帝国華撃団外伝
 
第三部
 
   輸送開始
 
 

  翌朝9時ウラジオストクのアンデレーエフ基地から、八両の車両からなる輸送部隊が召集点呼の後出発しようとしていた。
 大型牽引車二両、高機動装甲車三両、重装甲車二両、移動通信車で編成された輸送部隊は、次々に蒸気機関を始動させた。重々しい機関音がびりびりと朝の冷たい空気を震わせ、寒冷迷彩を施した白い戦闘服に身を包んだ完全武装の兵士達が次々に装甲車に乗り込んでいく。
 出発前の召集点呼の為に大神とマリアも他兵士と同様に寒冷迷彩の戦闘服に身を包み、搭乗の準備を進めていた。
 「いよいよ出発ですね、隊長。」
 マリアの吐息が白く凍りつく。
 大神は無言でうなづき、マリアの顔を真っ直ぐにみつめた。昨日の舞踏会での華やかなマリア…そして、局地戦用の戦闘服を着て武装したマリア…そのどちらの姿も大神には魅力的に思えた。
 「どうしたんですか、隊長?」
 「…いや、何でもないよ、マリア。ちょっと考え事をしていたんだ。」
 大神は荷物を手に取り、隊列最後部の装甲車に向かおうとした。マリアはフィラトフ大佐に随行して隊列全部の重装甲車に、大神は隊列最後部の高機動装甲車に搭乗することになっている。人員配置を含めた輸送計画は全てフィラトフ大佐のたてたもので、大神は特別異議は唱えなかった。ロシア軍の地政学や軍政学の手引書の草案を作成しただけのことはあって、有事の際の作戦行動、戦略は細部まで十分な検討が為されていた。大神とマリアを別々の装甲車に配置することに関しても、どちらか一人が負傷した場合でも天武による反撃ができるようにという配慮のもとに決定されたものだった。
 「大神少尉、どうしたんですか。元気がないですね。」
 「オルガ!……そうか、君も輸送部隊の隊員なんだ…」
 「私は通信担当なので、あの移動通信車に乗っています。…野営の時は又一緒に食事ができますね、マリアと一緒に」
 鳶色の瞳が一際魅力的に輝いた。
 「おーっと…僕は一緒じゃまずいのかい?オルガ」
 何時の間にか秋水が横に立っていた。ツイードのオーバーコートに革製の大きなトランクを携えた秋水の格好は旅行者然としていて、この場には場違いに見える。
 「…まずくは無いけれど…秋水さんはどの車両に乗ることになっているの?それに許可証は?」
 「一番後ろの車に乗れって言われているよ。…ほらこれがフィラトフ大佐の特別許可証だ。ここの特記事項の所に、最後部装甲車に搭乗となっているだろう?」
 「つまり、俺と同じってわけですね」
 大神が無表情につぶやいた。
 「大神少尉!大神少尉と同行できるなんて最高だなあ!イルクーツクまで、ポーカーで勝ちっぱなしになるってことだ。オルガ、今晩はいい酒が飲めるぞ!」
 オルガはきれいな声で笑った。昨日遊戯室で四人でポーカーをやり、一番大負けしたのが
大神だったのだ。
 「俺は金輪際ポーカーなんかしないからな!」
 大神は荷物を背負い、装甲車に向かって歩き始めた。
 「おーい、大神少尉! 待ってくれよ。花札もからっきし弱いなんて誰にも言わないから、待ってくれよ。」
 大神が乗り込み、秋水がトランクを投げ込んで飛び乗ると装甲車は急発進した。
 「…全く君って男は冗談を理解しない男だな…そんなに堅物だと女にもてないぜ」
 秋水は乱れた前髪をかき上げながらうそぶいた。
 「堅物で結構、軟派野郎になるつもりはないね。」
 秋水はやれやれという風に肩をすくめてオーバーコートを脱いだ。それからトランクを開け茶色の革製のものを取り出した。上のカバーを開けると口栓が顔を覗かせた。秋水は小さなショットグラスを二つ取り出し、スキットルを傾けた。
 琥珀色の液体が二つのグラスを満たした。
 「まあ、飲めよ、少尉」
 「今は勤務中だ。」
 「凍えちゃ戦にならないぜ。これは不凍液だ。機関はいつも暖めておかなきゃ。」
 秋水の言葉は時に凄みを帯びる時が有る。変な奴だ。
 大神は差し出されたグラスに口をつけた。
 上等のスコッチのようだ。大神は笑みを浮かべた。
 「…なかなか美味いな…」
 「これだから海軍さんは話しがわかる。何しろ海外の味を知っているからな。」
 「…秋水さん、あんたは本当に新聞記者なのかい?」
 「さあね…色々なことをやってきたからなあ。いわゆる大陸を渡り歩く高等遊民ってやつですよ。香港、上海、旅順と流れて、今度はウラジオストク。まあ、いい加減なところは天下一品だと自負してますよ。」
 阿片でも売りさばいていたのだろうか。よくわからない男だ。
 「まあ、少尉。長い旅だし、この装甲車の兵員室には少尉と俺と二人だけだ。楽しくやろうぜ。多少手心を加えるからさ…」
 秋水の手に一組のトランプカードが握られていた。
 やれやれ、と今度は大神が肩をすくめた。
 

 ハルビン到着
 

 ポーカーは負けっぱなしだった。
 大神はうんざりしながらも秋水につきあい、昼には黒パンをかじりながら負けポーカーを
続けた。
 装甲車の兵員室には窓が無く、時間の感覚がほとんど麻痺していた。
 ポーカーにも疲れうとうとしていると装甲車は停止し、やがて機関が止まった。
 「到着だな…ハルビンだ。」
 秋水がハッチを開けると、空は暮色に染まっていた。
 装甲車から降りると、白い戦闘服を着た兵士達が隊列を組み、点呼を始めていた。
 フィラトフ大佐とマリアの姿が見えたので大神が近づくと大佐はにこやかに手を振った。
 「大神少尉!ご苦労。…秋水君、装甲車の旅はいかがかね?シベリア鉄道とはまた違った
趣があるだろう。」
 「民間人には滅多に出来ない旅ですよ。ありがとうございます、大佐。」
 「礼を言うのはイルクーツクに着いてからしてくれ。熊が出るかゲリラが出るか先はわからんのだから……まあ、このハルビンは快適なところだ。君達には温泉つきのコテージを用意したから十分休んでいくと良い。」
 「ありがとうございます、大佐…それから大佐、一つお願いが有るのですが。」
 「何だね、秋水君。」
 「出来ればオルガもコテージに迎えたいのですが…」
 「…君に言われる前にそのように手配している。ただし条件つきだ。君達には一人一部屋
あたるようになっている。…不服かな?秋水君。」
 大佐がにやりと笑った。
 秋水はしまったとでもいうように顔をしかめた。
 

 贈り物
 

 大神達四人に用意されたコテージは、想像以上に広く必要十分の備品が備えられていた。
 暖炉の排気は床下に巡らされ、どの部屋も十分暖かい。
 マリアとオルガは食糧庫から肉や野菜を選び、料理を作り始めた。
 台所からマリアとオルガの楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
 大神と秋水は既に二人から過去の経緯を聞いていたので、窓際で紅茶を飲みながら彼女達の再会の喜びを思いはかっていた。
 「いいもんだね」
 本を読んでいた秋水が独り言のようにつぶやいた。
 「女の笑い声っていうのは。」
 確かめるような秋水の視線に大神は無言でうなづいた。
 マリアとオルガの作ったロシア料理は、コーシュカやウラジミール侯爵で御馳走になったものとは異なり、素朴だが味わい深いものだった。
 特に大神と秋水を唸らせたのは、子牛の肉にジャガイモとパイ生地を重ね合わせ、ビーツをベースにしたソースをかけた料理だった。
 食べるなり、大神と秋水は歓声を上げた。
 「うまい!」
 「ひゃっほー!やっぱり嫁さんにするならロシアの女だな!少尉!」
 ストリチナヤで乾杯し、手作りのロシア料理を堪能しながら夜はふけていく。
 食事の後片づけの後、秋水とオルガは温泉の下見に出かけ大神とマリアは暖炉の近くのソファで二人きりになった。
 しんとしたコテージの中で、大神とマリアは小さなショットグラスを傾けながら、お互いどんな話をしたものかと黙りこくっていた。
 「…あの………隊長…」
 最初に口を開いたのはマリアだった。
 「なんだい、マリア」
 大神の声はどこか上ずっている。
 「…ドレス…どうもありがとうございました…本当に、…本当に嬉しかったんです…」
 マリアはスーツの内ポケットに手を入れた。
 「隊長…確かこの間の戦闘の時、時計を…時計が壊れたんですよね。」
 「ああ、紅蘭に見てもらったんだけれど直せないって言われてね…一応予備の軍支給の時計は持っているんだけれど…」
 軍支給の時計は一時間に三分進んでいた。そして、その事はマリアも良く知っていた。何しろ「はやかぜ」に乗って以来、大神はマリアと顔を合わせる度に時間を聞いていたのだから…
 マリアは内ポケットから小さな箱を取り出し、大神に差し出した。
 「…隊長……これ、使っていただけますか…」
 大神が蓋をあけると、瀟酒な懐中時計が銀色に光っていた。蓋に細かく刻まれた彫刻は緻密なもので鳳凰のような紋章が中央に輝いている。
 「……マリア……」
 大神の横でマリアは頬を真っ赤に染め上げていた。
 「…ありがとう…マリア。大事に使わせてもらうよ…」
 マリアの口が何か言いかけたが、秋水とオルガの声が聞こえ大神は慌てて時計の入っていた箱をベストの下にもぐりこませ、マリアは弾かれたようにソファから立ち上がった。
 ドアを開けた秋水は、一瞬二人にすばやく視線を投げかけ、それからおもむろに口を開いた。
 「大神少尉!素晴しい温泉だ!早く入ろうぜ!!」
 「マリア、ロシア式の温泉浴なんて久しぶりでしょ?」
 「さあ、さあ、突っ立っていないでいこうぜ。」
 四人はコテージから別棟の温泉場に繋がる渡り廊下に向かった。
 

 湯煙の中で
 

 (なるほど…いい温泉だ…)
 秋水より早く脱衣所を出た大神は、海軍支給の手拭を片手に浴場を見渡した。
 浴槽から壁面の細部まで全てタイルに覆われているが、そのタイルの光りかたが今までに見たどのタイルとも違っている。鉱石が違うのか、それとも表面の加工技術が違うのかまるで玉虫のような不思議な虹色の光を帯びている。
 大神は木の桶で二、三回湯を浴び、それから湯船に入った。
 軍の風呂は大抵、大勢が一度に入れるようにと胸までつかるほどの深さが有るが、ここの
風呂は座って脚を伸ばすことができた。
 たっぷりと湯につかり体の芯まで温まった大神は、浴槽の脇の木のベンチに腰かけた。
 脱衣所からようやく秋水が出てきた。秋水は海水パンツをはいている。
 (おいおい、温泉で海水パンツをはく馬鹿がどこにいるんだよ!)
 大神は心中舌を鳴らし、風呂で一物も見せられないのかと秋水を軽蔑した。
 秋水はベンチに腰掛ける大神に一瞬怪訝な表情を浮かべたが、大神はその一瞬の表情を身のがした。
 「大神少尉!最高ですね、ここの温泉。」
 「ロシアで温泉に入れるとは思わなかったよ…秋…」
 脱衣所のドアが開く音に大神は耳を疑った。
 ふりむいた大神の目にマリアとオルガの姿が飛び込んだ。
 マリアは、胸と腰がようやく隠れているほどの大胆なカットの濃紺の水着を身につけ、オルガは背中が大きくカットされた白いワンピースの水着姿だった。
 「美神達のお出ましだよ、大神少尉」
 余りの衝撃に、大神は秋水の言葉も耳に入らなかった。
 マリアの肌は驚くほど白く機目が細やかで、乳脂を塗り固めたようなその肌は濃紺の水着に尚一層白さを際立たされていた。すらりと伸びた手脚は少年のように伸びやかで均整のとれたその肢体はヴィーナスさえも凌駕するだろう。
 呆然としてマリアとオルガを見つめる大神に秋水は悪戯っぽく囁いた。
 「少尉、ロシアの温泉は水着をつけるのが一応習慣になっているんですがね…」
 秋水の言葉に初めて大神は自分の置かれている状況を理解した。腰を覆うものは手拭だけで、しかも……下半身は熱くたぎっている。
 14才の少年なら熱膨張で済むかもしれないが、大神のそれはもはや熱膨張の域をはるかに超えている。
 大神は湯船に飛び込むべく脱兎のように駆け出した。
 「大神少尉!!」
 「危ない!!」
 「きゃあああ!」
 幾つかの声が交錯した。
 つるりと滑った大神の片脚はバレリーナのように直立し、海軍支給の手拭は宙に舞った。
 「うわああああああ!!」
 大神の体は一瞬宙に浮き、それから後頭部を床に叩きつけて大の字に伸びた。
 手拭は静かに大神の局部を覆う形で舞い降りた。
 「大丈夫ですか、隊長!!」
 マリアの声に大神はうっすらと目を開けた。
 大神の頭はマリアの太腿の上に乗せられていた。 
 左を向くと、小さな濃紺の布地を一杯に張りつめさせたマリアの豊かな乳房が眼前に迫り、右を向くとオルガの白い水着の胸の膨らみの頂上にうっすらと桜色の乳暈が透けている。
 大神は鼻血を溢れさせながら気絶した。
 

 

  星の彼方
 

 「…大丈夫か?少尉…」
 軽く頬を叩かれ、大神はようやく意識を取り戻した。ぼんやりとした影は次第にはっきりとした像を結んだ。秋水だった。
 「…い…いたたた…」
 後頭部の疼痛に大神は呻いた。
 浴場の隅の木のベンチに寝かされていた大神は、頭をさすりながら起き上がった。
 「海軍の軍人は女たらしばっかりと思ったら結構純情なんだな…もっとも、あの二人の
水着姿を見て平静でいられる男は少ないだろうが…、ほら水でも飲んだほうがいい。」
 秋水は大神の目の前に冷たい水で満たしたコップを差し出した。
 大神は黙って差し出されたコップを手に取り、喉を鳴らして一気に飲み干した。
 「…マリア達は?…」
 「向こう側の蒸し風呂に入っているよ…二人ともここの温泉が気に入ったらしい」
 秋水は大神の隣に腰を下ろした。
 「いい女だな、マリアは」
 いつも秋水の軽口とは違って、その言葉はふと虚空に洩れたため息のようだった。
 秋水の視線は湯煙の中にぼうっと灯った淡い電灯の光に向けられている。
 大神は返答に困り、空のコップを手に取った。秋水はにやりと笑いそのコップを大神の手から取り上げて立ち上がり、カランから冷たい水を注いだ。
 「もっと素直になった方がいいと思うな、少尉」
 秋水が差し出すコップの水面には当惑した男の顔が揺れている。
 「…素直…にか…」
 大神は、静かに冷たい水を口の中に含んだ。
 「日本男児の一番苦手なことらしいがね。」
 秋水は浴槽に歩み寄り湯桶で二、三回背中を流すと、ゆっくりと湯の中に体を沈めた。
 「……おおい、少尉、気持ちいいぜ…マリア達が気になるならそこにパンツがある。」
 大神は温泉に海水パンツなど無粋だとは思ったが、同じ轍を踏みたくないという気持ちが勝り不貞腐れたようにパンツを履き、乱暴に湯桶で背中を流すなり湯の中に脚を入れた。
 「脚を伸ばせる風呂はいいな、少尉」
 「…ああ、本当だ…」
 大神は何度も湯で顔を洗った。
 素直になる。
 大神は何度も心中この言葉をつぶやいていた。
 俺の気持ち…マリアの気持ち…隊長…隊員……戦闘…舞台……軍人……女優……
 俺にとってのマリア……マリアにとっての俺……
 「…哲学してるな、少尉……だが、必要なのは哲学じゃない。行動だ…行動こそが哲学を生む…女を抱いた瞬間、人は哲学を生む…銃で人間を撃った瞬間、人は哲学を生む…現実が想像を凌駕した時…人は哲学を生む…」
 秋水の低い声は修行僧のようだった。
 (こいつ、大陸でどんなことをしてきたのだろう?)
 秋水の独白に大神が口を開きかけた時、マリアとオルガの声が浴場の中に響いた。
 「大神少尉、秋水さん!あそこの小さなお風呂をごらんになりましたか?きれいなんです…空がとても…」
 マリアの言葉に大神と秋水は顔を見合わせた。
 空だって?
 マリアとオルガの後をついていくと、蒸し風呂の向こうに人一人がようやく通れるほどの
狭い通路があり、その奥に電灯の灯っていない暗い部屋がみえた。わずかな明りの中に、こじんまりとした浴槽のぼんやりとした輪郭が見える。その浴場はけっして大きいとはいえないが、壁面やカランにケンタウロスなどの人獣の彫刻が装飾されており、瀟酒な造りになっていた。
 オルガの指さす天井はガラス張りの円天井になっており、そこには満天の星空があった。
 四人は声もなく空を見上げた。
 吸い込まれそうな漆黒の闇の中にちりばめられた星々はまたたきもせず、黒布に散りばめられた細かな鉱石のように輝いていた。凍てついた空を横断する星雲は結晶砂のようにさらさらと音を立てて流れているようだ。
 「…クラスィーヴィ…」(…美しい…)
 マリアの唇から吐息のように言葉がこぼれた。
 天周を見まわしていたマリアの目は低い空に浮かぶ月でとまった。
 赤い月…
 鋭い刃物のようなその細い三日月は、血のように赤く輝いている。
 「月が…赤いな…」
 マリアの視線を追った大神は低くつぶやいた。
 「…きれいだな…だが、赤い月は不吉の兆候とも言われている。フランス革命の時、夜空に血のように赤い月が現われて大騒ぎになった。王妃が断頭台で処刑された夜だ…王妃の名は……」
 秋水の言葉は何かを思い出したかのようにそこで途切れた。
 「…ごめん、忘れたよ…」
 マリアは、虚空に浮かぶ赤い月をまばたきもせず見つめていた。

 

第三部・完(99・2・6)
 
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