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「頼むオヤジ」表紙

 俺は、沸き上がる焦りと怒りといらだちをぐっと喉の奥に押し込み、作業中のオヤジを下手に急かさないよう気を遣いながら尋ねた。

「今、何分ですか?」
「んー…」

 自転車屋のオヤジは信じ難いことに、この状況下にあって緩慢と言って間違いないほど鈍い動作で袖をまくり、腕時計に目をやった。

「三十九分だね」

 なんということだ! あと六分しかないではないか!
 このあとタイヤに空気を入れてサドルのビニールを剥がして値札 を取って、しかも金を払ってお釣りを受け取り財布にしまわなくて はならないというのに、あと六分だと?
 このオヤジは本当に俺の置かれている状況がわかっているのか?
 いや、わかっていない。絶対にわかっていない。
 その証しに、オヤジは俺が催促しているにも関らず、いや催促し たことさえわかっていないのかもしれないが、なおも先程までと全 く変わらないマイペースで作業を続行していた。
 皮肉にも気を遣う必要などなかったようである。非常に非常に残 念ではあるが、どうやら今の俺にできることはオヤジの作業を、涙 を呑んで見守る以外にないらしい。

 だが、さらにその数十秒後、このオヤジは驚くべき行動に出たの だった。いったい誰にこんなことが予想できただろうか?

 なんと、恐るべきことに、鼻歌を歌い始めたのである。

「ふざけてないで早くしてくださいっ!」

 俺はついに腹の奥底にまで押し込めた怒りのマグマを、火山のよ うに爆発させたのだった。

 某月某日。俺の自転車が盗まれた。

 一応、ダイヤル式のチェーンの鍵を掛けていたのだが、かねてか らその信頼性には疑問があった。だが、まさかこんなにも早く被害 に遭おうとは…。
 以前に伏線があった。帰宅しようと自転車置き場に戻ってみると、 俺の自転車に不自然な点が認められたことがあったのである。どう やら何者かが拝借しようとしたらしい。
 状況は、鍵が掛かっているのに気付かずに乗ろうとして自転車を バックさせたが、後輪に掛けられたチェーンがその回転をロックさ せ、きっちりと役目を果たした。犯人はムカついたがあきらめた、 というところだろう。自転車はそのままの状態で置かれていた。
 俺は習慣として行っていた、鍵掛けという行為がちゃんと役に立 ったことに深く感動し、窃盗未遂の犯人に対して勝ち誇りさえした ものだった。
 今回盗まれた現場はそのときと同じ自転車置き場である。同一人 物の犯行だとは断定できないが、そうだとしたらたいした執念だ。 奴なりに屈辱を感じていたのだろう。どうやら甘く見ていたらしい。 ここは素直に俺の敗北を認めよう。

 俺は今度から自転車を停めるときは鍵を掛けずに、物陰に隠しカ メラを配置して犯人の顔を拝んでやろうなどと妄想を抱きながら、 バスで空しく帰路についたのだった。

 自転車を盗まれた翌日。今日は新しい自転車を買う予定だったが、 俺の職場は残業だった。
 うーむ…仕事が終わるころには自転者屋も閉まっているだろう。 仕方がない。新車を買うのは明日にしよう。

 さらに翌日。またしても俺の職場は残業だった。しかも、気のせ いか昨日より忙しくなってはいないか?

 果たして俺の不安は的中した。その日、班長は我々職員に残酷な 言葉を告げたのだった。

「今週、ずっと残ってくれ」

 俺はもちろん残業は嫌いだが、この場合そんなことは問題ではな かった。これでは、今週中に自転車が買えないではないか。
 俺はなんとかして、苦労して十分ほど早起きして、職場まで徒歩 で出勤しなくてはならないという状況から、脱出する方法を考えな くてはならなかった。

 さらに翌日。あくびが止まらない朝、俺は職場に向かって歩きな がら考えていた。そこで、一つの作戦を立てたのだった。
 俺は昼休みに目をつけた。俺の家から職場までは、普通に歩いて 約二十分である。自転車なら七〜八分というところだ。昼休みは四 十五分ある。そして、自転者屋は俺の家から目と鼻の先にある。
 つまり、昼休みに家に帰ってメシを食ってから、自転車を買って その自転車に乗ってくれば、余裕をもって職場に復帰することが可 能なのである。ふっ、我ながら完璧な作戦ではないか。
 俺は早速この作戦を実行に移すべく、午前の仕事をとっとと片付 けて、とほとぼと歩いて自転者屋に向かったのだった。

 ついに俺の眼前に、自転車屋が出現した。夕方六時には閉まって しまう錆付いた青いシャッターも、今はちゃんと開いている。
 俺は自転車を買ってから、弁当屋でメシを買うことにしていた。 先に目的を果たしてこそ、うまいメシが食えるというものである。
 俺は安っぽいアルミサッシの戸を開けて、店の中に踏み込んだ。 その途端、

「イラッシャイマセ」

 という、客が聞いてもあまり嬉しくない非人間的な合成音が響き わたった。困ったことに、こいつは戸の側に近づく度に声をかけて くれる、なかなか迷惑な文明の利器である。
 まあ、そんなものはどうでもいい。とりあえず店内の自転車を見 回してみることにする。
 とそのとき、小太りで少しハゲ気味で眼鏡をかけた中年オヤジが、 まるで寝起きのように緩慢な歩行で店の奥から姿を現した。言うま でもなく、この店の主人である。

「はい、いらっしゃい」

 オヤジは人の良さそうな接客用スマイルを浮かべた。

「自転車が欲しいんですけど」

 俺は目的を単刀直入に述べた。

「新車ですか?」
「そうですね、とりあえず見せてもらえますか?」
「そうだねえ、こいつが二十六インチで隣のが二十七インチ。二十 六でも不便はないけど、ちゃんと乗るんなら二十七の方がいいかな。 それでこっちのが…」
 オヤジの説明が続く中、適当に品物を見回していた俺の視線が、 一台の自転車の上に止まった。それに気付いたオヤジが、すかさず 説明を始めた。

「ああ、それは中古だけど、なかなかいいモノですよ。十段変速で、 タイヤは…二十七インチだね」

 その自転車は多少の傷があったがそれよりもむしろ、その古めか しい形状の方が最近の自転車を見慣れた俺の目には、斬新で面白く 映った。そして、『十段変速』という怪しげな響きが、俺の心を捕 らえて離さなかった。

「これにします」

 俺が決断するのに、それほどの時間はかからなかった。

 オヤジは俺が購入を決めた中古車を戸の近くの少し広い場所まで 引っ張って来ると、ペダルを取り付ける作業にかかった。俺はその 作業を眺めているうちに、ふと気がついたことがあった。

「カゴがついてないですね」
「ああ、そうだね。荷物ならこの荷台の上に置く形になるかな」

 荷台は、通常のように後部にあるのではなく、前部に付いていた。 珍しいが、それは別にいい。しかし、やはりカゴが無いのはかなり 不便である。

「カゴは付けられますか?」
「そうだね、この荷台にネジで留めれば大丈夫かな。ちょっと待っ ててくださいね」

 オヤジはそう言って店の奥から、ビニールに包まれた真新しいカ ゴを持って来た。そして、カゴを取り付ける作業にかかる。付属の 留め金をネジで留めるだけなのですぐに終わると思われたが、オヤ ジは何やら悪戦苦闘していた。留め金の形状が自転車の荷台に合っ ていないようである。
 オヤジはついに工作ドリルやらグラインダーやらといった機械で、 部品の調整にかかった。しばらく時間がかかりそうである。

「昼メシ食ってから、また来ます」

 俺はこのまま待っていてはメシを食う時間が無くなってしまうと 判断し、店を出て弁当屋に歩いていった。しかしこのとき俺には、 このことがあのような切迫した状況を引き起こすことになろうとは、 思いもよらなかった。

 あろうことか、俺が自宅でのりカラ弁当大盛りを食べ終えて、自 転車屋に戻っても未だに作業は続いていた。

「あと、どのぐらいかかりますか?」

 内心焦る俺の問いかけに、オヤジは今までと変わらないのんきな 口調で答えた。

「ああ、もうちょっとで終わりますよ」

 オヤジは急ぐ様子もなく作業を続けていた。
 オヤジの言う『もうちょっと』がどの程度の時間を指しているの かは不明だが、この調子では俺の希望する時間内に作業が終わらな いことは明白だった。

 そして冒頭で述べたように、俺の怒りが沸点に達して思わずオヤ ジに怒鳴り込んだ後も作業のペースは変わらなかった。
 さらに少々の時間を要してようやくカゴの取り付けに成功した。 『少々』という曖昧な表現を用いたのは、焦りと苛立ちのために自 分の時間感覚に自信が持てなかったせいである。
 それはもしかしたら数十秒だったのかもしれないが、俺には数分、 数十分にも感じられたものだった。

「じゃあ、もう行きます」

 俺は、はっきりいって本来ならオヤジの仕事である、自転車を外 に運び出すという作業を進んで行おうと、ハンドルを掴んだ。

「ああ、お客さん、代金」
「くっ!」

 俺は不覚にも感情をモロに表に出してしまった。さすがに温厚そ うなオヤジも顔をしかめたように見えたが、不機嫌なのはこっちも 同じである。何より、そんなことを気にかけている余裕は無い。
 財布から札を引っ掴み、突きつけるようにオヤジに差し出すと、 オヤジは無言のまま札を受け取って、店の奥のレジに引っ込んでい った。
 『釣りはいらん!』とでも言いたい気分だったが、悲しいかな、 一介の庶民でしかない俺は釣り銭を受け取るために、オヤジが戻っ て来るのを待たねばならない。
 オヤジは、わざわざ釣り札と釣り銭を口に出して数えている。冷 静に考えるとそれは普通のことなのかもしれないが、今の俺はそれ を普通だと認められるほど達観してはいなかった。
 ようやくオヤジが釣りを数え終わって戻って来ると、俺は釣りを 受け取って財布にねじ込み…その際、あろうことか釣り銭を何枚か 手からこぼれ落としてしまった。

「うおおっ!」

 オヤジが一応親切に釣り銭を拾ってやろうと腰を屈めるより早く、 俺はそれを制するように亡者のように獰猛な動きで、全ての釣り銭 を回収した。

「じゃあ、もう行きます!」

 先程と同じセリフを決別の挨拶に、俺は購入した自転車を一目散 に漕ぎ出そうとした…が、オヤジの声が俺を我に返した。

「その前に、空気入れなきゃなりませんね」

 しまったぁっ! まだタイヤに空気入れてなかったか!
 オヤジがコンプレッサーを動かして空気を注入している間、俺は 屈辱のあまり気が狂いそうになっていた。もはや、どのぐらいの時 間が経過したかを認識する能力は俺にはない。
 空気の注入が終わると俺は今度こそ職場に向けて、何かを振り払 うように全力で自転車を漕ぎ出した。

「ありがとうございました」

 忌まわしいオヤジの声が背後に遠ざかっていった。

 この自転車にまず驚かされたのは、いきなりハンドルがずり下が ったことだった。ナットの絞め付けがかなり甘いらしく、少し体重 を預けただけで、たやすくハンドルが沈み込むのである。
 ただでさえ初めて乗る自転車には多少の違和感を感じるというの に、ハンドルがこれではかなり危なっかしい。
 そして、この不安定さに拍車を掛けているのがサドルだった。サ ドルもまた絞め付け不良で、しかも手で絞められるタイプのもので はなく、スパナか六角レンチが必要だった。
 言うまでもなく、この状態ではサドルの高さは低すぎるし、腰を わずかに動かしただけで極めて敏感に反応してサドルは回った。
 …くっそー、あのオヤジ、まともに働け!
 普通なら自転車屋に戻ってオヤジに文句の一つも言ってやるとこ ろだが、もう職場の作業開始まで数分しかない状況では、このまま 自転車を走らせるほか道はない。
 だが、全力で自転車を飛ばそうにも、今のギア比では軽すぎて思 うようなスピードは出せなかった。
 この自転車は十段変速である。俺はギアチェンジをするために、 シフトレバーに手を伸ばした。が、届かなかった。

 馬鹿な!? なんでシフトレバーがこんなところにあるんだっ!?
 理不尽なことに、シフトレバーは体を相当前に倒さなくては手も 届かない部分に位置していた。
 一瞬、一度自転車を停止してからしようとも思ったが、確かギア チェンジは停止中にやってはいけなかったような気がする。もしそ んなことをして、チェーンがはずれでもしたらと考えるだけで俺は 戦慄した。

 さらなる異常に気がついたのは、交差点から車が出て来たときだ った。別に牽かれそうになったわけではない。距離は充分あったし、 全速力で交差点に飛び出すほど俺は無謀ではない。もっとも、まだ ギアチェンジをしていなかったのでロクにスピードを出せなかった せいもあるのだが。
 にもかかわらず俺が冷や汗をかくことになったのは、右ブレーキ が効かなかったからだった。

「ノオオォォォォーッ!」

 俺は左ブレーキを握り締め、ハンドルをひん曲げ、靴底を地面に 擦り付けてようやく自転車を停止させた。
 息が荒くなっていた。疲れのせいではない。恐怖のせいである。
 いったい誰が中古とはいえ、ここまでメンテナンスのなってない 自転車を売りつけるだろうか?
 後日、これはタイヤをはずすときにブレーキパッドの間隔を広げ るための装置が働いていたためだと判明するのだが、そのことを知 らなかった俺の怒りは当然自転車屋のオヤジに向けられたのだった。

 ブレーキの異常には肝を冷やしたが、とにかく今のままでは絶対 に作業開始には間に合わない。なんとかしてギアチェンジをせねば ならなかった。俺は体を前に倒し、懸命にレバーに向けて手を伸ば した。普通ならどうにか届かないこともないのだろうが、ハンドル とサドルがグラグラ揺れるために、極めてアンバランスで危険な状 態であった。
 くっ…おぉっ…もう……ちょいっ!
 ようやくレバーに手が掛かり…ガチャガチャン!というチェーン の音とともに、ペダルの重みが一気に増した。
 おしっ! あとは全力で漕ぐだけさぁーっとばかりに、俺は勢い 込んでペダルを踏み出した。

 俺はナットの絞め付け不良とブレーキの異常にもめげず、全力を 尽くして自転車を飛ばした。途中、信号を二本ほど無視したような 気がするが、車もいなかったし問題あるまい。
 こう見えても俺は普段は信号を守る派である。遠くに見える信号 が点滅しだして、間に合わせようと全力で飛ばしたが、すんでのと ころで赤になってしまい、一瞬の迷いの末、

『ぬうおおおおおぉーっ!』

とフルブレーキングした経験はないだろうか? いや、そんなこと はどうでもよろしい。やがて、薄汚い俺の職場が見えて来た。猛烈 な勢いで自転車置き場に滑り込み、習慣で鍵を掛ける。作業は始ま っているのだろうか。

 やっぱし作業は始まっていた。俺は班長の悪口雑言を一身に受け ながら、頭の中で自転者屋のオヤジに対する報復措置を大スケール で展開していたのだった。

(完)




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