帝国華撃団外伝
 

第2部
 
     ボストーク・ホテル
 
 
 昼食を兼ねた輸送計画会議の後、大神とマリアは再び、ロシア軍の公用車に乗り込んだ。
 大神は座席に乗り込むなり大きく伸びをした。
 「…ああ、美味しくてつい食べすぎてしまった。ここでロシア料理を御馳走になるとは
思わなかったな。……どうした、マリア?気分でも悪いのかい。」
 浮かない顔をして俯いているマリアの顔を心配そうに大神は見つめた。
 「…いいえ、何でもありません、隊長。」
 マリアは慌てて顔を上げて微笑んだ。
 マリアを悩ませていたのは昼食後のフィラトフ大佐の夜会への招待の件だった。
 ロシアの夜会と言えば舞踏会がつきものだ。大広間には呼び寄せられた楽団が輪舞曲を奏で、礼装用の軍服に身を包んだ将校達と華やかな夜会服を纏った女達が曲に合わせて優雅に弧を描きながら踊る光景が何度もマリアの脳裏に浮かんだ。子供の頃、友達の少女と一緒に覗き見た夜会は夢のような世界だった。天井から吊るされたシャンデリアには幾千もの燈火が点り、礼服や夜会服に身を包んだ貴族達が優雅に踊っている様は、読み聞かされた御伽噺の世界そのものだった。りんごの木箱を台にして裏手の窓から中を見つめているマリアの碧の瞳は輝いていた。
 いつか…いつか、私もあんな風に踊ってみたい…
 窓の桟を握りしめながらマリアは夢を膨らませていた。
 そして、今晩は夜会……夢はかなうのかもしれない。華やかな舞台に慣れているマリアでも、故国ロシアで開かれる夜会に出席することに胸がときめいている。
 だが、マリアは思い悩んでいた。
 今回の旅行に際しては、極秘の任務のことも考えて出来るだけ行動しやすい服装と心がけて準備してきた。夜会用の服など持っているはずがない。
 と言っても、まさかせっかくの大佐の招待を断るわけにもいかない。
 いっそのこと隊員服でも着て出席しようか?そしてロシアのレディ達と踊る…?
 戦闘の準備はいつもぬかりないのに、夜会のことなど全く考えず夜会服の一着も準備してこなかった自分の愚かさにマリアは苦笑し、また小さくため息をついた。
 (…どうしたのかな、マリア…)
 大神は横目でマリアを見ながら、何となく元気のないマリアを案じた。
 ウラジオストクの市街地の石畳の道路を公用車は疾走し、石造りの巨大な建物のエントランスに滑り込んだ。
 ウラジオストクの国営ホテル「ボストーク・ホテル」。
 ここでチェックインを済ませ、夜会までの間しばらく自由な時間が持てる。
 「マリア、どうしよう?どこかに買い物でも行こうか?それともこのホテルでお茶でも
飲もうか?」
  フロントにむかいながら大神はマリアに話し掛けた。
 「…せっかくですが、隊長、少し部屋で休んでいたいのですが…」
 「…そうか、旅の疲れが出たのかもしれないね。」
  大神はフロントでチェックインを済ませ、部屋の鍵をマリアに渡した。
 「俺が401で、マリアが402だ。隣の部屋だね。…あ、そうだマリア…『はやかぜ』に連絡しなければならないことがあったんだ…ここで港湾部に電話をしていくから先に行っててくれるかな…」
 「わかりました、隊長」
  ドアマン達に導かれ階段を登り長い廊下を歩いていくと小さなサロンが有り、その奥に二つの部屋が有った。ドアマン達が手際良くスーツケース等を部屋に入れていく。
  部屋の中は清潔で、ベッドやテーブルなどの調度品も高級だが簡素な誂えでマリアの趣味にかなったものだった。以前、帝都で高級とされるホテルに泊まった時に余りに装飾華美な様式に辟易したことがあるが、このホテルはそうではない。
  コートをクロークの中に掛け、テーブルの脇の椅子に腰掛けた。窓からはウラジオストクの街並みが見渡せ、その街並みの向こうには群青色の海が見えた。
  私は今、ロシアの海沿いの街にいる。そう考えるだけで何かしら戦慄に似た震えが体を走る。血と硝煙の匂いに満ちた革命戦争、荒んだ紐育の生活、対降魔の戦闘と帝劇での舞台に忙しい帝都東京…そして私は今再びロシアの土を踏むことになった。
 親の境遇も関係して、マリアにとって国家とはホテルの部屋の番号ほどの価値も無かった。もちろん革命戦争の時マリアは純粋に革命理論を信じ、その実現と自らの生のために
完全な自己犠牲の精神で戦い抜いた。目的のために着実に任務を遂行するマリアの姿はやがて「火喰鳥」の異名で囁かれ、敵、味方の双方から畏怖の対象となった。だが、その戦いの中で何かがマリアの中で崩壊した。その崩壊して失われたものを探す旅は今も続いている。
 国家、革命、ナショナリズムといった時代の大きな歯車の中で翻弄されたマリアを救ったのは藤枝あやめだった。
 降魔の存在を聞かされた時の衝撃、そして自分がそれに対抗する類まれな霊力を有すると聞かされた時の驚きは今もマリアは鮮烈に記憶している。
 もしかすると、自分はまだ誰かの役に立てるのかもしれない…
 マンハッタンの夜景を見ながら、ひと握りの希望を胸に抱いた夜のことをマリアはまざまざと想い出していた。
 マリアは椅子から立ちあがり、艦の中で読みかけていたロープシンの「蒼ざめた馬」をスーツケースから取り出して、再び椅子に腰を落ち着けて頁をめくった。
  どれほど時間が経っただろう、ドアをノックする音にマリアは顔を上げた。
  ドアに近づくと大神の声がした。
 「……マリア…今、いいかな?…」
 マリアがドアを開けると、幾つもの大きな箱を抱えて前もろくに見えないような大神が部屋の中に入ってきた。
 「…どうしたんですか?…隊長!」
 一番上の箱が落ちそうになり、マリアは慌ててそれを押さえた。
 「あ、ありがとう、マリア。」
 大神はマリアに助けられてようやくテーブルの上に荷物を降ろした。
 「これは何ですか?隊長。」
 大小様々の箱の山を見つめながら、マリアは訝しげに大神を見た。紅蘭の発明した武器か
何かが入っているのだろうか?
 大神はその中の一番大きな箱を持ち上げ、マリアの前に差し出した。
 「…今、『はやかぜ』から届けてもらったんだ。…君へのプレゼントだよ。…本当は任務が終わってからと思っていたんだけれど…予定が少し変わってしまったからね……中を開けてごらんマリア。」
 プレゼント?…当惑しながらマリアは静かに箱の蓋を持ち上げた。
 箱の中に入っていたものを一目見るなり、驚きにマリアの目は大きく見開かれた。
 「…隊長…」
 マリアはそれを箱から出し、いとおしげに掻き抱き、それから大きく大神の前に広げて見せた。
 純白のドレス…純白のドレス…純白のドレス!…純白のドレス!!!
 マリアの頬は薄紅色に染まり、碧の瞳は感激に潤んでいる。
 マリアの余りの感激の仕方に、今度は大神の方が驚く番だった。
 「ど…どうしたんだい?マリア。俺は、ロシア駐在の海軍の仲間とのパーティのためにと
思っていたんだけれど、フィラトフ大佐が突然、夜会なんて言い出すものだから…」
 テディ・ベアをプレゼントされた少女のようなマリアの喜びように大神は驚いていた。
 「……うれしいんです…隊長…とても…うれしいんです…」
 マリアの声は鳴咽に途切れた。
 大神は狼狽しながら、コサージュや靴、イアリング、ネックレスの箱を次ぎつぎにひも解いていった。イアリングやネックレスに埋め込まれた宝石の色をマリアの瞳に合わせたことや、服や靴のサイズを教えてもらうために帝劇三人娘に世話になったことなど、箱の蓋を開ける度、大神はこと細かく説明した。
 ベッドの上に腰掛けたマリアは、白いドレスを抱きしめながら大神の言葉に何度もうなづいていた。
 遠くから船の汽笛が聞こえた。

 

     夜会
 

 大神とマリアを乗せた公用車が、夜会の開かれるウラジミール侯爵邸のエントランスに到着したのは午後六時丁度だった。
 エントランス脇の広場には、軍高官や貴族達の所有する蒸気自動車で溢れかえっている。
 制帽を被り白い海軍軍礼服に身を包んだ大神は、ドレスアップしたマリアをエスコートして、エントランスの幅の広い階段をゆっくりと歩んだ。
 玄関ではフィラトフ大佐が如才無く来訪する出席者と挨拶を交わしている。
 大神とマリアがフィラトフ大佐の近くまで来ると、フィラトフ大佐は大袈裟に両手を開き、ハラショーを連発した。
 「素晴らしい、マリア!スーツ姿の君も素敵だったが、ドレスを着た君の姿は…うん、まさに聖母降臨の図にも似ているな…さあ、中に入り給え、今日は君たちが主賓なんだ。」
 大佐に案内され、二人は長い廊下を奥深く進んだ。
 大きな扉が観音開きに開くと、まばゆいばかりの光が部屋の中から漏れ、それから割れんばかりの拍手が鳴り響いた。
 大神とマリアは一瞬顔を見合わせ、それからゆっくりと大広間の中央に向かって歩いた。
 幾つもの円卓の中央に開けられた通路を進みながら、フィラトフ大佐の招く中央壇上に登り、二人は出席者全員に向かって深々と礼をした。
 再び拍手が大きくなった。
 フィラトフ大佐は二人の前に立つと、一礼し夜会の開幕の挨拶を始めた。
 「今晩は、皆さん。ロシア陸軍第二機甲師団第三戦車部隊、陸軍大佐フィラトフです。
皆さんも既にご存知の通り、今日の夜会には日本から素晴らしいお客様を招いています。
帝国歌劇団のトップスターのお二人、マリア・タチバナさん、大神一郎さんです!」
 万雷の拍手の中、大神は再び深々と礼を繰り返しながら絶句した。
 「…お…俺がトップスターだって?…」
 「すみれが聞いたら怒るでしょうね、隊長」
 横でマリアが悪戯っぽく笑った。この余裕がトップスターたる資格なんだろうな。緊張に
膝ががくがくしている大神は、改めてトップスターとしてのマリアを認識するのだった。
 拍手はまだ止みそうにない。フィラトフ大佐はマリアに小声で耳打ちした。
 「…突然で申しわけないが、マリア。ここに集まっているみんなに一曲歌でも披露してもらえないだろうか?」
 フィラトフ大佐の申し出にマリアは快く応じた。
 「どんな歌がよろしいでしょう?」
 「君にまかせるよ、マリア。楽団は大抵の曲は弾けるよ。」
 「いいえ、大佐。楽団は要りません。」
 「え…本当かい?マリア」
 「…ええ…楽団は要りません…」
 壇上中央に集声器が用意され、マリアはその前に立った。
 夜会の会場は水を打ったように静まりかえった。
 「…今晩は、帝国歌劇団花組マリア・タチバナです。……今日は母がよく歌っていた日本の歌を歌いたいと思います。」

 うさぎ追いしあの山
 こぶな釣りしかの川
 夢はいまもめぐりて
 忘れがたき、ふるさと…

 マリアの少しハスキーな声が、万感の想いに満ちて会場全体に響きわたった。
 歌が終わり、一瞬しんと静まりかえった会場はやがて拍手と歓声が渦巻いた。
 「ウラー(万歳)」
 「ウラー!!」
 「ウララー!!!」
 マリアは出席者に向かって深々と礼をした。
 「ありがとう、マリア。素晴らしかったよ。」
 フィラトフ大佐は満面に笑みを浮かべて、マリアを抱き背中を叩いた。
 「さあ、君たち、席にどうぞ。ここの料理は『コーシュカ』と一味違う。ウラジミール侯爵邸の料理長は、正統のロシア宮廷料理を継承しているんだ。特に私はこのキエフ風のチキンカツレツが大好きでね。ナイフを刺すと中のバターが勢い良く飛び出すから、注意しなければならないがね…」
 大神とマリアは、フィラトフ大佐の如才ない話術にうなづきながら、ロシア料理を楽しんだ。
 「…昼にあれだけ食べたのに、まだ入るよ、マリア…」
 「本当に…美味しいですね、隊長」
 次々とワインやカクテル、様々な手の込んだ料理が円卓に並べられ、歓談が続いた。
 やがて、一組の男女が大広間の中央に歩み、楽団が輪舞曲を奏で始めた。
 白い軍礼服に身を包んだロシアの若い士官と、貴族の娘然とした若い女が優雅に踊り始めた。
 「さあ、いよいよ舞踏会の始まりだな、大神君、マリア、君たちもそろそろ踊らないか?
ロシアに来たら凍りつかないために踊らなければならないんだよ、大神少尉」
 大神とマリアは顔を見合わせ、お互いに小さくうなづいた。
 ウィニアフスキーの「モスクワの思い出」が哀愁を帯びたヴァイオリンの曲調で奏でられ
始めた。
 大神に優しく抱かれ手を重ねられたマリアは、初めて舞台に立った時よりも気持ちが昂揚
していた。大神の体温が感じられ、整髪料のほのかな香りが鼻孔をくすぐった。大きく脈打つ胸の鼓動が大神に聞こえやしまいかとマリアは心配になる。
 「…マリア…」
 「何ですか、隊長」
 大神の声はいつもよりずっと低く感じる。
 「…前からこんな風に君と踊ってみたいと思っていた。」
 「……私も…です…」
 消え入りそうなマリアの声が漏れた。
 二人は静かに確かめ合うようにステップを絡めあい、大きくステップを踏み出す度に、マリアのドレスの裾が優雅に広がった。
 三曲ほど踊った二人は喉の渇きを覚え、壁際のバーカウンターで軽いカクテルを頼んだ。
 給仕がカクテルをステアしている様子を眺めていると、後ろから女がロシア語で声を掛けてきた。その言葉を聞いてマリアは弾かれたように後ろを振り向いた。
 マリアと同じくらいの背格好の女が立っていた。短めの黒髪をきちんと束ね、意志の強そうな大きな鳶色の瞳がまっすぐにマリアを見つめている。
 「…オルガ!…オルガね!」
 信じられないというようにマリアはかぶりを振った。
 二人は抱き合い、それから確かめるようにお互いの顔を見詰めた。
 「…生きて…生きていたのね!オルガ!!」
 オルガ・アクショーノフ…
 ロシア陸軍准将セルゲイ・アクショーノフの姪オルガは、父のスパイ容疑のために一家で
シベリアの小さな街に移り住み、そこでマリアと知り合った。境遇の似た二人はすぐに打ち解けて、多くの時間を一緒に過ごした。教会や学校で小説を読みまわし、編み物を教えあい、お互いの家で一緒に料理を作った。
 革命戦争が激しさを増す中、青年革命同盟に入った二人は所属する部隊も違っていたため次第に会う機会が少なくなった。やがてオルガの所属する部隊が前線で壊滅状態となったことを伝え聞いたマリアは、オルガはもうこの世にいないのだと自分に言い聞かせた。
 そのオルガが目の前にいる。鳶色の大きな瞳はそのままに…そして美しく魅力的な女性に成長して…
 「マリア……まさかあなたが日本で女優になっているとは思わなかったわ…」
 「…オルガ、あなたは今…何をしているの?」
 「陸軍の通信と広報を担当しているの……さっき新聞社の人から今晩のフィラトフ大佐の夜会に日本から女優が来るって聞かされてマリアのことを思い出していたの。そしたら本当にあのマリア・タチバナなんですもの!驚いたわ……あ、あそこにいるのは秋水さんだわ…秋水さーん!」
  オルガの指さすほうには、あの帝都日報の記者、秋水永久也がいた。
 「大神少尉、マリアさん、今晩は。」
 少尉と呼ばれ、大神は改めて秋水を見据えた。軍礼服を見れば確かに少尉とはわかるに違いないが、当然のように呼びかける秋水は警戒して当然だ。
 訝しげな大神の表情を見てとった秋水はやれやれとでも言うように両手を上げた。
 「フィラトフ大佐に聞いたんですよ…僕とフィラトフ大佐はポーカー仲間なんです。いつもあの「コーシュカ」の奥の部屋でやるんです。帝国歌劇団のトップスターがいい男と二人で歩いていたらそりゃあ気になりますよ。これでも新聞記者の端くれですからね。あの
後大佐に聞いたんですよ、あの色男は誰だってね。そうしたら…」
 秋水は手にしていたグラスに口をつけカクテルを飲んだ。
 「そうしたら、駆逐艦「はやかぜ」の少尉がマリア・タチバナの親善公演の護衛に付いているとのことで…大神少尉、ご苦労様であります!私の大切なマリアをロシアの熊達から守ってください!…それじゃあ、オルガ、後でみんなで遊戯室に行こう。あそこならゆっくり話ができる。…君も色々話したいことが有るんだろう?…それじゃ、みなさんまた後で…」
 秋水は挨拶もそこそこに、隣にいた軍高官に声をかけ、談笑し始めた。
 ひとまずほっとした大神だったが、マリアの表情は硬かった。
 「大丈夫よ、秋水さんには何も話していないし、これから何も話すつもりはないわ。」
 秋水を警戒する二人の表情を察したオルガは大神とマリアに約束した。
 「…ありがとう、オルガ…」
 微笑むオルガの表情は少女の時のままだった。

 夜会も終盤にさしかかった頃、大神、マリア、オルガ、秋水の四人は遊戯室に集い、小さなテーブルを挟んでグラスを傾けた。
 オルガは部隊の広報担当ということで秋水とは親しいらしい。フィラトフ大佐とも親しい秋水の話は明日からの部隊の行動の詳細にまで及んだ。出発時間から途中の宿泊地に至るまでおよそ輸送計画に合致している。
 「…秋水さん…どうしてそんなに詳しく知っているんですか?」
 不安に駆られた大神は秋水に詰め寄った。
 「…どうしてって…僕も一緒に行くからですよ、大神少尉。ここにいる四人共、行き先は
同じ。目的はそれぞれ違うけれどね。マリアは親善友好、大神少尉はその護衛、オルガは移動演習、僕は取材旅行。寛大なフィラトフ大佐に乾杯!」
 大神の酔いは一気に醒めた。

 
 

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