長く苦しい閉塞は、ようやく終わりを告げていた。文恵はこたつから這い出し、躍動感が微塵も感じられない 怪獣のような速度でヨロヨロと起きあがる。体勢が変わったことにより血液の循環に劇的な変化が訪れ、 意識が朦朧となった。立ちくらみである。なんとかして現在の姿勢を維持し、文恵はそれを制した。「んあ……」
声をあげながら両腕を大きく伸ばす。筋肉が生き返ったみたいで、なんだか気持ちいい。思わず、目から 涙がこぼれた。別に感動の涙というわけではなかったが。やっぱり人間は立って動き回って 慌しくしていないとダメだ、と文恵は思った。
不意にこたつの上に目を落とした瞬間、文恵は愕然とした。みかんの皮の山が、信じられないような醜い姿を 晒している。普通に、中心からバナナのように剥いていけばこんな様相にはならないというのに、ちぎり捨てた ような剥かれ方をしているからまるで子供が食い散らかした後のようだ。だらしなさ過ぎる。
しかもその量が信じられない。和明、よく一人でこんなに食べたなぁ、と関心してしまう。トイレにも行かずに。
文恵はやれやれといった感じで手近にあったビニール袋にみかんの皮を入れ始めたが、そのビニール袋に みかんの皮が入りきらなかったのでまたしても愕然となった。部屋のテレビを消して、階段を降りていく。なんだか、やっと年が明けたみたいだった。階段を降りた先の 床は、玄関に近くて冷たかったのでつま先立ちで足早に通りすぎた。茶の間の戸を開けて、台所のゴミ箱に みかんの皮が入ったビニール袋を乗せる。入れたのではない、乗せたのだ。仕方なかった。いっぱいだったから。
テレビが駅伝が入ったままでつけっぱなしになっていたので、文恵はテレビを消した。どいつもこいつも だらしないなぁ、と彼女は思った。文恵は、両親のどちらかは居るだろうと思っていたのだが、どうやら家の中には誰もいないらしかった。 なあんだ、いなかったのか、などと考えてしまう。
そういえば、母親は親戚回りに行くと言っていたような気がする。父親は、そういうのは嫌いなので一緒には 行っていないと思うのだが、パチンコにでも行ったのだろうか。正月は、パチンコ屋はやってるのだろうか? よく覚えていない。
そんなことを考えていると、外からザッザッという雪かきの音がした。それで文恵は、父親は雪かきをしている のだ、ということに思い当たった。考えてみれば、車は母親に取られているだろうし、外は吹雪いているんだから 歩いて出かけたりはしないだろう。
でも、まだ吹雪いてるんだからわざわざこんなときに雪かきしなくても、そう思って窓の外を見るといつのまにか 雪がキレイに止んでいた。なんてあっけない。あれだけ激しく吹雪いていたのに、なんて清々しい吹雪だったのだろう。 和明、いいタイミングで出ていったなぁ。
文恵はストーブに背中をくっつけながら、のん気にそんなことを考えていた。和明は、なかなか戻ってこなかった。文恵の家から近くのコンビニまで行ってタバコを買って戻ってくるまで、 普通に考えたら五分もかからない。十分経過しても戻ってこなかったときにはなんか余計な買い物してるのかな、 ぐらいにしか思っていなかったのだが、さすがに二十分経っても戻ってこないというのは変だと思い始めていた。 立ち読みでもしているのだろうか。いや、そんな習慣は和明にはなかったと思う。二人で本屋に寄ったときは、 立ち読みしている文恵が文句を言われるぐらいだった。まあ、和明はああいう性格なので一人のときは平気で 立ち読みをしているのかもしれないが。
文恵はそんなことを考えててもしょうがない、そのうち戻ってくるだろうと思ったので、とりあえずテレビを つけることにした。さっき入っていたチャンネルがそのままだったので、駅伝の中継が入っている。
文恵は駅伝には興味がなかったのでいろいろとチャンネルを変えてみたのだが、他の局のバラエティ 番組はなぜか番組中の笑い声がうるさく感じられたので、結局駅伝に戻してしまった。退屈を持て余しているうちに空腹であることに気がついたので、餅を焼くことにした。台所の鍋のフタを開けて、 雑煮の汁の残りを確認する。まだ三、四人分はありそうだと思った。さっそくタッパから餅を取りだし、厚手の鍋 に餅を並べて、コンロに乗せて火をかける。自分の分は二個だけだったが、なんとなく二個だけ焼くのももったいない 気がしたので、五個焼くことにした。もちろん、残りの三個は雪かきをしている父親の分である。
餅は弱火で焼かなくてはならないので、焼き上がるのに時間がかかる。電子レンジで温めてしまえば早いのだが、 文恵は電子レンジの温まり方は嫌いだったので、時間がかかっても餅は最初から火にかけることにしている。 毎年のようにダラダラ過ごしている三が日なら時間なんて気にしないのだが、和明がなかなか帰ってこない のでイライラしているせいか、文恵は餅が焼けるまでの時間がやけに気になっていた。しきりに餅を箸で 突ついてみたりするのだが、まだまだ餅は固いままだ。
テレビは相変わらず駅伝の中継を流していたが、文恵はやはり駅伝には興味がないので、コンロから出ている火の音に 集中していた。駅伝が一時的に中断され、ニュースの時間になった。それまでテレビにはほとんど見向きもしていなかった文恵の 心に、何かが引っかかった。ニュース、ニュース。ついさっき、ニュースの話で和明と妙に盛り上がったばかりだ。 和明は、ニュースの報道で『誰か死んだら帰る』とか言っていた。
まさか、ねぇ……。
文恵は苦笑した。交通事故にでも遭ったんなら、コンビニは家の近くなんだから救急車とかパトカーのサイレンが 聞こえるはずだし、それ以前にこの家からコンビニまでの距離で交通事故に遭うなどという事態はちょっと考えられない。 もし本当にそうなったら笑い話だろう。そんなことで和明を心配するのはアホらしいと思い文恵は餅をひっくり返したが、 餅の裏面はまだ焼けていなかった。
気になり出すと気になってしまうもので、文恵の脳裏には和明の家に電話をかけてみようなどという考えが 囁いていた。もしかしたら、自分の家にそのまま帰ってしまったのかもしれない。もしそうなら、腹立たしい 限りだが。いやいや、もしかしたら何か取りに帰ったとか。って、何を? まあ、とりあえず電話をかけて しまえばはっきりすることはするのだが、それではなんだか『心配するだけ損した』などという、こういう場合の 典型的パターンに陥りそうな感じがして、さらにそれを後で和明に茶化されるのはなんとしても避けたいと 思うので、文恵は電話の前で思い止まっていた。
しかし沈黙に耐えられなくなり、ついに受話器を取ってしまった。そして、電話番号を……と、思ったところで、 文恵はある考えに思い至った。
和明の車を、確認すればいいのだ。とりあえずそれで自分の家に帰ったのかどうかはハッキリする。タバコを 買いにコンビニに行く程度の距離で、車は使わないはずだからだ。
確か和明は、茶の間の窓から見える位置に車を止めているはずだった。そう思って見てみてみると、和明の車は まだその場所に停車していた。ということは、まだ家には帰っていないということだ。なんとなく安心したものの、 今度は最初の疑念が再び頭をもたげてきた。交通事故。
いや、だから、それはないって、と文恵はまた苦笑した。餅が焼けてしまっても、まだ和明が帰ってくる気配はなかった。仕方なく、雑煮の汁を温めて駅伝を見ながら一人で 雑煮を食べていたりする。餅が三個残った鍋は、とりあえずストーブの上に乗せておくことにした。父親は、まだ 雪かきをやっているらしい。確かにあの吹雪では、いくらやっても終わらないぐらいに雪は積もっていただろうが。
イライラがつのって腹が減っていたのか、文恵はあっという間に雑煮を食べ終えてしまっていた。一人の食事は なんだか妙に惨めで、不倫相手が来るのを料理を用意して待っている愛人という設定のドラマのワンシーンを連想し、 文恵はまたまた苦笑しようとしたが、もう苦笑もできなかった。そのときだった。凄まじい勢いでガラガラと玄関の戸が開く音がして、文恵はビクッとなった。何も考えずに 戸を開けて玄関の様子を見てみると、そこに和明がいた。
和明が、下半身を雪まみれにして、酷くくたびれた顔をして靴を脱ごうとしているではないか。「ち、ちょっと! なんでそんな格好してんの!?」
思わず上ずった声で問いただしてしまう。動揺が収まらず、目が涙目になっているのにも彼女は気づいていなかった。
「いやあ、まいったまいった。ハンパじゃねぇって、あの雪の量。なんで俺がお前ん家の雪かきしなきゃなんねぇんだよ」
「へっ? 雪かき?」
「そうだよ、お前の親父さんに外に出るなりムリヤリ手伝わされてさぁ、死にそうだった」
「雪かき……してたの? お父さんと?」
「そうだよ、気がつかなかったのか?」文恵は、そんなことは全く予想だにしていなかった。というより、なんでそんなことに気がつかなかったのだろうか。 さっきまで無性に心配していた自分はいったいなんだったのか? 和明は、雪かきをしていたのだ。ずっと、家の前で。
自分がものすごいバカに思えて、文恵はそんな自分が可笑しくて、笑ってしまった。「ぷっ……くっくっく」
「な、なんだ? どうした? またなんか変なこと考えてるのか?」和明は『ついていけない』といった表情でとりあえず家に上がりこもうとしたが、文恵は和明がズボンについた 雪を全く払っていないことに気づいた。
「ちょっと、あんた、ちゃんとズボンの雪落としなさいよ!」
「あ? わりぃわりぃ」上がりこんだ後に、その場で雪を払い落とす和明。だらしないのは相変わらずだった。
「その場で落とさないでよ、ったく」
真剣に怒る気にもなれず、文恵は振り向いて茶の間に引っ込んで行った。
「おい、なんだその態度は。俺はお前の家の雪かきをしてやったんだぞ。感謝の言葉の一つもないとは、何事だ」
言いながら、和明も平気で茶の間に入ってくる。文恵は呆れて、もう文句を言う気にもなれなかった。
「はいはい、ご苦労様でしたねぇ。ところで、お父さんは?」
「ああ、隣の家の雪かき手伝ってる。よくやるよなぁ、偉いよ、お前の親父さんは」人の親を褒められるのは、悪い気はしなかった。が、文恵は文恵でかなりひねくれた性格であった。
「そう思うんだったら、あんたも手伝ってきなさいよ」
和明は、極めて遺憾の意を表した。
「なんで俺がそこまで。もうくたびれてんだって、勘弁してくれよぅ」
本気で言葉通りの表情を見せる和明。もういいか、と思い、文恵は話を切り換えることにした。
「ああそうだ、お餅焼けてるからさ、お雑煮食べるよね? あんたが遅いから、あたしはもう食べちゃったんだけど」
「おお、珍しく気が利くな! すげぇ! 珍しい! なんてことだ、奇跡だ! すごいぞ、文恵!」正月からそこまで言うかあんたは、と文恵は思った。
「……本当は、お父さんの分だったんだからね」