大神は側車にマリアを乗せて、帝都の大通りを疾走した。
爆音とともに駆け抜ける高機動側車に沿道の人々は目を瞠った。
国防色の制服に身を包み、風に金髪をなびかせ、薄い茶の防塵眼鏡をかけたマリアの颯爽とした姿を婦人達は羨望の眼差しで見送り、男達は歓声を上げた。
「す…すげえ!」
「粋だねえ!あの姉さん!……ひゅう、ひゅううっ!」
若い男が口笛を鳴らし、子供達は側車の後を追いかけたがその余りの速度の違いにすぐに足をもつれさせ、道路の真ん中でぜいぜいと息を切らして立ちすくんだ。
「…駄目だ…とても追いつけない。」
子供達の一人がもう豆粒のようになった大神達の姿に目を凝らしながらつぶやいた。爆音は夏の青い空の彼方にかき消えた。
沿道の過剰な反応を気にしながら、マリアは大神に話しかけた。
「随分と目立っているみたいですね、私たち。」
「…ええっ!何だって!マリア」
爆音にかき消されそうになる声に負けじと大神が叫ぶ。
「目立ってますね!私たち!」
大神はマリアの方をちらと見ると微笑を浮かべた。
「こうして側車に乗っているとシベリアを思い出すな…。」
「…何ですか?…隊長、よく聞こえません!」
「天武輸送の時を思い出したんだよ!二人でシベリアを走った!」
天武輸送…そうだ、あの時は襲撃に合い、二人で傷つきながら、側車を駆り、シベリアの大地を走ったのだ。だが凍てつく大地を走った時とは違って、夏の帝都を側車で走るのは気持ちが良かった。
顔に当たる風、後ろに流れ飛ぶ景色、蒸気機関の機関音の唸り…何もかもが心地よい。
マリアはこのままずっと乗っていたいと思った。大神と二人であてもなく地の果てに向かってただひたすら走る旅…多分そんなことは夢の夢だ。けれども、夢は夢として、この現実のささやかな喜びを今存分に体全部で感じよう…
マリアは天を仰いだ。
夏の眩しい太陽の光が彼女の碧色の瞳を一際美しく輝かせた。
帝国劇場を出てから一時間半ぐらい甲州街道を走ると、景色は単調になり広々とした平野が広がった。地平線に向かってまっすぐ伸びた道を走り続けるとやがて、彼方に巨大な構造物が現れ始めた。
陸軍立川飛行場…そこには日本の航空産業が集結していた。
中島飛行機、三菱飛行機、川崎飛行機、立川飛行機といった民間企業が航空機の設計、開発にしのぎを削り、陸軍立川航空廠では毎日、技術士官や民間の技術者達が技術要求の内容と設計をめぐって忙殺されていた。
広大な土地には、大小さまざまの飛行機の格納庫、航空特殊車両の車両庫、内燃機関の製造工場が建ち並び、周辺には兵舎が規則的に並んでいる。
「…とても広いんですね…」
飛行場全体を見渡しながらマリアはつぶやいた。
「一つの街と言っていいな…」
大神達の側車が正門に近づくと歩哨が敬礼した。
正門の前に側車を止めると、歩哨の一人が大神の前に駆け寄った。
「ご苦労様であります。身分証明をお願いいたします。」
「帝国陸軍対降魔秘密部隊帝国華撃団花組隊長 大神一郎」
胸の内ポケットから菊の紋のついた軍人手帳を取り出して、大神は歩哨に差し出した。身分証明の写真と大神の顔を見比べた若い兵士は、気をつけの姿勢を取り敬礼をした。
側車に乗ったまま大神とマリアは構内の案内板に従いながら航空廠の方に向かった。民間の中島飛行機、川崎飛行機の建物の前を通りすぎると、立川航空廠の建物が見え始めた。航空廠は三棟から成っており、奥には巨大な格納庫が見えている。
大神は建物のエプロン脇に側車を止めた。二人はゆるやかなスロープを正面玄関に向かって歩き始めた。大きな図面の入った筒を持った将校や技師らしい背広姿の男が慌ただしく行き来している。玄関の脇には「帝国陸軍立川航空廠と筆文字でいかめしく書かれた看板が掛けられている。
「普段帝劇にいるから余り意識しませんが、こういう所に来ると自分は軍人なんだと実感しますね。」
玄関のすぐ右手にあるに大きな鏡に映る自分の軍服姿を見ながらマリアは呟いた。
「軍服は嫌いかい?マリアは」
「…普段の隊員服の方が好きですね…着慣れているせいも有りますが…」
「実は俺もこの服は少々苦手なんだ。余り大きな声では言えないけれどね。」
大神は、前から歩いてきた丸眼鏡の技師に声をかけた。
「坂田少佐はどこにおられるのだろう?」
若い技師は大神の前で立ち止まり、右の廊下の方を指さした。
「この廊下の突き当たりの風洞実験室にいらっしゃいます。」
「…ふうどう実験室?…」
「模型の飛行機で空気の抵抗などを調べるところです。…と言っても少佐のことですから多分違うことを何かしていると思いますが…」
意味深な微笑を浮かべながら若い技師は立ち去った。
「…米田司令の話によると、少し変わった人らしいんだ。」
「どんな風にですか?」
「会えばわかると言って教えてくれなかったんだ。」
長い廊下の突き当たりの部屋のドアの横には風洞実験室と書かれた大きな木の札が掛けられている。
ドアを開けると、大きな機械の前で二人の男が図面を見ながら話をしている様子だった。丸坊主の背の高い男は、色白の真面目そうな青年に向かって、部品を手に持って、その一部分を指さしながら説明をしている。
「この部分がおそらく磨耗していたんだ。…そうとしか考えられない。」
「失礼ですが、坂田少佐はいらっしゃいますか?」
「ああ、俺だ」
丸坊主の大入道のような男が顔を上げた。
「大神であります。」
緊張した面もちで大神は名乗った。
「おう、米田中将のところにいるんだってな。元気かい?米田のおやじさんは?」
米田司令とは親密な関係らしく、無骨な顔にきさくな笑みを浮かべた。
「相も変わらず朝から酒でもかっくらっているんだろう、米田さんは?」
返答に困り口ごもっている大神を見て坂田は豪快に笑った。
「米田中将の部下にしては随分真面目だな。おっと、二人ともそんな所に立っていないでこっちに入んな。なにせ風洞実験室だ。この立川航空廠最大の扇風機が有るんだからたっぷり涼んでいったほうがいい。…ところで、そちらの別嬪さんがマリアさんかい?」
いきなり声をかけられ、マリアはうろたえた。
「申し遅れました。帝国華撃団花組、マリア・タチバナです。」
坂田は真っ直ぐにマリアを見つめた。
「飛行機は今まで乗ったことは?」
「ありません。…飛行船には良く乗りますが。」
「船で航海したことは?たとえば小さなヨットとか?」
「ありません。大型の貨客船には何回か乗り込んだことはあります。」
「星に興味を持ったことがあるかな?天体とか星座とか?」
「星には何度も助けられました。夜間の行軍で部隊からはぐれた時、星を頼りに行動して…助かったこともあります。」
坂田は満足そうに大きく頷いた。
「質問ばかりして申し訳なかった。米田中将から話を聞いた時、どんなお嬢さんなのか気になっていたんだ。…さすがは、おやじの部下だけあるな、いい瞳をしているよ…」
坂田はまるで父親のような優しい顔をしていた。
「飛行機については殆ど何も知らないんです。天文の知識だって、有名な星座ぐらいしかしらないんです。」
坂田の暖かい目に当惑しながら、マリアは慌てて付け加えた。
「なあに、心配するこたあない。何を知っているかということよりは、知りたいという気持ちの方がよっぽど重要だ。あんたにそれが有るってことは良くわかるよ。」
「ありがとうございます。」
緊張していたマリアの表情に安堵の笑みが浮かんだ。
「こんな風に偉そうに言ってる俺だって、立川のことはまだあまり良くわからんのだ。先月まで所沢の飛行学校の研究所で、今度は立川で実験戦闘機隊の責任者を務めろっていうんだからな。全く人使いが荒いぜ、陸軍ってところは。」
坂田は首に掛けていた手拭いで額の汗を拭った。
「でも、少佐は結構楽しんでおられるじゃありませんか。」
「言ってくれるじゃないか、千葉。確かにここは、飛行機好きにとっちゃあ天国だ。こうして目の前にユンカースのエンジンが有って、朝から晩までどうやったら出力を上げることができるかずうっと考えていたって、誰にも文句も言われず、おまけに俸給までもらえるんだからな。」
色白の青年は苦笑いしながら、手に持っていたエンジンの部品を静かに作業台に置いた。
「紹介が遅れたが、このうらなりは千葉技術少尉。この立川は隅から隅まで良く知っている。この陸軍航空廠ばかりじゃあない。三菱や中島、川崎の部品庫に何がどれだけ有るのかも全部頭に入っているとんでもない奴だ。」
坂田少佐に肩を叩かれた青年は、頭を掻きながら二人に小さく会釈し、それから慌てて敬礼をした。
「立川航空廠第四技術研究所技術士官少尉、千葉であります!」
しゃちほこばって敬礼する千葉の姿を見て、坂田は腹を抱えて笑った。
敬礼をしながら千葉は、自分の真正面で凛とした風情で敬礼をしているマリアの顔を改めて見つめ直した。
(…なんて綺麗な女性なんだ…)
脇目もふらず技術一筋に打ち込んできた千葉にとって、それは一つの衝撃だった。もちろん朴念仁と揶揄される千葉も、休日に仲間と訪れるカフェで、可愛いと思う女給がいないわけではない。だが、今千葉の目の前にいる女性は、可愛いとか好きだとかいう次元を超えていた。透き通るような白い肌、天使のそれのような金髪、真っ直ぐに前を見据えている意志の強そうな美しい碧の瞳。千葉は帝大の図書館で見た独逸語で書かれた神学辞典の挿し絵に描かれていた女神の姿をマリアに重ね合わせていた。
「……おい…千葉…聞こえているのか!千葉!」
坂田少佐の声に、千葉は我に帰った。
「…し…失礼いたしました。」
「おいおい、暑さでいかれちまったか?千葉。もう一度説明するが、この二人は特命の任務で、航空基礎と航法についての知識を必要としている。二人とも銀座の秘密部隊に所属しているが、ここでは中野の軍事教官ということにしておく。大神少尉は地政学、マリア君は露西亜語の教官だ。…千葉少尉、今日の初年兵向けの航空力学の講義は何時からだったかな?」
「…午後1時からです。」
「それならば、まだ時間があるな。…千葉少尉、航空廠内を二人に案内してやってくれ。三菱や中島の方にも行った方がいい。航空機の現場を肌で知っておいて欲しいんだ。」
「承知しました。……どうぞ、こちらへ。」
千葉はドアを開け、大神とマリアを招いた。
「大神少尉、マリア君!わからないことは何でも千葉少尉に聞いてくれ。千葉にわからないのは冗談と吉原ぐらいのものだ。」
先頭を歩いていく千葉がポケットからハンカチを取り出し汗を拭きながら何事かをぶつぶつと呟いた。
後ろを歩く大神とマリアは顔を見合わせてくすりと笑った。
最初に案内されたのは、大型の工作機械や重機が並ぶ格納庫だった。
格納庫の中は薄暗く、高い天井の最上部の窓から射し込む光が、重機の武骨な輪郭を浮き上がらせている。
「見たことのない機械ばかりだな…」
軍の装備にはある程度の知識を持ち合わせている大神であっても、この格納庫に並んでいる機械類は初めて見るものばかりだ。前部に巨大な角のような構造物が取り付けられている大型の装甲車を指さしながら、大神は千葉に声をかけた。
「この機械も飛行機に関係が有るんですか?」
千葉は立ち止まり、大神の指さす重機を見上げた。
「それは伐開車。密林に道を開いていくための工作機械です。」
「密林に道を……どうして、そんな機械がここに?」
「元々は飛行機、それも大型の重爆撃機を牽引するための車両だったんですが、上層部から要請が有って改造して作ったんです。」
「…すごいな…立川でこんな機械が作られているとは知らなかった。」
「戦車屋は頭が堅いんですよ。でかい大砲を積んで装甲を厚くすることばかり考えているから、野戦の実際が頭から外れている。道が無ければ戦車なんて走れないのにね。結局、何でも屋の俺達がエンジンから足回りまで設計してるんですよ。」
「…こちらの機械は何ですか?」
マリアに声を掛けられ、千葉はどぎまぎしながら声をうわずらせた。
「…チセツ十二型。寒冷地向けの除雪車です。元は中型戦車だったのですが、砲塔を外して代わりに大きな排雪風車を前に取り付けて雪を遠くに飛ばしてしまうんです。…そこに伸びている筒の向きを変えると、雪を飛ばす方向が変えられるんです。」
千葉少尉の説明にマリアはうなづき、前部の大きな風車をそっと撫でた。
「素晴らしい機械ですね。…少尉が作られたのですか?」
千葉の頬が朱に染まり、耳たぶまで赤くなった。
「…ええ…私が設計しました。もっとも実際に作ったのは大勢の工員ですが。」
「私は雪国で育ちました。ですから、この機械がどんなに素晴らしいものであるかがわかります。この機械はおそらく将来、北国に住む総ての人から感謝されると思います。戦争とは全く関わりなく…素晴らしいことです。」
武骨な風車を撫でながら、大型の重機を頼もしそうに見上げるマリアの姿とその言葉に、千葉は返す言葉を失った。
物を造り、それが誰かの役に立つということ。
そんな単純な技術者の喜びをどうして最近感じないのだろう。
静かに微笑を湛えたマリアの横顔を見ながら、千葉は小さく溜息をついた。
「千葉少尉、あそこの…変わった形の機械は何ですか?」
大神の声に千葉は顔を上げ、大神の指さす方を見た。
「…ああ、あれですか。あれはまだ試作中のものですが…」
千葉は大神が興味を持った工作機械に近づいた。
その車両は奇妙な形態をしていた。一見すると三台の車両のように見えるが
その三台は数本のシャフトで連結されており、上から全体を見ると三角形の構造物になっている。三台の上部にはそれぞれ無数の穴が開いた巨大な鋼鉄の板が載せられており、六輪の巨大な車輪がその板を支えている。
「まだ名前もついていないんですが戦闘機の不時着を助けるために設計した車両なんです。戦艦に搭載されている水上発着の戦闘機や偵察機は、航続距離を伸ばすためにフロートを落とす場合が有るんですが、そうなると機体が回収できません。これはそうした航空機の不時着支援の為に設計しました。まだ実験段階で、実用にはなっていません…」
「随分変わった形だな…」
大神が感心したようにつぶやいた。
「走る三角定規なんて呼ばれていますよ。」
千葉は冗談めかして言ったが、その言葉は温かい。大神は千葉の横顔を見ながら、心底機械が好きなんだろうなと、思い、改めて格納庫に並ぶ、異形の機械のシルエットを見渡した。
鋭い爪が先に伸びている巨大な長い鉄の腕を持つ戦車…人の背丈程もある車輪をつけた大型の運搬車…用途がよくわからない甲虫のような形の車両…
(紅蘭が見たら離れないだろうな、きっと…)
普段、光武や轟雷号などの機械を見慣れている大神にとっても、ここに並ぶ機械群には圧倒される。
「暗い所ばかりでは気が滅入りますから、そろそろ明るい所に行きましょう。…こちらへどうぞ。」
千葉は二人を格納庫の奥の壁際に案内した。千葉が後ろ手に背後の壁に取り付けられた電源釦を押すと、低い機械音と共に巨大な壁全体が上に動き始めた。
闇の中、足下に一条の光の帯が走り、それは機械音とともにその幅を広げていき、目の前に広大な滑走路が広げた。
マリアの口から、露西亜語の感嘆が洩れた。
滑走路の手前には、数十機の大型陸上攻撃機が駐機しており、右手の広大な駐機場には、数百機の戦闘機が翼を休めている。
手前の一際大きい巨人機は、プロペラをゆっくりと回しながらアイドリングしており、機体の下で忙しそうに動き回る整備士達が巨人機の下では蟻のように見える。
「…『富嶽』です。先月から出力実験が始まりましたが、初飛行はまだ先です。」
「…壮観な眺めだな…」
滑走路の果ての小さな機影が離陸するのを目で追いながら、大神は感嘆してつぶやいた。
三人はしばらく滑走路の光景を眺めていた。
夏の強い日差しに滑走路に陽炎が立ち上り、迷彩色の機体がゆらめいて見える。
やがて正午を告げるサイレンが鳴り響くと、駐機場にいた整備士達は作業を終えて、建物の中に入り始めた。
「…ああ、もう昼ですね。…昼飯でも一緒にいかがですか。大したものはありませんが…」
千葉の誘いに大神はうなづき、三人は一端、駐機場の方に出てそれから兵舎の隣の建物に向かった。
格納庫にも匹敵するような大きな建屋の中には、二十人程が座れる長い卓が整然と並べられ、その上には一人前の昼食が席ごとにきちんと並べられている。午前中の仕事を終えた兵士達が次々と席に座り、食事を始めていた。
「随分と広いなあ…」
四方を眺め渡しながら、大神はつぶやいた。
「大体、千人くらいが入ります。…この奥に将校倶楽部がありますから…」
先を行く千葉を大神は呼び止めた。
「千葉少尉…お気遣いは有り難いが…たまに酒保で食べてみたいな。秋刀魚が旨そうだ。」
怪訝そうな千葉の表情が笑みに変わった。
「いいですよ。…確かに今日の秋刀魚は旨そうだ。」
三人が席につくと、隣の卓でかきこむように飯を食らっていた少年兵達がびっくりした面もちで互いに腕をこづきながら、箸を放り出して敬礼した。
「いいんだよ、君たち。…俺達の気まぐれで座ってしまって…済まないな。」
大神がまだ幼さの残る少年兵達に優しく声を掛けると、少年兵達はほっとしたように互いに顔を見合わせ、それからまた元のように飯を食らい始めた。
大きめのご飯茶碗に盛られた白米一膳、焼いた秋刀魚、漬け物、味噌汁。
いたって簡素な昼食だ。
「…大変な任務のようですね…」
味噌汁を一口啜った後、千葉が声を顰めて言った。
「詳しくは聞いておりませんが、国家の機密に関わることと…」
大神は小さくうなづいた。
「…ええ…その任務の遂行のためには航空機の知識…とりわけ航法に関する知識の習得が必要なんです…」
「大丈夫ですよ…実際に操縦するならともかく航法の知識なら三日も有れば十分ですよ。」
「よろしくお願いします…千葉少尉」
マリアの碧の瞳に真っ直ぐに見据えられ、千葉はまた赤くなった。所在なく慌てて味噌汁を飲むと、豆腐が熱いまま喉をゆっくりと落ち、千葉は目を白黒させた。
大神とマリアは顔を見合わせてくすりと笑った。
一時の始業を知らせるサイレンが鳴り響いた。
大神とマリアは、階段教室の最後部に座り、真新しい帳面を出して講義が始まるのを待っていた。
前の席には、青々とした坊主頭の少年兵達がひしめきあっている。
「何だか、学生になったような気分ですね。隊長」
「…ああ…本当だ…何だかとても懐かしい気分だな…」
マリアは、大神と一緒に勉強できることがとても嬉しかった。それは失われた体験を取り戻すような感覚だった。こんな経験をしたことは無いのに、何故かこんな夏の日の午後に大神と講義を受けていたような気がする…
もしかしたら、有ったかもしれない私のもうひとつの未来…きっと何か不思議な力がそれを現実に見せてくれているのだ…
黒板に書かれた「航空力学」の大きな文字がぼうっと滲んで見えた。
(続く)