手のひらの中に、傷つき今もう死に絶えようとしている小鳥がいた。
その生の温もりを逃がすまいとするかのように両の手のひらで小鳥の体を優しく包みながら、少女は森の中を駆けた。
「…もう、無理だよ…お医者さんに持っていっても、先生に迷惑をかけるだけだ…」
「…どんな生き物にも運命というものがあって…そう、その鳥は初めからそんな風に死ぬって決まっていたのよ…」
「…もう、駄目よ。一応、傷用の薬をあげるけれど、小鳥には効かないわ。…きっとどこかの骨が折れているのよ…直せないわ…」
森の中の小径を駆け抜ける少女の頭の中に、大人達の声がざわめく。
木もれ陽が射す度に少女の目尻に幾つもの小さな光が輝いてはにじみ、風景がぼうっと霞み始める。
両手で小鳥を包んだまま少女は手の甲で涙をぬぐった。
私のせいだ。
私のせいだ。
わたしのせいだ。
わたしのせいだ。
膨れ上がった感情は少女の体を破裂させそうだった。
駆けていた少女の足がもつれ、少女は落ち葉の中に転がった。
小さな殻を作っていた両手はそのままだった。
ほっとした少女は、そっと組み合わせていた両手を開いてみた。
腐肉は血と共に溶け出し
小さな白骨の細いあばら骨の中に蛆がうごめいていた。
少女は悲鳴を上げ、死骸を振り払った。
宙に舞った柔らかな小さな羽毛が少女の顔を覆った…
マリア・タチバナは目を覚ました。
額に薄らと浮かんだ汗を手で拭いながらマリアは、キャビネットの上の小さな時計の文字盤に目をやった。
4時15分。
カーテンのすき間から漏れる光が眩しい。
ゆっくりと上体を起こしたマリアは、2、3回かぶりを振りながら指で前髪を櫛削った。
シーツをゆっくりと払い除け立ち上がったマリアは、キャビネットに近づいた。
水差しを手に取りコップに水を注ぐとマリアは喉を鳴らして水を飲み干した。
カーテンのすき間から洩れる一条の光線の中に、均整のとれた白い裸身が浮かび上がり、その優美な曲線を縁どるように柔らかなうぶ毛が金色に輝いている。
空になったコップをキャビネットの上のトレーに置いた後、マリアはクローゼットの前に立ち、下着を身に着けはじめた。
白いヴィスチェの留め紐を締め上げながら、マリアは部屋の中央のテーブルの上に置かれたラヂオのスィッチを押した。小さなスピーカーからバロック音楽が流れ出た。聞いたことの無い曲だったが、ハープシコードの音色がマリアには心地良かった。
マリアは洗面台の前に立ち、顔を洗い始めた。冷たい水が気持ち良い。
麻の白いブラウスと7分丈の黒のスラックスに身を包んだマリアは、テーブルの上から読みかけの本を取り上げた後そっとドアを開けて、廊下に出てサロンに向かった。
サロンには先客がいた。
キャミソール姿で雑誌をめくっているのは神崎すみれだ。
「…あら…マリアさん、おはようございます。……今日は随分とお早いのですね。」
「…おはよう…すみれも早いのね…」
応接椅子に座り、マリアはしおり紐を挟んでいた頁を開いた。すみれは、仏蘭西の服飾雑誌を面白くなさそうに繰っている。
窓から入り込むわずかな微風がカーテンを緩やかに波打たせている。
「全く暑くて寝ていられませんわ…マリアさんも寝苦しくて起きていらっしゃったんでしょう?」
「…ええ…、そうね。…今日も暑くなるわね…」
マリアは、もう一度読みかけの部分の先頭の文章に視線を戻した。
退屈そうに頁をめくりながら、すみれはため息をついた。
「仏蘭西のヴァカンス…南仏蘭西の別荘で海水浴ですって…」
流行りの水着姿の少女達の写真を見ながらすみれは頬杖をついた。
「…ああ…軽井沢でもいい…どこか涼しい所に行きたいわ…」
「本当にね」
本を読みながらマリアは短く答えた。
「嘘ばっかり!」
雑誌から顔を上げたすみれの顔はすっかり不機嫌になっている。
「…どうしたの?すみれ…」
マリアは怪訝そうに、すみれの顔を見つめた。
「だって、マリアさんは誰かが何処かへ行こうという度、任務がどうのとか舞台の稽古がどうのとかで全然自分から行こうなんて言わないじゃありませんか?思ってもいないことを生返事されても気分が良くありませんわ。」
気色ばんだすみれの顔を見ながら、マリアは淋しげな微笑を浮かべた。
「…確かに、いつもそんな事ばかり言っているわね…」
「………」
「でも、暑い時には涼しいところに行きたいなと思うこともあるのよ…すみれ」
すみれはマリアの言葉など聞いていないような素振りで、再び雑誌の頁をめくり始めた。
マリアはしばらくすみれの方を見ていたが、やがて諦めたように本の活字を追い始めた。
柱時計が午前5時の点鐘を打ち始めた。長い5つの点鐘の最後の点鐘の余韻が細く長く響
き続けてその音がついに消え果てた時、すみれが口を開いた。
「…マリアさん…」
すみれは雑誌の広告を見つめたままだ。
「…今度の日曜日、ご都合がよろしければみんなで軽井沢の別荘にいらっしゃいませんこと?いつもは一人で行くのですけれど…一人だけ涼しくても何だか気分がさっぱりしなくって…」
顔を上げずに雑誌の広告を見つめたままのすみれの言葉だったが、マリアにはすみれの不器用な心づかいがとても嬉しかった。
「…そうね…お芝居も一段落したし…応援の部隊も来ているし…お言葉に甘えようかな…」
すみれは、相変わらず聞こえないような素振りで雑誌の広告を見つめたままだ。
「その広告に随分興味が有るのね、すみれ」
マリアの言葉に、はっとしたようにすみれはその広告を見直した。
新開発の男性用避妊具を図解した広告であることに気づいたすみれの頬は朱に染まった。
マリアは、鳩のように喉を鳴らして笑った。
オレンジジュースに、厚めのトースト、スクランブルエッグとベーコン、えんどう豆の浮かんだチキンスープと、西洋胡瓜の酢漬け、食後のエスプレッソコフィ…
毎日のマリアの朝食は大体こんな風だ。たまにロシア製の苺ジャムをトーストに塗る時もあるが、大抵は、帝国ホテル製と銀紙に印刷されている小さなバターを塗る。日本で手に入るピクルスは酸味がもの足りないのが残念だが、贅沢は言えない。
淡い草色のトレイにいつも通りのメニューを並べ、エスプレッソマシーンのレバーを引き下げる。蒸気が立ちのぼり小さなコフィカップは泡立ち、香ばしいコフィの香りが立ちこめる。
「あら…マリアはいつもエスプレッソなの?」
振りかえると、藤枝かえでがマリアと同じようにトレイを持って立っている。
「薄めのコフィが好きなのだと思っていたけれど…」
黄色い木綿のワンピースを着たかえでは、少女のようだ。
「前まではずっと薄めのものを飲んでいたんですけれど…最近織姫にすすめられて飲んでみたら結構美味しくて…」
「…へえ、そう…私も飲んでみようかな…どうやって入れるの?」
複雑なレバーの突き出たエスプレッソマシーンを前にかえでは戸惑っていた。
「…こうやって…ですね…」
マリアがレバーを押し下げるともうもうと蒸気が立ちこめた。
「…すごいわ…まるで光武みたいね…」
コフィカップを差し出しながらマリアは微笑んだ。
「…似ていますね…そう言えば…」
「…考えてみれば、同じ人が作ったものね…」
マリアとかえでは、爆発と縁の切れない少女の顔を思い描き顔を見合わせて笑った。
「今日はみんな遅いみたいね…」
他に人気の無い食堂を見渡しながらかえでがつぶやいた。
「すみれは外出しました。」
「こんな時間に?」
「この間近くに開店した喫茶店に行ったみたいですよ。何でも、クロワッサンが美味しいと評判のようです。」
「…クロワッサン…ね。私はあれにあんこが入っていたらもっと美味しいと思うのだけれど…」
「…あ…あんこですか…」
思いがけないかえでの言葉にマリアの持つトレイは15度程傾き緑色の瞳孔が収縮した。
「…甘いものは嫌い?マリア」
「…い…いえ、嫌いではありませんが…」
あんこ入りのクロワッサン…何か違うような気がする…
疑問を抱きつつ、マリアはかえでの前の席の椅子を引き、席についた。
かえでは、リズムをつけて、と、と、とんと、テーブルの角で生玉子を割り、小鉢の中に黄身白身を落とすなり、ちゃかちゃかちゃかと箸でかき回した後、テーブルの上の醤油差しをおもむろに取り上げ、小鉢の上に小さな弧を描いた後、再び箸で小鉢の中をかき回した。それから、箸でごはんの中央部に小さな穴を開け、小鉢をそっと傾ける。とろりとした白身のかたまりと黄身が程よい位にその穴に流れ込み、白いご飯が中心から徐々に黄茶色に変わっていく様をじっと見ているかえでの表情はとても楽しそうだ。
オレンジジュースを飲みながら、マリアは食文化の差異をまざまざと実感していた。おそらく、あの味を理解できるのは日本人だけに違いない。アイリスもレニも織姫も玉子かけご飯だけは絶対に食べない…
「…米田司令から何か聞いてる?マリア」
かえでが味噌汁を一口啜った後、小さな声でマリアに尋ねた。
「…いいえ…何のことですか?」
「打ち合わせがあるの…10時に、支配人室で…」
あじの開きに箸をつけ、骨の部分をはがしながらかえでは独り言のように答えた。
「一体何の打ち合わせですか?」
「私にも良くわからないの…政府のお役人も同席するらしいわ」
「…政府の…」
マリアは、厚焼きのトーストにナイフでバターを塗りながら、つぶやいた。
舞台のことではないだろう。何か新しい任務だろうか…
手を止めて、マリアは窓の外をぼんやりと見つめた。
空は夏の光に満ち輝いている。
鳴いていた蝉の声が一際大きくなった。
キャビネットの時計は9時55分を少し過ぎていた。
マリアはストライプのスーツに着替え、鏡でもう一度自分の服装を確認した後廊下に出た。
支配人室の前の廊下に出ると、そこに大神がいた。
「やあ、マリア、おはよう」
「おはようございます、隊長」
マリアはほっとしたように微笑を浮かべた。
「…一体何だろうな…政府の役人が来るなんて」
大神は歩きながら、首を傾げた。
「戦闘の時に、国の建物でも壊したかな?」
振り返りながら大神が悪戯っぽく笑った。
支配人室のドアの前に立つと、大神はノックをして声を張り上げた。
「大神とマリア・タチバナ、入ります!」
「おう!早く入んな!」
大神の声に負けない米田司令の威勢の良い声が中から答えた。
部屋の中に入ると、米田司令の他に藤枝かえでと縁無しの眼鏡をかけた若い男が応接椅子に座っていた。
ダークスーツに身を包んだその男は、大神とマリアの姿を見るとゆっくりと立ち上がった。
「二人とも早くこっちへ…橋詰さん、うちの大神とマリア・タチバナです。…こちらは外務省情報部の橋詰さんだ。」
米田司令に紹介された男は慇懃に会釈した。
「外務省情報部三課の橋詰清一郎です。」
仕立ての良い背広に一筋の乱れも無いオールバック…高級そうなブリーフケース…高級官僚のイメージそのままの男だが、縁無しの眼鏡の下に見える切れ長の眼は鋭い。
「帝国華撃団隊長 大神少尉です」
「帝国華撃団 マリア・タチバナです」
会釈をしながらマリアは、目の前の長身の男に危険な匂いを嗅ぎとっていた。
「橋詰さんは、防諜活動、つまり国内の密偵活動を監視、摘発する仕事をしていらっしゃる。…今回、橋詰さんが担当している問題は、華撃団のみならず軍全体の機密保持に関わることだ…」
(…軍全体の機密保持…)
事の重大さにマリアの神経は張り詰めた。
一旦言葉を切った米田司令は、数枚の写真をテーブルの上に置いた。写真に写っているのは革製のジャケットを着た金髪の女性だった。その写真の内の何枚かは、飛行機を背景に写されている。
「大神はこの写真の女を知っているか?パトリシア・ベースハートって名前だ。」
大神はかぶりを振った。
「…確か、リチャード・ベースハートの奥さんですよね。」
マリアは、ニューヨークに住んでいた時に新聞を賑わしていた有名飛行家の顔を思い出していた。その栄光とその後に続いた悲劇…
「おう、その通りだ。さすがはアメリカに住んでいただけあるな、マリア。」
米田司令は満足そうな微笑を浮かべた。
「リチャード・ベースハートは、1918年に無着陸で大西洋横断に成功した有名飛行家だ。空の英雄と讃えられ、米国は国を挙げて彼の成功を祝福した。彼の書いた冒険記は世界各国で翻訳され絶賛された。その後、彼の妻パトリシアも、女性飛行家として、速度や無着陸に関する数々の記録を打ち立て、米国は熱狂した。…が、しかし…」
米田司令はテーブルの上に大判のファイルを開いた。そこには米国の新聞記事が貼り付けられていた。
「…悲惨な事件が起きた。彼等の長男で当時10才のロバートが誘拐され、10日後惨殺死体が発見された。全くひでえ事しやがる…犯人は見つからず、この事件はいまだ解決していない…当時はかなりの衝撃的な事件だったらしいな、マリア?」
マリアは声もなくうなづいた。
「翌年、リチャード・ベースハートは長距離飛行にむけての訓練中、着陸に失敗して亡くなった。相次ぐ悲劇…」
米田司令が次の頁をめくると、飛行機の前で少年と肩を抱き合い、群集に向かって手を振っているパトリシアの写真が有った。
「相次ぐ悲劇にも負けず、パトリシアはその後も数々の飛行記録を樹立した。彼女の次男スティーブも最年少の飛行士として活躍し始めた。逆境にも負けず前人未到の記録に向かって飛び続ける彼女達は、まさに米国の期待の星だった。…が、悲劇はこれで終わらなかった…」
次の頁の新聞記事には、滑走路上で大破した飛行機の写真と飛行服を着た少年の写真が掲載されていた。
「次男スティーブは、着陸時に車輪が出ないトラブルによって胴体着陸を余儀されなくなり、…胴体着陸を試みたが機体は大破し彼は重傷を負った。…結果、彼は下半身が麻痺してしまった…そして、この事故の後、英雄と讃えていた新聞の論調が変わってくる。つまり、パトリシアの功名心がスティーブの悲劇を生んだのではないかってな……その後は、新聞も記録樹立に関して手放しの賞賛は控えはじめた。」
広げられたファイルには、飛行服を着たパトリシアと、車椅子のスティーブの姿があった。
「その後も彼等は長距離飛行機レッドスターに乗り記録樹立に向けて挑戦し、また各国を愛機で親善訪問している…」
大神はテーブルの上の写真の一枚を手に取った。祝福のシャンペンを頭からかけられ、大きく口を開けて笑っているパトリシアの写真を見つめながら大神はつぶやいた。
「…きっと強い人なんですね…」
米田司令は、そんな大神の言葉ににやりとした。
「…大神は強い女が好きだからなあ…まあ、そんなあ事はどうでもいい、面倒な話はこれからだ…」
米田司令は別なファイルをテーブルの上に広げた。
世界各国の地図に、様々な記号が書き込みされ、何枚も付箋が貼り付けられている。
「…伊太利、独逸、仏蘭西、露西亜…彼女達は親善訪問した国の多くで不時着している。その理由は全て計器の故障か、微細なトラブルばかりだ…そして、地図上の赤線が彼女達の飛行経路、×をつけているのが不時着地点だ。」
地図を見ていた大神は、何かに気付いたように表情を変え、確かめるように米田司令の顔を見た。
「…こ…これは…」
「…わかったようだな、大神。不時着地点はいずれも各国の軍事基地の傍ばかりだ。…しかも、その飛行経路も全て重要な港湾施設や軍事要塞の上空を通過している…」
黙って聞いていた橋詰が小さく咳払いした後、初めて口を開いた。
「…つまり、彼女…パトリシア・ベースハートはスパイ行為をしている疑惑が濃厚なわけです。」
部屋の中に重苦しい沈黙が続いた。
「パトリシアは米国のスパイ…ということになるわけですね。」
テーブルの上に置かれたパトリシアの写真を手に取りながらマリアは抑揚の無い声でつぶやいた。
「そうとばかりも言えないんです。」
橋詰はブリーフケースの中から薄いファイルを取り出し、マリアの目の前に広げた。
「パトリシアは米国においても飛行禁止空域を飛んで何度も政府から厳重注意され、米国の情報機関も彼女を要注意人物として密かに監視していました。」
ファイルには、パトリシアの写真と彼女の経歴や行動記録などが英文で記載されていた。
「この男は?」
マリアはファイルの左下隅の写真の金髪の青年を橋詰に指し示した。
「その男は、エドワード・マクルーハン。彼は元々はリチャード・ベースハートの古くからの友人で、航法士を努めていました。航空写真の草分け的な存在で、彼の写した写真への評価は非常に高い。なかなか多才な男でニューヨークの雑誌に小説を連載していたこともあります。短編小説ですが、評価は悪くありませんでした。リチャードの書いたベストセラーの『翼は君のために』も実際はエドワードがリチャード・ベースハートの飛行日誌を元に書いたとする説もあるくらいです。…多才なのは写真や文学の面ばかりじゃありません。彼は仏蘭西の外人部隊に所属し、中近東で情報活動をしていた経歴を持っています。コントローラーとしてはかなり有能な男だったらしく、彼の入手した情報のお陰で成功した作戦も少なくなかったそうです。しかし、彼はその後致命的な打撃を受けることになります。彼の片腕として活躍していた連絡員の女性が、二重密偵であったために彼の組織は壊滅しました。そして…」
橋詰は一端言葉を切った。
「彼は彼の愛人でもあったその連絡員を自らの手で処刑しています。その後、エドワードは米国に帰国し、その当時既に注目を集め始めたリチャードのもとで航法士の役割を引き受けることになるわけです。」
橋詰は内ポケットから金属製の小さなケースを取りだし、中から細い葉巻を引き抜いてライターで火を点けた。
「そうすると、エドワードがパトリシアと共謀して情報活動をしている、ということになるのでしょうか?」
細い葉巻を神経質そうな指先で挟み紫煙をくゆらせている橋詰に、大神は尋ねた。
「エドワードは、リチャード・ベースハートが事故で亡くなる直前に失踪し、今も行方が知れません。彼のいなくなった後もパトリシアが不自然な不時着を繰り返していることから考えると、エドワードが後ろでパトリシアを操っているか、もしくはエドワードの情報活動の手法をそっくり模倣した形でパトリシアが行っているかのどちらかだと思います。」
「大体、どういう人物かはわかったな?大神、マリア」
橋詰の言葉を引き取って、米田は二人の顔を見比べた。
「これからが、本題だ。ここまで長々とパトリシア・ベースハートって女のことを説明したのにはもちろんそれなりの理由がある。」
米田は一枚の稟議書を、大神とマリアの前に置いた。
陸軍大臣を始めとする多くの捺印が押された稟議書の署名を見て、二人は同時に驚きの声を洩らした。
「…こ、これは!」
署名欄には美しく整った文字で、帝国華撃団副司令 藤枝あやめと記載されていた。
米国飛行士パトリシア・ベースハートに、降魔組織に関する情報提供料として下記金額を
贈与致したく、稟議申し上げます。
「見ての通りニューヨーク滞在の際にあやめ君はパトリシアに対して高額の情報提供料を支払っている。パトリシアから得た情報は米国の上級降魔に関する情報で、まさに垂唾の代物だった。この情報によって我々は活動前に上級降魔を捕えることに成功した。」
「では、…パトリシアは我々の協力者ということに…」
「それだけで判断するのは危険です。金だけが目的の情報屋なのかもしれない。」
大神の言葉を遮るように橋詰が冷たく言い放った。
「…得体の知れない人物です。信用できるのかどうかは疑問です。」
「…その全く訳のわからないその女が日本に飛んで来るんだ。それも来週に!」
米田は焦燥感に語尾を強めた。
「米国では既に先週からこの日本親善飛行についての報道が始まったいる。新聞各紙もパトリシアの初めてのアジア飛行に関心を寄せている。そしてラジオでも毎日パトリシアが出演する形で特別番組が組まれている。…悪いがマリア、そこの机の脇にある鞄を持って来てくれ。」
マリアは立ち上がり米田の机の脇に置かれた鞄を持ち上げ、テーブルの上に置いた。
「蓋を開けて、緑のスィッチを押してみてくれ」
蓋を開けると、キネマトロンに良く似た計器盤が現われた。中央には黒い円盤が装着されている。米田の指示の通りにスィッチを押すと音楽が流れ始めた。
(…不思議な曲だわ…)
聞いていたマリアは、東洋調の音階にも聞こえる所々の転調が気になり首を傾げた。
「パトリシアが作曲したというこの曲を念のため、中野の蒸気演算装置で分析させたところ、一種の暗号文であることがわかった。音符にアルファベットを対応させて、鍵となる言葉を数万通り当てはめていったところ、WISTERIA…藤を英語で言うとこんな風になるんだな…このWISTERIAを鍵にすると、こんな言葉が現われた。
藤枝あやめ…再会…サトポロ…これは多分、北海道の札幌だ。」
「…再会…あやめさんと?…そんなこと…」
マリアは驚き、大神、かえで、米田の顔を見回した。
「ありえないことです。」
沈黙していた藤枝かえでが短く言い切った。
「…俺も何かの間違いだと思っている。だが昨日、北海道に行っている高村椿から、小樽で藤枝あやめらしき人物を目撃したとの情報が入った。」
部屋の中はしんと静まりかえった。柱時計の振り子の音が奇妙に大きく聞こえる。
「真実は一つしかない。我々はパトリシアの目的を突き止めるとともに、藤枝あやめに関する情報の真偽を早急に確認する必要がある。」
全員の顔を見渡し、毅然とした口調で米田は話し始めた。
「疑惑のある人物ではあるが、パトリシアは今なお米国では影響力を持つ人物だ。下手な動き方をすれば米国政府を刺激することになる。米国側には飽くまでも護衛として、報道側には航法士として、そして真の任務はパトリシアを監視する要員が必要だ。英語が得意でしかも、射撃に優れている者…誰の事を言っているかわかるな、マリア」
米田はマリアをまっすぐに見つめた。
「承知しました。」
あっさりと任務を引き受けたマリアに、大神の方が驚いていた。
「…し…しかし、米田司令、マリアは飛行機の航法なんか全く知らないんですよ!危険すぎると思います!」
「実際は息子のスティーブが航法士として乗っているから問題無い。まあ、ある程度の基礎知識は立川の航空廠で勉強してもらおうと思っている。」
「…ですが、司令……マリア一人では危険過ぎます!自分も行かせて下さい!」
「馬鹿野郎!何を寝ぼけたこと言ってやがる、大神!おめえには華撃団の隊長としての重大な責任が有るんだ。この女飛行士の行動次第でどんなことが起こるかもしれないってことがおめえにはわからんのか!今回のこの日本上空の飛行計画書がこれだ。どこを飛ぶか良く見て見ろ!天武の改装実験のもろ真上なんだぞ!」
米田は激高した。大神は唇を噛みうなだれた。
「隊長、私なら大丈夫です。心配しないで下さい。……話を聞いている内に私はこのパトリシアという人物がどんな人間なのか…知りたいと思いました。それに、…あやめさんは、私にとってもとても大切な人でした。…ですから、真実を知りたいと思います。」
一語一語噛みしめるようにマリアは大神に向かって話しかけた。
「…マリア…」
大神は、マリアの透き通るような碧の瞳がもう決してその決意を翻さないことを知った。
「…すまねえな、マリア…おめえにしか頼めないんだ、この任務は…」
米田の顔は淋しげだった。
マリアは、静かに微笑んだ。
「おい、大神!」
米田の口調に、再び罵声が飛ぶかと大神は身を引き締めた。
「おめえの部下を思う気持ちは天下一品だ。それがおめえの良い所だ。」
米田は相好を崩して笑った