帝国華撃団外伝
『あなたがここにいてほしい』

THERE MUST BE AN ANGEL

『Take Off!』
Illustrated by もんぺーる
 第一部
(最終更新日8/12)
 
 
 
 

 太正十四年八月 小樽港

 

 底知れぬ闇の中で、高村椿は頭上を見上げた。
 漆黒の闇の中に真四角に切り取られた青空がぽっかりと浮かんでいる。
 鮮やかな濃い青色の夏空には、真っ白い綿のような雲が活動写真のような速さで次々に四角い空を横切っていく。
 嵐が過ぎ去った後の空は眼に染みる程青い。
 椿は深い安堵のため息をもらした。

 船を真二つに折らんばかりの激しい嵐の中で、高村椿の乗った輸送艦は激しいローリングとピッチングを繰り返していた。艦長の巧みな操船のお陰で横波を受けることは無かったものの輸送艦の中では立っていることも寝ていることも出来なかった。嵐の海を何度も経験してきた強者共も通路を転がりながら苦しげに身をよじり、嘔吐を繰り返していた。
 高村椿は、船艙の最低部で船の構造物に自らの体をロープで縛りつけたまま船底に積まれている武骨な機械の監視を続けた。嵐の中で船体はきしみ、天も地もわからなくなる程に激しい揺れを繰り返した。
 もはや吐くものさえも失った椿は、闇の中に沈み込みそうになろうとする朦朧とした意識を必死に支えながら蒼白の顔をもたげた。腰に下げていた軍用懐中電灯のスイッチを入れ、光の輪を前方の闇に向けた。
 三機の天武は出航した時のまま床に正立している。固定用のワイヤーの内、細いものの数本は切れたが、最も太いワイヤーは天武を確実に固定している。
 安心した椿の意識は闇の中に呑まれた。だが安息の時間は短い。椿は再び激しい揺れを繰り返す船艙の闇の中に覚醒し、柱に縛りつけられた華奢な体をくの字に折曲げながら嘔吐感に身悶えていた。
 こんな闇の中で死にたくない。
 椿は、ひたすらこの輸送艦が転覆しないことと、天武を固定しているワイヤーが切れないことを願った。
 天武はまだ新機関を搭載したままだ。新機関が破壊された場合にどのような事態になるのかは椿は良く知らなかったが、漏れ出す毒は数万人をも殺傷すると言われている。仮に新機関が損傷しなくても、この三機の天武が船艙の中を転がり始めたら、椿の体は簡単に潰されてしまうに違いない。
 小山のように一際高く盛り上がった波頭の頂上から輸送艦は闇の奈落に急速に降下し始めた時、船艙の壁に装備されていた救命浮輪の一つが外れ、床を転がり弾んだ浮輪が椿めがけて飛んできた。自ら柱に縛りつけていた椿はよけることも出来ず、浮輪は椿のみぞ落ちにまともに当たった。
 椿の意識は深い闇の奈落に沈んだ…

 「おおーい、大丈夫かあ!お嬢ちゃん!」
 真四角な青空の隅に頭の影がこちらを覗いている。椿のことを「お嬢ちゃん」と呼ぶのは副艦長の広瀬中佐に違いなかった。
 「…私は…大丈夫です!」
 返事をする椿の声ががらんとした船艙全体に響き渡った。
 「…ずっとそこにいたのか?…」
 「海が…海が荒れ始めてからです!」
 「ご苦労さまあ!…もう、船は小樽港に入ったぞ…もうすぐ上陸だ!!」
 元気な副艦長の声に椿の心の中もさっと明るくなった。
 …北海道…
 広大な草原、鬱蒼とした原生林、たくましい開拓者達が切り開いた大地…
 天武の改装と起動実験という重要な任務を任された緊張感を感じながらも、豊かな自然に恵まれた北の大地に椿の心は出港の時と同じように再びときめいていた。
 椿は制服のポケットから懐中時計を取り出した。
 午前9時45分。
 当初の予定から2時間程遅れている。輸送班はやきもきしているに違いない。何しろ通常の旅客列車の合間に、天武輸送の特別輸送列車を誂えているのだから…
 「…おーい、お嬢ちゃん…」
 再び頭上から広瀬中佐の声が響き渡り、椿は四角い青空を見上げた。
 「艦長が呼んでいる。すぐに上がって来てくれ!」
 広瀬中佐の言葉に、椿は青ざめた。
 真直ぐに甲板に伸びる垂直梯子…
 嵐の最中には無我夢中で降りたその梯子が、今はとてつもない長さで椿の前にそびえている。
 「艦長室で待っておられるからな……どうした?高村…」
 「……いいえ、何でもありません…すぐに行きますっ!」
 椿の返事を聞いた広瀬中佐の影が四角い青空の隅から消えた。
 椿は大きく深呼吸した後、梯子に手を掛け、一段目の梯子に軍靴を乗せた。
 甲板までの高さはどれくらいあるだろう?帝国劇場の屋根くらいの高さだろうか?
 …右…左……右…左……右…左……
 椿はつとめて機械的に登ろうと心に決めた。こうして繰り返していけば、そのうち甲板に着く…そのうちに…
 …右…左……右………左…
 心臓の鼓動が体全体を震わせ、呼吸が荒くなる。
 全身に噴き出した冷や汗が膜のようにひんやりと体を包んでいる。緊張に手も足も強張り
なかなか次の動作にうつれない。
 椿はそうっと下を見た。
 先ほどまでいた船底は椿のはるか下にあり、鋼板の鈍い光がわずかに見えるばかりだった。恐怖を振り払うように椿は上を見た。にじんだ涙に四角い青空が歪んで見える。
 …もうすぐ…もうすぐよ…
 自分に言い聞かせながら、椿は震える手で一段先の梯子を掴んだ。

 ようやく、甲板にだどりついた椿は足をもつれさせながら甲板の上に仰向けに転がった。 真っ青な空が椿の上に広がっていた。
 かもめがゆっくりと弧を描きながら飛んでいる。
 今度生まれかわるなら、鳥になろう。
 椿は静かに目を閉じた。
 

 鉄扉を開け艦長室に入ると、椅子に座り書類に見入っていた艦長がちらと視線を上げて高村椿を見た。
 「よく登ってこれたな」
 「…は?…」
 沼田艦長は悪戯っぽい微笑を浮かべて、大きく胸をそらせた。
 「あの梯子は『清水』なんて名前を付けられていてな…新米の水兵は怖じ気づいて登ってこれないことも有るんだ。そんな時は網に入れて起重機で引き上げてやるんだが、その必要は無かったようだな」
 椅子から立ち上がった沼田艦長は、手に持っていた書類を椿の前に差し出した。
 「今しがた小樽の手宮駅から入電した。今から1時間ほど前に手宮駅の構内で爆発が有ったらしい。」
 「…爆発…ですか?」
 「うむ、今のところ事故か事件かは判然としないのだが、爆発の時刻と輸送列車の出発の
時刻が符号している。場所は少し離れているらしいが、どうも気になるな。」
 マリアからシベリヤでの天武輸送の経緯を聞かされていた椿は、天武に因縁めいたものを感じ、椿の中で不安が黒雲のように膨らみ始めていた。
 「もちろん知っての通り、演習場までは精鋭部隊が護衛につく。心配は無いと思うが注意するにこしたことはない。」
 沼田艦長の穏やかな微笑に、椿は姿勢を但した。
 「ありがとうございます、艦長。」
 敬礼をして立ち去ろうとする椿を沼田は呼び止めた。
 「高村君、……」
 怪訝そうに振り返った椿を沼田は真顔で見据えた。
 「…無理はするんじゃないぞ。」
 椿はうなづき、鉄扉を開け艦長室から出ていった。
 沼田は少し考え込んだ後、胸の内ポケットから手帳を取り出しそっと開いた。
 黄変した小さな写真の中に制服に身を包んだ少女が微笑んでいる。
 沼田は手帳を元どおり胸の内ポケットに収め、入港準備のために艦橋に向かった。

 小樽港の第2埠頭に接岸した輸送艦から、側面をシュロで覆われた天武が起重機で次々に埠頭に待機していた蒸気牽引車に降ろされていく。
 埠頭に立つ椿は、緊張した面持ちで作業を見守っていた。
 「真面目なんだな、お嬢さんは…」
 椿が振り向くと、広瀬中佐が立っていた。その眼は宙に吊り下げられた天武に向けられている。
 「余程大切な兵器らしいな」
 「…大切な兵器です。……でも人殺しの道具ではありません。」
 椿は自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
 「…これは、魔と戦うためのものです…」
 「…魔と…戦う…」
 「そうです。邪悪な魔と戦うための兵器です。」
 誇らしげな椿の口調に、広瀬中佐はしばらく沈黙した。
 「…魔と戦うための兵器…確かにそうかもしれない…だが、魔を倒せる兵器というのはとりも直さず、人を殺せる兵器だと思うのだが違うだろうか?」
 広瀬中佐の静かな真剣な語調に椿は言葉を失った。
 「私は、向きあう敵は人であろうと獣であろうと魔であると訓練されている。私はそれが敵だと命令されれば躊躇することなく撃ち殺すことができる。」
 「…中佐…」
 「…兵器というものは…兵器自体は単なる殺戮の道具でしかない…それに目的を与えるのはそれを使う人間だ…」
 椿は顔を赤らめうつむいた。最新鋭の自立歩行型兵器の移送と試験という重大な任務を意識するあまりそれが変なプライドになってしまっている。椿は自分の軽率な発言を悔いた。
 「…す、すみません!…わ…私は…あの…」
 しどろもどろになっている椿に広瀬中佐は優しく微笑んだ。
 「……お嬢ちゃんにきついことを言ってしまったな…偉そうなことを言ったけれど、正直人間同士の戦いに飽き飽きしているのさ。お嬢ちゃんと一緒に降魔と戦えたらいいなあ、なんてこの短い航海の間何度も思ったんだ…」
 「…広瀬中佐…」
 「…手宮駅の爆発事件を参謀本部に連絡したら、首謀者等が判明するまで高村椿を護衛するようにとの命令が下った。小言じじいがしばらく傍に居ることになるが、我慢してくれるかな、お嬢ちゃん。」
 椿の顔がぱあっと明るくなった。
 「…よ、よろしくお願いします!広瀬中佐!」
 港の外で出港を知らせる船の汽笛が響き渡った。

 特別輸送列車

 天武を搭載した大型牽引車が手宮駅構内の貨物集積場に到着すると、待機していた護衛の部隊が大型牽引車を取り囲んだ。
 駅の構内には、爆発の後のきな臭い匂いがまだたちこめている。
 高村椿と広瀬中佐が牽引車から地上に降り立つと、輸送護衛の責任者である将校と手宮駅の駅長が出迎え、椿達に敬礼をした。
 「警護を努めます札幌第二師団第7普通科連隊、岩城中尉であります。」
 「手宮駅駅長の森田です。遠路はるばるご苦労様でした。」
 敬礼の後、広瀬中佐は静かな口調で切り出した。
 「爆発の件についての詳細な情報が欲しい」
 「おそらくは黄燐爆弾ではないかと思われます。現在工作班が現場検証をしておりますが、先ほど時限装置に使用されたと思われる機械部品、電池等が発見されております。」
 能面のような面立ちの岩城中尉は抑揚の無い声で報告を始めた。
 「場所は構内外れの鉄道資材倉庫付近で、爆発の時刻は0857、爆発直後から幹線道路を封鎖し検問を行っておりますが、今のところ不審な人物等についての連絡は入っておりません。」
 「…やはり、輸送開始を狙ったものだな…」
 広瀬中佐は爆発の起こった鉄道資材倉庫の方を見つめた。
 「しかし、なぜ資材倉庫なんかに爆発物をしかけたのでしょう。もしこの兵器の破壊を工作したのならもっと別の確実な方法があったのでは?」
 白い制服を着た駅長が首をひねった。
 「…おそらく、破壊が目的では無かったのでしょう。…有事の際にどのように対応するかが知りたかったのでしょう、多分…」
 一語一語かみしめるように広瀬中佐がつぶやいた。
 「……嵐で入港が遅れたのが幸いしたようだな…」
 「…これから、…どうします?」
 駅長が広瀬中佐と高村椿の顔を交互に見た。
 「どうするといっても、運ばなければならないよなあ、高村君!」
 広瀬中佐が満面に笑みを浮かべて椿を見た。
 「…えっ?…ええ…はい…」
 どぎまぎしながら椿は返事をした。責任者は私なのにすっかり広瀬中佐に頼りきっている。…いけない、こんなことじゃ…
 「…輸送車両の爆発物検査と、軌道の検査にどのくらいの時間がかかるのでしょう?」
 能面のような表情の岩城中尉に質問する椿の声は少し上ずっている。
 「…軌道検査は既に開始されているので、…後一時間ほどで終了します。」
 「…それでは、1230を輸送開始時刻にしたいと思います。」
 岩城中尉は敬礼をすると、踵をかえし兵達に矢継早に命令を下し始めた。
 ほっとした椿の耳元に広瀬中佐がそっと囁いた。
 「…その調子だ、お嬢さん…」
 照れ臭そうに椿は笑った。
 「…中佐殿…」
 かたわらの駅長が懐中時計を見ながら広瀬中佐に話しかけた。
 「…もうすぐ、お昼です。もしよろしければ私の部屋で食事でもいかがですか?」
 広瀬中佐と椿は顔を見合わせた。
 「…よろしいんですか?私はともかく、このお嬢さんはやせの大食いで私の2倍も食べるんですよ。」
 「中佐!あんまりです!!」
 顔を真っ赤に染めて抗議する椿を二人の男が腹を抱えて笑った。
 「…ああ、愉快だ…実を言うと断わられたら大変なんですよ。もうすっかり準備は整っているんです。いくら食べても大丈夫なくらいありますよ。」
 広瀬中佐と高村椿は駅長の後をついて駅舎に向かった。
 駅舎の事務所の脇の廊下の突き当たりに駅長室が有り、森田駅長に広瀬中佐と高村椿は招き入れられた。
 駅長室自体はそれほど大きな部屋ではなかったが、執務机や応接椅子、キャビネット等の調度品は洗練されていて、機能的に見える。キャビネットの中には多分、森田駅長の趣味なのだろう、大小様々のカメラが並べられており、壁には見たことのない弦楽器が掛けられている。丸い胴に描かれた猿と狐の絵をじっと見つめている椿の背後から森田駅長が声をかけた。
 「それは、月琴といって中国の楽器ですよ。以前、中国を大陸浪人していた友人から貰ったものです。」
 「…月琴…」
 丸い形をしたその楽器を見つめながら、椿は遠い異国でこの楽器が奏でられていた時の情景を思い描いていた。
 「さあ、どうぞ…たいしたものは用意できませんでしたが…」
 駅長室の執務机の背後の衝立ての裏に回ると、そこにはこじんまりとした日本間が有り、その中央の座卓の上には、刺身や寿司、様々な魚介料理が並べられていた。
 「…わあ!おいしそう!」
 叫んでから椿はしまったというように両手で口を覆った。
 (…ここは帝劇の食堂じゃないのよね…私ったらもう…)
 「さあさあ、どうぞどうぞ…江戸前に慣れている方には、少々雑な料理かもしれませんが、鮮度だけは自信がありますよ。」
 森田駅長はにこにこしながら、2人に席をすすめた。
 「…すばらしいですね…いいんですか?こんなに御馳走になってしまって…」
 広瀬中佐は予期せぬ歓待に当惑しながら、森田駅長に尋ねた。
 「せっかく北海道にいらっしゃったのだから、北海道の味を味わっていただきたいのですよ。その土地を知ろうと思ったら、まずその土地の料理を食べてみることですよ。さあ、どうぞ召し上がってください。」
 森田駅長に勧められ、広瀬中佐と椿は目の前の料理に箸を伸ばした。
 オレンジ色の雲丹は例えようもなく甘く、活だこの刺身の鮮度に2人は驚いた。
 「…すみません…このお魚、何て言うお魚なのかしら…」
 椿の丁度目の前に姿盛りにされている魚は、黒っぽいいかつい皮で覆われており胴がまるで鉛筆のように角ばっている。胸鰭も大きく、どちらかと言えばあまり印象の良くない魚だ。
 「…その魚は八角といいましてね。体の断面が八角形だからそう呼ばれているんですが、どうも古代の魚があまり進化しないで残ってしまったというような魚らしいです。見てくれは余り良くないんですが、味はなかなか馬鹿にできないんですよ。良かったら食べてみてください。」
 椿は八角と呼ばれるその魚の刺し身を一切れ箸でつまんだ。刺し身自体は珍しくもない白身の刺し身に見える。
 恐る恐る口の中に入れた椿の瞳が輝いた。
 「…美味しい!…」
 広瀬中佐もどれどれというように、その刺し身を口に運んだ。
 「…なるほど…美味い。…とても脂がのっている…」
 何度もうなづきながら、箸を伸ばしている2人を見ながら森田駅長は満足そうに微笑んだ。
 「……見かけよりはずうっと美味しいでしょう?私も小樽に来てすっかりこれが好物になりました。」
 「以前はどちらにおられたのですか」
 「中国の方に…こちらと同じように炭田から石炭を集約し石炭運搬船に積み込みをする駅でした。その時の経験が多少なりとも役に立つのではないかということで、この手宮駅の駅長になったわけです。」
 森田駅長は、静かに茶を飲んだ。
 「…まさか、北海道の片田舎の駅で爆破事件とは、正直言って私も大変驚きました。この駅の構内で…」
 「警護の兵士がいたのです。貴方の責任ではない。」
 森田駅長が垣間見せた苦渋の表情に、広瀬中佐はきっぱりと言い切った。
 「それに先ほども申し上げた通り、あの爆破は新兵器への直接攻撃を意図したものではない。爆破によりどのような手順で警戒態勢がとられ、また兵器がどのように確保されるのかを知るのが目的だと思うのです。」
 「…とすれば…」
 森田駅長は一瞬間を置いた。
 「…今も爆破犯人は我々の様子をうかがっている。…」
 重苦しい沈黙がたちこめ、椿は不安気に周囲を見回した。
 「…そうとも考えられます。どこかの物陰から、あるいは全く疑われることのない姿形で、我々を観察しているかもしれない…だが、悪戯に警戒心ばかり強めてもどうしようもありません。必要十分な警戒心を持つ事が肝要です。それ以上でもそれ以下でも駄目です。」
 広瀬中佐の言葉に、椿はどこかでこれと似た言葉を誰かから聞いたような気がしたが思い出せなかった。
 遠くの林から蝉の鳴く声が聞こえてきた。 
 北海道にも夏が来たのだ。
 椿は冷たい烏龍茶で喉を潤した。

 鼓膜を破らんばかりに汽笛が鳴り響き、機関車の巨大なシリンダーは白い水蒸気を吐き出しながらゆっくりと往復運動し始めた。動輪が軋みながら緩慢な回転をし始め、各車両の連結部が衝撃音の重奏を奏でている。
 いよいよ出発だ…
 椿と広瀬中佐の乗る車掌車にも牽引の衝撃が伝わり、椿は手すりを掴む手に力を込めた。
 車掌車のすぐ前の車両には正立した状態の天武が3体搭載されているが、3体全体を覆う形で国防色の防水幕が掛けられているため外観からは人型兵器とはわからない。
 車掌室の小さ目の窓を開け、椿は周囲を見渡した。
 輸送列車の両側には、大勢の兵士が捧げ銃をしたまま微動だにしない。前車両の天武の周囲に配置された兵士達も人形のように静止したまま、鋭い視線だけを周囲に向けている。
 白い制服を着た森田駅長がこちらを向いて敬礼をしている。
 椿は慌てて姿勢を正し敬礼をした。椿の横で広瀬中佐も頬を引き締め敬礼している。
 白い制服がどんどん小さくなっていく。
 輸送列車は次第に速度を上げていった。手宮駅構内を出た輸送列車は次第に速度を上げ、運河沿いの倉庫群に近づき始めた。石造りの巨大な倉庫が次々に現れては消えていく。
 踏切の警報音が近づくにつれ次第にその音が高まっていく。
 強い日差しの照りつける踏切に一つの人影が見えた。倉庫の影と夏の強い光線の反射の境にゆらめくその人影は近づくにつれ、黒衣の女であることがわかった。
 警報音が最も大きく鳴り響いた瞬間、踏切で立っていたその女はゆっくりと顔を上げた。
 
 その瞬間、椿は声を失った。

 藤枝あやめ……

 あやめさんが、なぜここに…
 

 椿は車掌室後部の扉に向かって駆け出した。
 「どうしたっ!椿君」
 背後に広瀬中佐の声を聞きながら、椿はあやめを目で追った。
 黒い憲兵隊服に身を包んだ藤枝あやめは、取り出した黒眼鏡を掛けながらこちらを見ていた。

 踏切の警報音が胸の動悸に変わっていた。

 …あやめさん…なぜ…

 真っ青になり床に崩れ落ちようとする椿の体を広瀬中佐は抱き止めた。
 高村椿は気を失っていた。 
 
 
 
 
 

 

 
 

 

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