彼は絶体絶命の苦境に立たされていた。
彼の所属する開拓団のコロニーが、この惑星に原生する巨大なカニ型生物の群れに襲われたのだ。
巨大なカニ達の無尽蔵とも思える食欲と、強大な戦闘能力の前に、コロニーの住民は瞬く間に次々と餌食になっていった。
そして、ついにこのコロニー、いや、この惑星で生き残っている人類は、彼一人だけとなってしまっていたのだ。
最後の一人となった彼は農業プラント区画の排水溝の中に隠れ、息を潜めて拳銃を握り締めながら考えをめぐらせていた。
――なんて俺はツイてないんだ。
まさか俺が一番最後まで食い残されることになるなんて。こんなことになるぐらいなら、真っ先に奴らのハサミで真っ二つにされたあのジャパニーズの方がよっぽど良かったじゃないか。
そういえばあいつ、50人の予定だった開拓団が、欠員が出て49人になったところで『出発は見合わせよう』なんて言っていたっけか。妙なジンクスだと思っていたが、あいつの考えは賢明だった。だからこそ、こんな恐ろしい思いをすることもなく、楽にあの世に行けたんだ、ちくしょうめ。
と、こんなことを思い出している場合じゃないな。カニどもの足音だ。くっ、あのカニども、もうここまで来やがったのか。手持ちの装備はチンケな拳銃とナイフだけ。こんな状況で俺にどうしろっていうんだ。
地球にいるゾウガメの仲間には、甲羅の中に閉じこもっていればある程度の時間ならサバンナの火災にも耐えられるものもいるらしいが……あのカニどもときたら、そんなもんじゃない。
ジョンの奴は、ヘンリーのぶっ放したライフルの跳弾に当たって死んじまった。まあ、その後カニどもに生きたまま食われたヘンリーに比べたらよっぽどマシだったかもしれないがな。要するにあのカニは、ライフルの弾でさえも弾き返すってことだ。どうすれば、こんな拳銃とナイフで奴らに一泡吹かせられる? まあ、この星のカニも泡を吹くのかどうかは知らないが。――狙うとしたら、口の中だ。それしかない。口の中に叩き込んでやれば、拳銃の弾でもなんとか……なって欲しいんだが。まさか、口の中まで殻に覆われているわけでもあるまい。問題は、どうやって口を開かせるか、だな。パン食い競争でもない限り、ハサミより先に口を開く、なんてことはないだろうし。ハサミよりも先に、口を開くような状況……か? そんな状況が、本当にあるのか?
……いや、まてよ。『彼』は上機嫌で農場プラントに足を踏み入れた。生まれて初めて食べた獲物の味に、ご満悦だったのだ。特にあの妙に鉄分臭い体液の味がお気に入りだった。もう最後の一匹だというのは名残惜しいが、仕方がない。ゆっくり味わってやろう……そう考えながら、彼は軽戦車のような体を揺すって、獲物の匂いを捉えようと3本の触角を地面に這わせた。
すると彼は、排水溝の辺りに獲物の体液が溜まっているのに気付いた。
おや、なんてもったいない。仲間が舐め残したのだろうか。
彼は敏捷にその血溜まりに向かって突き進み、口を開いて舌……かどうかは分からないが、とにかくそれに類似した器官を突き出した。
そのときだった。
排水溝の影から、拳銃が口の中に突きつけられたのは。「くたばれ」
パン、という乾いた音が響いた。 カニは一瞬、意味不明の感覚に襲われ、自分の身に何が起こったのか分からず、前後不覚に陥った。
そして次の瞬間に、今の衝撃に自分の痛覚を刺激されているということに気付くと、あらぬ方向にハサミを振り上げ、暴れ始めた。
苦しみ、もがき、のた打ち回り、大アクシデントを起こした大型の工作機械のようにひとしきり暴れ狂うと、ネジの抜け落ちたハードケースのように、唐突にガシャンと崩れ落ちた。泡は吹いていなかった。「アイスクリームのフタの裏まで舐めようとするから、そういう目に遭うんだ」
あのカニが舌のような器官を持っていたことに安心しながら、彼はそうつぶやいた。
そして、このまま出血多量で死ぬのと、2匹目のカニがここに来るのと、どっちが先なんだろうな、と薄れゆく意識の中で、思った。