自作小説集へ「おう……?」
驚くほど強い痛みを感じながら、俺はその痛みを感じた個所を見てようと、目線を落とした。 見ると、俺のみぞおちの辺りに秋絵が握り締めたナイフが深々と刺さっている。じわっと、 服の生地に血が染み込んでいくのが見えた。
心に、疑問符が浮かんだ。俺は、刺されたのか? いや、これほどまでに確かな激痛を 感じているのだからその通りなのだろうし、本当に俺は刺されれてしまったのだ。 しかし、まだこの瞬間にはそういう実感にリアリティがなく、ただ驚きと激痛だけを感じていた。再び目線を上げた。秋絵の顔が、目の前にある。こんなときでも、やっぱり普段通り の表情だ。普段通りというのがどういう表情なのかというと上手く説明できないのだが、 とにかく鞄を持ったり、ドアを開けたりするときの、何らかの行動を起こしながらも 何か他のことを考えているときの表情をしている。人と会ったときに、何と話し掛けようかと 考えているときの、あの一瞬の表情だ。今の秋絵にとって、俺をナイフで刺すという行為は 挨拶代わりにポンと軽く肩を叩く程度のことでしかないのだろうか?
そのあまりの自然さに、もしかしたら俺はまだ大丈夫なんじゃないかと考えてみたが、 さらに強さを増した腹部の激痛に、その期待は即座に否定された。ずぶりっ、とナイフが引き抜かれる。その際、ナイフのエッジと傷口との摩擦で肉が引っ 張られ、強烈な痛みを感じた。ナイフは血で染まっており、俺の傷口からも血が流れ出した。 血は、どんどん出る。大変な量だ。大変な量の血が出ているというのに、血の勢いはさらに 増し続けている。痛みとともに、急に気分が悪くなった。次の瞬間には、体全体からも一気に 力が抜け、体が沈み込むような脱力感に襲われた。反射的に手で傷口を押さえてみるが、 手が一瞬で血まみれになっただけで何にもなりはしなかった。
「いやー、あたしさあ、やっぱ自殺すんのやめたわ。けっこう悩んでみたんだけど、やっぱり 手首切るのって痛そうだしさあ、なんかこういうのって恥ずかしいような気もするんだよね」
秋絵は俺と目線を合わせて、平然と話し掛けてくる。こいつ……自分が何をしたのか 分かっているのか? なんてことをしやがる。俺を刺したんだぞ。死ぬかもしれないんだぞ。 いや…これは痛いぞ! シャレにならん痛さだ! 俺は自力で立っていることもままならず、 背後の壁に背を預けた。改めて意識したが、ここは秋絵の家の風呂場で、秋絵はここで手首を切って 自殺未遂を演じる予定だったのだ。浴槽には、水が張られている。
思わぬ誤算だったのだが、壁に背中を預けた程度の些細な衝撃でも俺の腹部の傷には 大きな刺激だったらしく、この瞬間に耐え難いほどの猛烈な痛みが走り抜け、さらに 恐るべきことに、何か喉元に気持ち悪いものが込み上げてきた。「と、いうわけで。騒がせてゴメンね。あたしは、たぶん平気だから」
こいつ、笑顔でこんなことを言ってやがる。何が平気なんだ? 今、俺は大変なことに なってるんだぞ! 早く救急車を呼べよ! 死ぬだろ! 痛てぇんだよ! ムチャクチャ 痛てぇんだよ! なんとかしろよ! オイ!
秋絵に凄まじいまでの腹立だしさを覚えた瞬間、腹から胸へ、胸から喉元へ、致命的な 嘔吐感を感じた。
そして次の瞬間。苦しみとともに、俺は赤いものを吐いた。笑い事ではない。吐血したのだ。 一瞬、視界が赤く染まる。傷口の神経が悲鳴をあげ、激痛に押されるように意識が遠くなった。 思わず下を向くと、ボタボタと口から吐き出された多量の赤い血が風呂場の床に落ちている。 いや、それだけではない。今や風呂場の床は、俺の血で赤一色に染まっていた。それを見て短く 考えた後、俺の脳裏を、初めてリアルに過ぎった言葉があった。俺……死ぬのか……?
「あたし、なんとなく分かるんだ。もうすぐ、大変なことが起こって、何もかもメチャクチャ になるんだってね。まあ本当になんとなくだから、あんまり当てにならないかもしれないけど」
秋絵は言いながら、後頭部に手を当てて妙に照れくさそうな顔をする。
こっちは、当然それどころではない。体が異常な状態になっているのが実感として 感じられるようになってきた。出血や吐血をしたからではない。俺の生命が危険に 晒されているという危機感を、体全体が感じているのだ。「でさあ、どうせ何もかもメチャクチャになるんだったらその前に、やっちゃいけないことを やってみたかったんだよね。普通、そういうことやっちゃったら後が大変じゃない? でも、 今なら全然大丈夫だから。たぶんだけどね」
激痛が、呼吸する度に強さを増す。なおも血は流れ続けている。血が足りない。 脳に、血液が回っていないのだ。だから、意識が遠くなっていく。
「苦しそうだねぇ。ホント、ゴメンね。こんなことに付き合わせちゃって。あんた、 けっこういいヤツだったよ」
嘘だ! 俺は助かるんだ! 助かるはずだ! 俺は死なんぞ! 俺は…! 俺は……!
「じゃあね。バイバイ」
秋絵が、風呂場から去っていった。
視界が霞んでいる。目の焦点が、合わなくなっていた。体の感覚も曖昧で、体のどこにも 力が入らない。なんとなく、体が傾きはじめているのが分かった。風呂場の照明が、視界に 入る。電気が点いている。風呂場は、明るかった。
いかん。血液が、ちゃんと巡ってない。脳みそが、冷えているんじゃないのか? 心臓は、 どうなっている。まだ動いているのか。血を体外に排出するために、動いている。
呼吸も、もうしなくてもいいような気がする。呼吸を止めても苦しいが、呼吸をしても 苦しい。たいして変わらない。視界がブレて、何もかもダブついて見えるようになってきた。これは残像だ。1秒前に 見ていたものが残像になって、現在の視界と重なっているのだ。2秒前、3秒前の残像も 見える。徐々に、網膜から送られてくる映像が遅れてきているような気がする。現在の 視界は、もう見えない。4秒前の映像は5秒前の映像になり、やがて6秒前の映像になって しまった。そこで、視界が固定されてしまった。俺は、この世の時間に置いていかれて しまったのか?
急に、体に冷たさを感じた。水が冷たい。水か。そういえば、体は浴槽に向かって傾いていたの かもしれない。俺は、浴槽に落ちたのか。浴槽は、俺の血ですぐに赤く染まった。 水が口に入り、肺にまで流れ込んできた。
突然意識が覚醒し、呼吸困難から筆舌し難い苦痛に襲われ、前後不覚に陥って俺はパニック 状態になった。だが、それも直ちに身体機能が低下し、一瞬で終わった。揺れている。水面が揺れている。俺の血で赤く染まった水面が上に見えた。 その更に上には明るい電灯があり、赤い水面の向こうにあったので電灯も赤く見えた。 それを見て俺は、まるで夕焼けみたいだな、と思った。死を連想させる、血の夕焼けだ。
他にも何かいろんなことを考えているような気がする。しかし、何も分からない。 意識と呼べるものは頼りなく、俺はどこかへ運ばれようとしている。どこへ連れて行かれる んだろう。冷たい。ここは、
ふと気がつくと、俺はガラス張りの水槽の中に入れられていた。
「現在も、市内は大変な状態が続いています! 死傷者の数は増加の一途を辿っています。 救助隊による懸命の救助活動が続いていますが、到着の遅れもあり思うように進んでいない のが現状です。一刻も早い行方不明者の救助が待たれます…。交通機関は壊滅状態で、 被災者の避難先も未だ未定のままになっています。……地区の被害は特に甚大で、多くの ビルや家屋が倒壊しているとのことです。火災も、未だに収まる気配はありません」とある病院の一室。その病室には、何人かの負傷者達が患者として運び込まれていた。 病院は先日の大地震による被災者でパニック状態にあり、廊下はひっきりなしに医者や 看護婦が声を上げながら駆けずり回っていて、騒々しい。
そんな病室の一番隅で、野山秋絵はベッドに上体を起こして座り、10インチの テレビの小さな画面をぼんやりと眺めていた。
テレビは、先日の大地震の被害状況を報道している。「暗くなってきまして、 食事もない、 暖房もない状況のなかで、 避難所で夜を過ごされる方、 電気も水もない状況が続いている箇所がかなりありますので、 こういった方面には、 警察官が 重点的にパトロールを行いますので、 くれぐれも落ちついて、 慌てないで行動してください」
秋絵は、リモコンでテレビのチャンネルを切り替えた。そのチャンネルでは、死者の名前と 年齢がテロップで並べられ、アナウンサーが黙々とその名前を読み上げていた。5人ぐらいの 名前が読み上げられたところで、またチャンネルを切り替える。
「いやー、大変でしたね! 大丈夫ですか? どこから避難してきたんですか?」
「………区です」
「ああ、そうですかぁ。大変でしたねぇ。被災地の状況はどうなっていますか?」
「………もう、建物とか崩れて…家も…」
「えっ、あなたの家も?」さらに、チャンネルを切り替える。
「本当に、 大切なご家族、 大切な家を失った皆さんにとっては、 大変つらい夜が始まるか と思いますが、 お互いに助け合って………、 私も家族が被災地におりまして、 少し何か手伝い、 誰かに手を差し伸べてもらえばいいな、 逆にそうしてあげられればいいなというふうに考えて おります。 本当に、 お互いに気をつけて励まし合っていかなけれ」
唐突に画面がブラックアウトする。テレビの電源を、切ったのだ。
やっぱりこんなときはバラエティ番組ってやってないんだなぁ、と秋絵は思った。
完