大ヒットをみせ、「およげ!たいやきくん」を抜いて過去最高を記録するのではないかとかまびすしい。さらに偶然ではあるが、日本の失業者数も過去最高の三百万人を突破したという。長引く不況の停滞感から景気のいい話に飛びつきたくなっていたマスメディアの、これらはヘかっこうの標的になっている。

  初めの数十万部くらいは純粋に内容の秀逸さから買われただろうが、そのあとの騒動はまた別の現象と言えるだろう。マスメディアの喧伝をきき「話題に取り残されてはいけない」というミーハーさから買われるのが、こういうおばけ本のなりゆきである。かつて「窓ぎわのトットちゃん」が四百万部以上のベストセラーになったとき、「この程度のものなら地方の文芸同人誌でも書かれているのに」と、ある古老の同人誌作家から憤懣が述べられていたことを思い出す。大量に売れることと作品の質とはあまり関係ない場合が多い。もっとも、そんな古老たちもある毒舌の女流作家から「そんなことを言ってるからあなたたちの作品は売れないのよ」などと切り返されていたが。ともあれ「窓ぎわのトットちゃん」「およげ!たいやきくん」「だんご3兄弟」「失業者300万人」「五体不満足」と並べてくれば、何やらうっすらと透かし出されてくるものがありそうである。

  おおざっぱに言って、障害者の創作はどうしても「お涙ちょうだい」式と、その反動としての「どっこい生きてる」式が多くなる。それは通過儀礼のようなもので、その後「抵抗の文学」「自然の写生」「想像力の可能性」型などへ深められてゆくのだが、この本は一見「どっこい生きてる」式のエンターテインメント版とでも言えよう。少なくとも類型を突き抜けている。文章は漫画的・劇画的で、それに馴染んだ世代には読みやすいだろう。やはりこういう明るく軽ーいノリでないと売れない時代なのであろうか。出版関係者などから言わせると、現代は辛辣な批判など誰も聞きたがらず、当然そういう本は売れないという。山積する難問にとりまかれて、みんな神経が衰弱しているのであろう。痛々しいことだ。

 まず、タイトルが内容とそぐわない。「不満足」という語が五体の不満足だけではなく、境遇への不満足まで含められた否定的で社会糾弾的な本なのであろう、と読者にいきなり先入観を抱かせる。どうせ例のごとく苦労話のオンパレードだろう(もっとも日本人は苦労話がきらいではないが)と高をくくって読みはじめたところが、意外にも障害を肯定的に受け入れてあり、明るく楽しく前向きに生きる好青年の物語であることに驚き、自分の浅はかな思いこみが恥ずかしくなり、その償いの気持ちをまじえて他人に吹聴したり薦めたりしたことだろう。

 タイトルとともに表紙の写真が目を引く。これが大半の直接的な購入動機と言えるだろう。今まで障害者モノといえば「車いす」とか「白杖」とか「手話」などでワンクッション置かれてきたのだが、いきなり両手足のない若者が白昼公然と映し出されたことの衝撃は小さくない。特注の電動車いすもさながら引田天功のマジックでも見ているかのようだ。横並び意識に憑かれた日本の社会の中で、それは出版社にとって一つの賭けであったろう。そして彼らは勝ったのだ。同じように手足のない障害者の本として先鞭をつけた中村久子氏の「こころの手足」や大石順教氏の「無手の法悦(しあわせ)」の場合、静かで息の長い感動は呼んだもののこれだけ爆発的な反響は呼ばなかった。あれから時代がさほど寛容になったとも思われないのだが、この進展はどうしたわけだろう。両氏のように特定の信仰に結びついてゆかないところも、ニュートラルな現代人には取りつきやすかっただろう。

 おそらく人々は小人症のプロレスはたまた大相撲の小錦関でも見るように、ある種の「恐いもの見たさ」から手に取ったフシがある。実際、同時期の書籍売り上げベストテンには「本当は残酷なグリム童話」(正続)などが上位を占めている。しかし、「五体不満足」の場合、そこにちょこなんと座っている作者のとびきり素敵な笑顔と内容のすがすがしさに大きなギャャプを味わい、読んでいる途中で何度も表紙の写真へとって返し、見くらべるはめになったことだろう。そのとき作者の笑顔が脳性マヒのように歪んでいたら女性の大半は買わなかったかもしれない。そういうギャップの効果を作者あるいは出版社が狙っていたのだとすれば、なかなかしたたかだしちょっとイヤらしい。

 次に「まえがき」に出てくる母親のご体面のセリフ「まあ、かわいい」が静かな衝撃を呼び起こす。普通に考えるならサリドマイド児などの例に見られるとうり、手足のない子が生まれてくる原因の一つとして、母親が妊娠中に睡眠薬などを飲んだ副作用が考えられるのだから、聡明な母親としては当然それに類する自責の念がよぎったはずである。にもかかわらずこんな第一声が口をついて出る母親とは、一体どういう精神構造をしているのであろう。自責の念よりも普遍的な母性愛というものがはるかに凌いでいたということだろうか。だとすればそれは世紀末を救う灯火になってくれるかもしれないという希望を抱かせる。そういう母親とそれを支えた父親の来歴をもっと知りたいという気持ちで先を読んだ人は多かっただろう。それにしては彼らの内面へと迫る記述が今ひとつ物足りない。

 バリアフリーの雑誌「WE’LL」編集部の加藤薫氏によると、「他の多くの障害者たちは自立をめぐってたいてい親(とりわけ母親)と激しい軋轢や確執を経験するのに、彼の場合ほとんどそんな形跡が読み取れないのは奇異なくらい。もっとも、こんなに意識のひらけた両親を持てば反発など感じようがないのかゥもしれないけど」と言っている。確かにそこに今一つリアリティを感じとれないでいる障害者たちは多いことだろう。しかしご心配には及ばず、これから大学を卒業したり就職したり独立したり結婚したりする過程からバトルは自ずと生じてくるのかもしれない。随所に「障害は不s幸ではない」「障害者もみんなと同じようにやりたい」「障害者も悪いことをする」「障害者はもっとおシャレを」などという力強いメッセージが登場する。障害者の本を読み馴れない人には新鮮だろうが、これらは別段目新しいものではない。すでにいくつかの先達がある。しかしそれら単発的な逸話を一冊の読み物にぐいっと統合する編集力があり、これが特筆すべきところであろう。小学校時代からクラス委員や各種イベントの仕掛けなどを率先して手がけてきた作者ゆえの果報であろう。

 彼はあの身体に似合わず電動車いすから下りてもちょこまかとニ動きまわりバスケットボールやサッカーを楽しむ。そういう映像をみていると、彼の意識はほとんど健常な少年のものと変わらないのだろうと気づかせられる。つまりそれだけのことなのだ。それだけのわかりやすさがこんな社会現象にまでなってしまう現代日本のほうに、受け入れ体制の問題が秘められていそうである。たとえば先の加藤氏の聞き取りによると、「こんなに明るいとイジメられる」という小学生の声もあったという。なんともいじましい。

 ところで清潔病にとり憑かれているという点で、多くの若い読者が「排泄はどうしているのだろう」と素朴な疑問を持ったことだろう。はばかりのある話題ではあるが、彼くらいにさばけているのならユーモアにくるんで解説してみせても面白かった。そうすれば子どもたちに何かしら「清潔」の概念を突き抜けた示唆を投げ与えられたかもしれない。いずれにしても障害があろうとなかろうと、人間の実像に迫れているかどうかが評価の分かれ目である。そういう意味では、ともすれば自画自賛になりがちな体験談の中で、学校時代あまりにやりたがりの性格のため級友たちに煙たがられていたかもしれないと自己批判してみせるくだりや、高校時代いわゆる不良と付き合って教師たちをやきもきさせるくだりなど率直に書き込まれていて、自分を見つめる「もう一人の自分」の視線をもかろうじて導き入れている。表現者にとっては不可欠の資質である。それが障害関係者だけでなく一般の読者へも広く浸透させた理由だろう。

 後半部で彼が障害者運動にかかわってゆくことで、自分の存在意義を見いだしてゆくという下りはこの本の佳境とも言えるし、確かに多くの障害者たちが到達してきた英知でもある。障害者が健常者にまみれて働くのは、一見けなげに取り上げられがちだが、それは資本主義の経済効率一辺倒の悪弊の片棒をかつぐことにすぎない、たとえ働けなくとも福祉を通してまわりの人たちに愛とやさしさの意識を目覚めさせることができる、それもまた障害者の大切な仕事の一つであるというのだ。 しかし彼の場合よくよく考えてみると矛盾している。今まで健常者と変わりなくやり通してきたのだから、卒業を間近にしても普通のサラリーマンや公務員や俳優や左官などを目指す、というのが論理の一貫性というものではないか。そうやって健常者にまみれて働いたり楽しんだりする中から当然生じてくるはずの軋轢や理不尽の数々、そのとき彼らしいバイタリティで打開策を見いだしてゆく、そういう局面を読者は期待していたのではないだろうか。

 だから最近のマスメディアでの彼の活躍は、本来の主旨からちょっとはずれて、頭越しで障害をダシにしているように見える。もっとも、彼は目立ちたがり屋だから、それを望むところと受けて立っているようだ。なるほど障害者タレントという領域は未開だから挑戦してみる値打ちはあるだろう。しかしそこらあたりから一般の障害者たちとは隔たりができてくることを覚悟しておかねばなるまい。

 障害者内熾狽らも賛否両論が寄せられている。たとえば「週間文春」(四月二十九日号)での特集「『五体不満足』三百万読者への警告」や、「諸君!」六月号の櫻田淳による「『五体不満足』をめぐる奇妙な論理』や、バリアフリーの生活情報誌「WE’LL」一七号の「ズレてゆく関係」などを通して、「悲壮感がなくてよい」「彼はエリートだから・・・」「障害者の現実に楽天的すぎる」「苦しい部分をなぜ隠すのか」「あの若さで印税生活とは羨ましい」「長い目で見てやろう」「障害者は障害についてしか語らないものだとニいう固定観念を打破しなければならない」「マスコミでの扱われ方には疑問を感じる」などなど、どちらかというと批判的な意見が多い。いずれにしても、あの「自分をこだわりなく肯定できる」才質は明らかに戦後の日本人には希少なものなのだから、なんとか活かしてほしいところだ。  

 最後にひそかに気になる読後感を。ここ数年、オウム、ノストラダムス、ダイオキシン、日の丸君が代法制化、新ガイドライン法案など、何やら暗雲たちこめてくる世相の一方で、「いや、このままでもいいんだ」という《大肯定時代》も始まっているようにみえる。前途不安なことばかり突き詰めて考えていると気がふれそうになる、それより今あるもので満足しよう、障害だってなかなか味のあるものではないか。「五体不満足」はまさにそういうメッセージを投げかけてくるように見える。それ自体は人間の智恵とも言えるし、別に作者にノなんらかの責任を押しつけるわけではない。けれども、世の中にはそれを利用しようという輩が必ずあらわれてきて、話をややこしくて油断ならないものにしてしまうのである。

 高度経済成長時代の日本はあまりに多くのものを失ってきたので、「失ったものは数えず、明るく楽しく前向きに生きよう」というメッセージは心地よく受け入れられやすい。しかしそれでも過去の歴史から目をそらすわけにはいかないこともある。この本がほとんど無批判に買いあさられているような世相を見ていると、ひそかな「心の杭」のようなものがどんどん押しながされてしまう気がする。それがちょっぴり心配だ。

(1999年6月) 




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