支配人室から自分の部屋に戻ったマリアは、落ち着かない素振りで部屋の中を歩き回った。一度は椅子に座ったがすぐに立ち上がり、机の上の小さなカレンダーを一瞥した後、窓の前に立ち、中庭の木々の緑を見つめた。
女性飛行家の護衛任務それも単純な護衛任務ではない、行動を監視しながらの護衛というのが事を複雑にしている。彼女は、パトリシア・ベースハートは
一体どんな人物なのか?今回の飛行の目的は何なのか?彼女は我々にとって好ましい人物なのか、それとも災厄をもたらす人物なのか?彼女の経歴を反芻しても疑問はかえって濃くなるばかりだ。
それに、パトリシア・ベースハートが藤枝あやめなる人物と連絡を取っているという事実。ニューヨークで藤枝あやめとパトリシアが接触していたのは事実に違いない。だが、今パトリシアが連絡をしている藤枝あやめは一体何者なのか?藤枝あやめがこの世にまた再生したという仮定を考える度にマリアは、そんな考えは馬鹿馬鹿しいと心中つぶやいた。彼女がどういう最期をとげたのかは我々が一番良く知っている。絶対にそんなことがあろうはずは無い。ただ、気になるのは北海道で椿が、藤枝あやめを目撃したという情報だ。椿は全く別の女性を藤枝あやめと見誤ったのだろうか。
偶然にしては余りにも時期が重なりすぎている…
窓から射し込む眩しい夏の光に目を細めながらマリアは空を仰いだ。
元気かな…あやめさん
その問いが全く無意味で感傷的であることを自覚しながらも、マリアは藤枝あやめの事を考えずにはいられなかった。ニューヨークで初めて出会ったときの颯爽としたあやめの姿。東洋人にもこういうタイプの女性がいるのかと驚いた感情は、あやめと話すうちに次第に尊敬に変わっていった。あやめの話し方は理路整然としていて無駄が無い。話を切り出すのはあやめだが、いつの間に自分が普段よりやや饒舌になっていることに気づくのだ。そして気がつくといつの間にか自分の中の解決できていなかった漠然としたしこりのような感情がすっかり無くなっているのだ。その事をあやめに告げると、あやめは相談に答えたことで解決したわけではなく、問題を言葉にすることで問題は八割方解決しているのだと笑って答えた。問題を言葉にしてみること。簡単そうでなかなか出来ないことだ。だから、マリアは努めて言葉を意識の上に立ち上らせるようにしている。だが、今回の任務はいくら言葉を反芻しても分からないことが多すぎる。
ドアをノックする音が聞こえた。
隊長だ。
その叩き方のリズムで、マリアには大神だと分かる。急いでドアを開けるとやはり、大神が立っている。
「マリア、一寸いいかな…」
少し気弱そうな優しい微笑を浮かべて、大神が立っている。
「どうぞ、隊長…」
マリアは大神を部屋に迎え入れて、部屋の隅に置かれていた椅子をテーブルに引き寄せた。
「ああ、済まない。マリア」
小さな円形のテーブルをほぼ正面に向き合う形で二人は座った。
「お茶でもいれましょうか?」
「いいよ、マリア」
立ち上がろうとするマリアを大神は制した。
「…すぐに出かけなければならないから…」
「…そうですか…どちらへですか?」
「立川だ。…君も一緒だよ、マリア」
「立川といえば…航空廠ですね。」
「そうだ。…早速司令から命令が出てね。二人で飛行機のことを勉強しなければならない。」
「私が勉強をしなければならないことは分かりますが、隊長もですか?」
「部下のやっていることがわからなくて上官が務まるか、べらぼうめえ」
おどけて米田司令の口調を真似る大神にマリアはくすりと笑った。
「嬉しいです。隊長と一緒に勉強できるなんて。」
「そう言ってもらえると、俺もすごく嬉しいな。……正直言って今回の任務は…何と言ったら良いのだろう、どうも釈然としないんだ。もちろん来日しようとしている女性が鍵を握っているのは確かなんだが余りにも謎が多すぎる。本当は俺はこんな事を言うのはまずいんだが…」
「…私も、今部屋に戻ってからずっとその事を考えていたんです。確かに不可解なこと、動機がわからないこと、敵か味方かも分からないこと…謎が多すぎます。でも、机の前に座って考えてみてもこの謎は一つも解けないと思うんです。行動すれば、何かの糸口がつかめるかもしれません。それが小さな手がかりでも、幾つかの点が線になり、それは面になる以前に、あやめさんが言っていたことの受け売りですけれど…」
そう言ってマリアは俯いた。
「…あやめさんか…」
大神はぼんやりと宙を見つめた。
今から思うとまるで夢の出来事のように思える。
隊長としての有様について厳しく叱責したあやめ、浅草で少女のようにはしゃいでいたあやめ、酒を飲んで色っぽく笑うあやめ、藤枝あやめの死、殺女としての再生、そして
いろんな情景でのあやめの表情が思い出された。
「隊長はどう思います?あやめさんが現れたという情報のことですが…」
マリアの表情は切実だった。
大神は改めて、マリアの心の中に占めるあやめの存在感の大きさを感じていた。
「…あやめさんは、もうこの世の人じゃないおそらく、何かの間違いだ。」
「しかし、隊長、アメリカと北海道で同じ時期にあやめさんの名前が現れている事実はどう説明すれば良いのでしょう?偶然にしては余りにも出来過ぎです。」
「俺にもそれは説明できない。…ただ一つ言えることは、北海道とアメリカの暗号情報の接点がパトリシア・ベースハートだということだ。彼女がその鍵を握っていることは間違いない。」
大神の言葉にマリアは静かにうなづいて、それから小さく溜息をついた。
「すみません、隊長。何だか偉そうな物言いをして先ほどの打ち合わせであやめさんの話が出た時、とても悲しくなったんです。何か、自分の大切にしていたものが、突然目の前に突きつけられたような…うまく言えませんが…そっとしておきたかったんです、あやめさんのこと…」
俯いたマリアの声は震えていた。
大神には声をかける言葉が無かった。マリアの気持ちがわかるなどという言葉が簡単には出なかった。この帝国華撃団という組織を実際に組織したあやめと、隊員を統率していたマリアの間には大神の知らない様々な相克が有ったに違いない。彼女たちは、十分な実戦経験を持たないまま、あの恐ろしい降魔と戦っていたのだ
「時間はよろしいんですか、隊長」
マリアの言葉に大神は、慌てて懐中時計を取り出し文字盤を見た。
「まだ、大丈夫だけれど、そろそろ準備をしなければならないな。」
「何か用意しなければならないものはありますか?」
「いや、特に無いけれど…任務が任務なだけに目立たないような格好で行かなければならないな。俺は軍服を着ていくけれど、マリアは…どうしようかな。」
一寸思案した後、マリアは自信たっぷりの微笑を浮かべた。
「良い案があります。一寸待っていてください、隊長。絶対の自信があります。」
「あ、マリア…俺も着替えをしてくるよ。…裏の玄関の所で待っているよ。」
早足で廊下を歩いていくマリアの後姿を見ながら、大神は頭を掻いた。あんな風にはしゃいで見せるのも、彼女の気遣いなのだ。
大神は、軍服に着替えるため自室に向かった。
裏玄関の横の車庫から陸軍十二式高機動側車を出した大神は、久しぶりに着る陸軍の軍服のカラーの窮屈さに慣れず、何度も居心地悪げに首を左右に回しながら、マリアが現れるのを待った。
今日も暑くなりそうだ。
まばゆい木漏れ日に目を細めながら、大神は天を仰いだ。
「お待たせしました、隊長」
背後からの声に驚き、大神が振り向くとそこには、いつもとは全く違う雰囲気のマリアが立っていた。
整髪料で金髪をほぼオールバックに流し、太めの黒縁のボックスタイプの眼鏡。白の半袖ブラウスに国防色のベスト。同じく国防色の短めのタイトスカート、脇には黒いクラッチバッグを抱えている。
「陸軍兵学校の露西亜語教師…というのはどうです?隊長」
ぽかんと口を開けていた大神は、さも感心したというように首を振った。
「最高だよ、マリア。」
それから、何度もうなづく。
「最高だ。…そのバッグも素敵だね。」
微笑を浮かべながらマリアがクラッチバッグの金のボタンを押すと、バッグのサイドからエンフィールドの銃把が跳ね出た。
「以前に大道具の親方さんに頼んで作ってもらったんです。」
「ハラショー!」
大神は叫んだ。