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トイレット・ガール その8

 人間が長生きする秘訣は、くよくよしないことだという。
 だとしたら、俺は絶対に長生きなんてできないだろうな、と思った。
 少なくとも、すでに起こってしまった悪い出来事を、簡単に過去の笑い話として片付けることが できない後ろ向きな人間であることには違いない。
 高校を辞めて以来そんなことはわかりきっているから、俺は悪い出来事の当事者にならないように慎重に物事を 考え、進めてきたはずだった。
 それなのに、なぜ俺がこんな思いをしなくてはならないのだろうか。
 思い起こすたびに、情けなくて涙が出る。
 あまりの情けなさに、今日の仕事は本気で休もうかと思ったぐらいだった。
 もっとも、仕事なんていつだって休みたいと思っていることには変わりはないのだが。

「片梨さん昨日、里美ちゃんと何があったんですか!?」
「おいっ!」

 仕事中だというのに、またしても立川の奴がこの話題に触れようとしてきた。
 俺にしてみれば、この話題は心の腫れ物のように触れて欲しくはない話題なのだ。
 その話題に、好奇心だけで無遠慮に触れようとするとは。
 こいつなら、触れるだけでなく塩をなすりつけることすらやりかねない。

「仕事中だぞ。何もないから、とっとと仕事に戻れ」
「なんだ片梨さん、今日はずいぶん余裕がないんじゃないですか」

 その態度から、完全に俺をからかって遊ぼうとしているのが見て取れた。
 俺はため息を一つついて、あきらめたようにつぶやいた。

「昨日は、本当になんでもなかったんだよ」
「だって、おかしいじゃないですか。片梨さんがトイレに入った後、里美ちゃんが慌ててトイレに 戻って、その後里美ちゃんすぐに、変にそそくさとして帰っていったんですよ? 片梨さん、何か 里美ちゃんに酷いこと言ったんじゃないでしょうね?」
「何も言ってねぇよ」

 これは本当のことなので、俺は自信を持って言い切った。
 しかし、あくまでも自信を持って言えるのは何も言っていないという一点だけだったのが悲しいといえば悲しかったが。
 昨日、俺がすっかりトイレでやらかしてしまった後。
 ドアを開けるともうそこには里美ちゃんはいなくて、後にはただいくらか状態がマシになった腹を さすっている俺が残されただけだった。
 俺が必死に踏ん張っていたときに彼女が何を言っていたのかなんて、ほとんど覚えていない。
 いかにトイレでしか顔を合わす機会がない人間関係とは言え、このような情けない苦境を果たして 神が用意するものだろうか。

「そうなんですか? 怪しいなぁ〜。今トイレ行ったら里美ちゃんいましたけど、なんか妙に 機嫌悪そうでしたよ?」
「やかましいわぁっ! 早く仕事に戻れよっ!」

 俺はとうとう我慢できなくなって、冷静さを失った声で立川に怒鳴り散らしていた。

 まあ、こんな会話はどうだっていいのだが。
 立川の言った、『里美ちゃんの機嫌が悪い』ということが、少し気になっているといえば気になっていた。
 昨日俺に話そうとしていたことが、何か大事なことだったんだろうか?
 いや、そもそも『機嫌が悪い』というのは立川の信憑性のない情報だ。
 ここでそんなことを気にしているようでは、立川の掌の上で踊っているようなものだ。
 このところずっとあいつにからかわれているので、それは面白くない。
 だが、どちらにしても里美ちゃんの話の内容がなんだったのかは気になるところだった。
 それについては、ちゃんと話がしたい。
 それは、俺の正直な気持ちだ。
 ……仕方ない。
 俺は立川の勝ち誇った視線を感じつつも、トイレに向かって歩いていた。





 トイレのドアを開けるのに、こんなにためらいを感じたのは初めてだった。
 だいたい、用を足したいわけでもないのにトイレに来るなんて、隠れタバコを吸いに来る中高生や、 リンチの場所を確保したい中高生や、つらいことから逃げ出したくてトイレにこもりに来る中高生 みたいだ。
 トイレというのは、なんて暗いイメージのある場所なんだろうか。
 暗いイメージばかりが浮かんでしまうのは、今の俺の心境を反映しているからなのかもしれないが。

 こんなどうでもいいことを考えながら、俺はトイレのドアのノブに手をかけたまま、ためらいを 消すことができずにいた。
 やっぱり、何もしないで戻った方がいいんじゃないだろうか。
 いや、そんなことをしたら情けないにも程がある。
 立川に何を言われるかわかったもんじゃない。
 開けるぞ。開けるんだ。
 そう思ってノブを回そうとした瞬間、俺の意思に反してノブが勝手に回り、ドアが開いた。
 ドアの向こうから里美ちゃんの顔が迫ってきて、お互いが気づくまでに多少の間があった。

「あ」
「……わぁっ!」

 瞬間、ビクゥッ!と驚愕に顔を引きつらせ、ものすごい勢いであとずさる里美ちゃん。
 ……いや、何もそんなに驚かなくてもいいだろうと思うのだが、当の里美ちゃんは胸に手を当て、 ゼイゼイと息を切らしていたりする。
 相変わらずよく驚く子だな、と思った。
 きっと、学校なんかでもよくからかわれていたんじゃないかと予想できる。

「あ……掃除、終わったんだ?」
「あ、は、はい」

 返事をしながら、モップを持ち直す里美ちゃん。
 急いでモップを所定の場所に立て掛けると、慌しい動作でゴム手袋を脱いで、急いでトイレから出ようとする。

「あ、里美ちゃん」
「は、はい?」

 呼び止めても、彼女が振り向くことはなかった。
 俺と目を合わせるのを避けるかのように硬直し、ただ黙って背中を向けている。
 確かに、いつもの彼女と違って様子がおかしいのがわかった。
 やっぱり、昨日のあの出来事のせいなのか?
 いや、あんなのは、ちゃんと話をすれば笑い話になるようなことだろう。
 と、思う。たぶん。

「あー……昨日のこと、なんだけど」

 落ちつけ。大丈夫だ。上手く話を切り出すんだ。

「昨日の、あのときの話って、何?」

 いいのか。こんなことで、本当にいいのか。
 俺が自問を繰り返すのに、十分な時間が与えられた。
 別にそんな時間は欲しくもなかったが。
 だが、その時間を終わらせた里美ちゃんの発言は、そっけないものだった。

「いえ、なんでもなかったんです。大したことじゃないですから。それじゃ」

 あっけなく言い放ち、立ち去ろうとする里美ちゃん。
 あまりにもあっけなさ過ぎて、俺はショックも何もなくただ言葉の意味だけを受けとめていた。

「そ、そうか。じゃ」

 条件反射的に返事をして、思わず手まで振ってしまう。
 俺、何やってるんだろう。
 バカみたいだ。
 自分がとんでもなく広い場所に立っているみたいで、頭の中には雲一つない真っ白な空が広がっていた。
 目の前の情景がわけのわからない景色に変貌し、危うくトリップしそうになる。
 そのときだった。
 背後から唐突に、猛烈な勢いで水の流れる音がして、俺は我に返った。
 大の便所のドアを開けて堂々と姿を現したのは、愛すべき中間管理職、我らが課長その人だった。

「か、課長!」
「ふふふ、片梨君、ふられてしまったようだね」

 蛇が嘲笑うかのような口調で、ゆっくりと俺にまとわりつくように話し掛けてくる課長。
 なんということだろうか。
 まるで、子供が悪いことをした現場を親に見つかってしまったときのような強い衝撃。
 あまりのショックに、血液が凝固したような錯覚すら覚える。
 まさか、課長がこんなところに!
 課長がこんなすぐ近くにいたにもかかわらず、俺はそうとは知らずに、里美ちゃんと先刻のような会話を してしまっていたのか!

「残念だったけど片梨君さあ、君はちょっと押しが足りなかったんじゃないのかい? 男はもっとこう、 強気でいかなきゃ」

 すぐ側で話す課長の声が、ものすごく遠い場所から聞こえるような気がした。
 もしかしたら、里美ちゃんの態度が変だったのも、課長がトイレにいたのを気にしていたからじゃないのか?
 だとしたら、俺はなんてバカだったんだろう。
 俺は課長の話なんてどうでもいいから、一刻も早くこの場から逃げ出したい衝動に駆られていた。

 そのとき、思いもかけぬ方向から、思いもかけない声が聞こえた。
 突然の出来事に、俺は目の前にかかった霧が爆風で飛ばされたような思いをした。

「いい加減にしてくださいっ!」

 その声の主は、誰あろう里美ちゃんその人だった。
 彼女は息を荒げて、顔を真っ赤にして興奮した様子だった。
 ただ、初めて見る表情だった。
 それは、怒りの形相だった。

「なんなんですかっ! いつもいつも、私をそんな目で見て! 私が掃除するたびに、皆してトイレに 入ってきて、掃除の邪魔して! 私をなんだと思ってるんですか! そんなに、私なんかからかって、 そんなに面白いんですかっ!?」

 いったい、このときの俺と課長に何ができたというのだろう。
 課長は目配せで語る、俺に『なんとかしろ』と。
 方法があるのなら教えてください。
 課長、俺に何ができるというのですか?

「今までいろんな会社のトイレを掃除しましたけどっ、ここは最悪です! 私をからかわないでください!  もう、こんなところはうんざりなんですっ! そうじゃなくても、ここは他より臭いし汚いし、すぐ詰まるし!  壁にガムとか鼻クソとかくっついてるし! もう嫌なんですっ! うんざりなんですっ!」

 彼女は、力の限り訴えていた。
 いつしか真っ赤になった目から、涙が溢れ出ていた。
 彼女は涙を見られるのを悔しがるかのように背を向けると、子供のように小さな体で駆け出して行った。
 俺と課長はその間、立ちつくしていることしかできなかった。
 ただ、呆然と。

つづく

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