マリアが通信を切ってからしばらく経つと、天武から異様なサイレンが鳴り始めた。
「…少尉!…何だ、あのサイレンは?…」
しばらく目を閉じていた大神は、静かに口を開いた。
「自爆装置を起動させたんだ、マリアが…」
二人は黙り込んだ。不気味なサイレンの音がうねりながら鳴り響いている。
大神は、ポケットから鳳凰が彫刻された懐中時計を取り出した。蓋を開けるとその裏側には舞台袖で微笑んでいるマリアの写真があった。以前、高村椿の伝票整理を手伝った時にお礼に貰ったその写真は大神が一番気に入っているマリアの写真だ。
微笑むマリアの下では、秒針が刻一刻と時を正確に刻んでいる。
大神は立ち上がり、斜面を降りて行こうとした。
「…少尉、どうするつもりだ。」
大神は黙ったまま、側車に近づき弾帯をたすきに掛けた。
「少尉!あんた、間違いなく死ぬぜ。」
無反動の噴進砲をかつぎあげ、弾薬箱から噴進砲弾を取り出した大神は横目で秋水の顔を見た。
「…俺は、マリアを助けに行く…」
「勝算は有るのか?」
「俺は、完全な戦争理論などないと思う。たとえそれが有ったとしても人間はそれを遂行できる程には完全ではない。俺はそれをフィラトフにわからせるつもりだ。」
大神は噴進砲に照準器を装着した。
「戦車隊のすぐ後ろに大型の装甲トラックが有る。おそらくあれは補給用の弾薬に違いない。あそこに噴進砲弾を打ち込めば、おそらく戦車の半数は撃破できる…敵が混乱している隙に、天武からマリアを救出する。」
「……なるほどな。確かにあそこに命中したら大爆発にはなるだろうな……だが、少尉、敵は正規の軍隊なんだぜ。白兵戦で逃げきれるか?」
「…やってみなけりゃわからないさ…」
噴進砲弾を装填しながら、大神は笑みを浮かべた。
「…わかったよ、少尉。…わかった。……最期に…少尉、もう一つだけ俺の頼みを聞いてくれないか?……10分だけ時間が欲しいんだ…」
「…どうするつもりだ…」
「…俺は…オルガを助けたい…」
大神は黙ってうなづいた。
秋水は、照れ臭そうに笑いながら、単車にまたがり始動ペダルを蹴り蒸気機関を始動させた。
「なあ…少尉…」
「なんだ?」
「…俺達って馬鹿だよな……女のために戦争するんだぜ…」
秋水は妙にさばさばした口調でそう言った。同意するように大神もわずかな笑みを浮かべた。
「…きっかり10分後、ヒトヨンヨンロクに発射する…」
噴進砲をかついだ大神は斜面を登り始めた。
「死ぬなよ、少尉」
「あんたもな」
秋水は、単車を猛然と発進させた。
天武から発せられている不気味なサイレンに、指揮装甲車の中は緊迫した空気に包まれていた。
フィラトフ大佐は正面の彼方の天武を見据えたまま、微動だにしない。
大佐の補佐を務めるボリス・フラーロフ少佐は、後部の指揮作戦室から慌ただしく駆けてきた兵士の報告に顔をしかめた。
小汚いスパイめが…
ボリス・フラーロフ少佐は、その男が自分以上にフィラトフ大佐に親密であることがどうにも理解しがたく、我慢がならなかった。もちろん、日本海軍の様々な情報を提供してくれる貴重な存在であることはわかるのだが、今回の帝国華撃団監視の任務にしても様々な場面での軽薄さが鼻についてならない。
ボリス・フラーロフ少佐は、フィラトフ大佐の背後から低く囁いた。
「…大佐…秋水少尉が来たそうです…」
「…秋水少尉が!……」
フィラトフ大佐は席を立ち、後部の指揮作戦室の方を振り返った。
背をかがめて乗り込んできた秋水は、フィラトフ大佐に小さく敬礼した。
「…大分、苦戦しているようですね!大佐…」
「…苦戦というわけではない…ただ、待っているだけだ…それより、大神少尉はどうした?…」
「……今ごろは、装甲車の中で楽しい夢でも見ている頃ですよ…」
「…そうか…しかし、どうして君はここへ?予定外の行動だ。」
「それは、予定外のものが手に入ったからですよ、大佐。」
秋水は、茶色のトランクをフィラトフ大佐の前に差し出した。
「…大佐が以前から欲しがっていたものですよ…」
フィラトフの目が輝いた。
「……そうか!…エニグマか!……よくやってくれた秋水少尉!」
「…どういたしまして、大佐…」
フィラトフ大佐は立ち上がり、ブリーフケースの中から紙幣の束を取り出し、秋水に手渡した。秋水は渡された紙幣を無造作にオーバーコートのポケットにねじ込んだ。
「…いつもありがとうございます、大佐……ところで、今回の作戦はどうです?天武は手に入りそうですか、大佐?」
フィラトフ大佐は不敵に笑った。
「もう私の手中に入ったも同然だよ、秋水少尉…」
「…実際、驚きましたよ、大佐…まさか、貴方自身が天武を奪うとはね…以前に話されていた新国家創建の話は貴方の本心だったんですね。」
「私は、いつも本心を話しているつもりだよ、秋水少尉。」
秋水は、やれやれというように首を振りながら装甲車のハッチに手を掛けた。
丘陵の頂上近くで、大神は片膝をついて噴進砲を構え照準器に眼を当てた。
照準鏡の中に、戦車隊が大きく映し出された。
焦点を合わせながら、十字の照準線の中心を目標の装甲トラックに合わせる。
後はトリガーを引くだけだ。
大神は傍らに置いた懐中時計の文字盤を見つめていた。
指揮装甲車を降り、単車を駆って秋水はオルガの乗る移動通信車を探した。
通信車は輸送部隊よりもさらに後方に有り、都合の良いことに他の車両からは孤絶する形で待機していた。
通信車のすぐ後ろに単車を停めた秋水は、通信車の傍らにいた歩哨に呼び止められた。
秋水は微笑みながら歩哨に近づいた。
「…すまない…トイレはどこかな?」
秋水はオーバーコートの袖口に仕込まれたスティレット(細みの短剣)にそっと指をかけた。怪訝そうな表情の兵士の隙をついて後ろに回り込んだ秋水は、針のようなスティレットを兵士の首の後ろに突き刺した。
悲鳴をあげる間もなく、兵士の身体は雪の中に崩れ落ちた。
時間がない。
秋水は通信車の中に飛び込んだ。
通信機の前で傍受具を耳に当てたオルガが振り向いた。
「…遅かったわね…」
「ごめんよ、道が渋滞していたんだ。」
発射予定まで一分を切り、大神は大きく息を吸い込み、吐いた。
秒針は、一秒一秒正確に時を刻んでいる。
大神の脳裏に、マリアの様々な表情、言葉が去来した。
初めて会った頃の生硬なマリア…
貴方は隊長失格です、と何度も言われたっけな…
懍としたマリアは気高くて美しかった。
…マリア…
今、君を救うことができなかったら、俺は本当に隊長失格だ。
俺は必ず君を助ける…
待っていてくれ…
秒針が正立した瞬間、大神はトリガーを引いた。
指揮装甲車で見張りを務める若い兵士は、天武の背後の丘陵頂上に何かが光ったような気がして眼を凝らした。気になって胸の前に下げていた双眼鏡に手を掛けようとした瞬間、丘陵の頂から白い航跡を描きながら凄まじい速度で上昇する物体を発見した。
「攻撃ですっ!!未確認の物体飛来しますっ!!」
兵士の絶叫に、フィラトフ大佐は弾かれたように立ち上がった。
白い放物線の先端が装甲トラックに到達した瞬間、閃光とともに装甲トラックの車体は数十倍に膨れ上がり、爆発の衝撃でフィラトフ大佐は床に叩きつけられた。
弾薬を満載した装甲トラックは大音響とともに爆発し、四散した砲弾によって扇形陣を敷いていた戦車は次々に誘爆を起こし始めていた。
「…馬鹿な…」
戦車隊の半数以上を失ったフィラトフ大佐は絶句した。
目の前で次々に誘爆を起こしている戦車隊を見ながら呆然としていたマリアは我に帰り、天武の電視眼を後方に向けた。
背後の丘陵の雪原に移動する物体を見つけたマリアは電視眼の倍率を上げた。
「…隊長…」
雪煙を上げながら軍用側車で斜面を真直ぐに降りてくる大神の姿を見て、マリアは言葉を失った。
私のために…たった一人で…
あきらめるんじゃない、俺が必ず助ける、と言った大神の言葉が胸の中に熱く広がった。
マリアは、正面の敵に向かってガトリング砲を構えた。
装甲車から降りた兵士達は、姿勢を低くしながらじりじりと迫って来ている
兵士達は、斜面を疾走する大神の側車を狙って発砲し始めた。
天武のガトリング砲が火を噴き、兵士達は次々に雪原に倒れた。
「うぉおおおおおおっ!」
銃弾が飛びかう中、大神はスロットルを全開にして、天武を目指した。
マリアが援護射撃する中、大神は天武の傍らに側車を止めるなり、硬化した樹脂を脚がかりに天武によじ登り、強制開放のレバーの扉を探した。
装甲の中に目立たないように隠された小さな扉を開け中のレバーを半回転させると、小さな爆発音とともに搭乗扉が吹き飛んだ。
薄い白煙の中にマリアがいる。
「…マリアっ!!…」
「…隊長…」
「…早く!…時間がないっマリア!」
大神はマリアに手を差し延べた。
マリアは大神の手を借りて地上に飛び降り側車に乗り込んだ。
グリップを握った大神は側車を急発進させ、マリアは側車に積まれていた重機関銃を手に取り、腰だめにしながら連射した。マリアの浴びせかける銃弾に兵士達は次々に倒れた。
「何をしている!敵はたった二人なんだぞ!」
フィラトフ大佐は激昂した。
「戦車隊、砲撃はどうした!」
「目標物体が高速のため捕捉、照準ができません!…距離が近すぎます!」
憮然とした表情でフィラトフ大佐は腕組みした。
…甘く見すぎたか、奴等を…
無線機の受信音が鳴り響き、大佐はひったくるように傍受具を耳に当てた。
「戦況はいかがですか?フィラトフ大佐。」
ふざけた口調の秋水の問いにフィラトフ大佐は顔をしかめた。
「…何か用か?秋水少尉。今は戦闘中だ。」
「失礼しました、大佐。…手短に言いましょう。…貴方の執筆した初年兵用の教科書に書かれていた言葉です。『如何なる状況下でも細心の注意と疑念は抱くべきである。誰が敵であり、誰が味方であるかの疑念を失った時、死は速やかに訪れる』……素晴しい言葉ですね、大佐…」
「……何が言いたい?…秋水少尉…」
「プレゼントされた時は、貰ったその場で開けてみるべきでしたね、大佐。」
フィラトフ大佐の眼は指揮作戦室の隅に置かれている茶色のトランクに釘付けになった。
トランクを外に投げ出すように命令しようとした大佐の耳に秋水は囁いた。
「…もう遅いですよ…ダスビダーニャ…フィラトフ大佐…」
茶色のトランクは白い閃光を放った。
それが、フィラトフ大佐の視た最期の映像だった。
指揮装甲車は火を噴きながら膨れ上がり、爆発した。
マリアは側車に後ろ向きに座り、腰だめにした機関銃で追撃してくる兵士達に銃弾を浴びせて応戦していた。
「…マリア…もうすぐ天武が爆発する。…思いっきりスピードを上げるからしっかり掴まっていてくれ!」
「わかりました!隊長」
機関銃を構えながらマリアは大神に笑顔で答えた。
本来の姿をとりもどしたマリアに、大神は安堵しマリアに向かって小さくうなづいた。
その時、後ろに迫ってきた敵の軽装甲車の砲火が火を噴いた。
マリアは手榴弾を投げつけたが、軽装甲車は巧みに回避しながらその距離を縮めている。
装甲車から再び銃弾が浴びせかけられ、そのうちの一発が大神の肩を撃ち抜いた。
大神の肩は噴き出す血に真っ赤に染まり、マリアは悲鳴を上げた。
「隊長っ!!」
大神は激痛をこらえてハンドルを握っていたが、側車はついにコントロールを失って小さな窪地で跳ね上がり横転した。
投げ出されたマリアは地面に叩きつけられ呻き声を上げた。眼を開いたマリアの視界に雪原にうつ伏せに転がった大神の姿が飛び込んだ。
息がつまるような痛さをこらえてマリアは起き上がり、大神のもとに駆け寄った。
抱き起こしても大神は眼を覚まさない。
「…隊長…隊長!…隊長!!」
マリアは絶叫した。
その声は、傷を追った獣のように哀れで悲痛なものだった。
凍てつくシベリアの風が吹きつける中、マリアはいとおしげに大神をかき抱いた。
装甲車から降りた兵士が発射した銃弾が二人のすぐ手前で雪煙を上げた。
マリアはコートの下から取り出したエンフィールドを構え、発砲した兵士に狙いを定め発射した。銃弾は兵士の額を正確に撃ち抜いた。
マリアの碧の目は憤怒に燃えていた。
立ち上がり逃げようとする兵士達に、マリアは容赦無く正確な射撃で兵士の胸に銃弾を撃ち込んだ。
マリアはさながら黒衣の鬼女だった。
美しく、悲しい鬼女…
雪混じりの寒風に金髪をなびかせながらマリアは雪原を舞い、近寄る兵士達の胸に赤い花を咲かせていった。雪原にこぼれ落ちる赤い花を手のひらでかき抱きながら兵士は血を吐き死の淵に沈んでいく…
マリアは大神を背にかつぎながら横転した側車に向かい、尚も銃弾を浴びせかける兵士達にマリアは片手でエンフィールドを連射した。
銃弾は一発の無駄もなく兵士達の頭と胸を撃ち抜いた。
渾身の力を込めて横転した側車を元に戻したマリアは側車の座席に大神を乗せた。
銃弾は執拗に二人を狙い、側車の装甲をかすめていく。
弾帯をたすきに掛け十一式歩兵銃を背にしたマリアは軍用側車の運転座席に跨がり、始動
ペダルを踏み蒸気機関を始動させた。
追撃してくる兵士達をエンフィールドで牽制しながらマリアはスロットルを全開にした。
高馬力の蒸気機関が唸りを上げ十二式高機動軍用側車は雪煙を上げて発進した。
傷ついた大神を心配しながら、マリアはスピードを上げた。
もう、追撃してくる敵はいなかった。
天武の爆発から逃れられるだろうか?
…いや、逃れなければ…
大神は最期まであきらめなかった。一人で機甲師団を相手にあそこまで戦ったのだ。
…私を助けるために…
…弱い気持ちになった私を助けるために…
生きなければ…
二人で、生きなければ…
マリアの眼に涙がこぼれ、その滴はロシアを吹く風の中に消えていった。
果てしなく広がる雪原の中、二人を乗せた側車はわずかな希望を求めて疾走した。
歯を食いしばりフルスピードで側車を駆っていたマリアは、突然、鉛色の空に強い白色の閃光が走るのを見た。驚いて側車を停めて振り返ったマリアの眼に、急速に膨張し続ける白い光球が視界一杯に広がった。
凄まじい爆発音とともに、衝撃波に大地は激しく揺れ側車は瞬間浮き上がった。
びりびりと空気を震わす衝撃波に耳を押さえていたマリアは、天空高くまで立ち昇る巨大なきのこ雲を目にして恐怖に思わず息を呑んだ。
爆心地に近い森林全体が火の海になっている。
想像を絶する破壊力をまざまざと見せつけられたマリアは、しばらく呆然と黙示録の世界のような光景に見入っていた。が、次第に爆発の恐怖が薄らぐにつれ、改めて生を実感し始めていた。
……生きている……
……私たちは助かったんだ……
大神はまだ目を覚まさない。
早く手当をしなければ……
どこかで、大神を手当し、粗末でもいいから温かい寝床を用意したかった。
日が暮れれば血に飢えたシベリアオオカミを相手にしなければならなくなる。急がなくては。
マリアは再び側車を発進させた。
大神は夢を見ていた。
暖炉にくべられた薪が燃えて弾ける音が聞こえている。
部屋の中は暗く、暖炉の中でちろちろと燃えている炎が大きく燃え上がる時にだけようやく部屋の四隅が見えた。
暖炉のそばでうずくまっていた女が立ち上がり、服を脱ぎ始めた。
ゆらめく炎に照らされた白い裸身がぼうっと浮かんでは闇に消えた。
女の白くしなやかな腕が揺れて細い指が金色の髪を鋤いていた。
……マリア……?
深い闇に意識が覆われた後、大神は自分の身体を包み込む温かくて柔らかな感触に陶然としていた。闇の中でただ肌の温もりがとても心地よく、いつまでもこうしていたいと大神は思った。
合わさった二つの心臓は同じ時を刻んでいる…
永遠に…
このまま…
再び大神の意識は闇に呑まれた。
小屋の中に差し込む光線の眩しさに、椅子に座ったまま寝ていたマリアは目を覚ました。
朝だ…
眩しい朝日に目を細めながら、昨日の出来事を反芻したマリアは安堵のため息を洩した。
まだ意識が戻らないのだろうか…
粗末なベッドで眠り続けている大神の寝顔を、マリアは心配そうに覗き込んだ。
目を覚まして下さい、隊長。
何か話して下さい、隊長。
私たちは…生き残ったんですよ…
マリアの想いが通じたのか、その時、大神の睫毛が小さく震えた。
「……隊長……」
「……マ…リア…」
大神の瞳に涙を一杯に溜めたマリアの顔が映っていた。
大神の胸に顔を埋めて、マリアは少女のように泣きじゃくった。
新しく建設された病院ということもあって、病室は明るく清潔だった。
大神は窓の外のイルクーツクの街並を眺めていた。近くに学校や公園が有るので子供達が多く、通行している人達を見ているだけでも見飽きなかった。
マリアは、ベッドの傍らのスツールで創刊されたばかりのロシアの新聞を熱心に読んでいる。病院の中には小さな図書館が有り、読む本にマリアは不自由しなかった。
ノックの音とともに、背の高い看護婦が病室に入ってきた。
「大神少尉に面会です。」
大神とマリアは顔を見合わせた。誰が来たのだろう?
ドアの隙間からまず花束が現われた。
それから、いつものように皮肉っぽい笑顔を浮かべた秋水と、オルガ…
「…秋水!…オルガ!、無事だったのか!!」
大神とマリアは歓声を上げた。
「少尉、ご無沙汰!…お互い死神には縁が無かったようだな…」
秋水とオルガは、ベッドの傍らのスツールに腰かけた。
「…二人ともよくあの爆発から逃げることができたものだな…」
「…そっくり今の言葉をお返ししますよ、少尉。…本当に凄い爆発だった…」
秋水は小さくため息をつき、それから徐に顔を上げた。
「少尉…俺は…少尉に謝らなきゃならないことがあるんだ…」
「…一体、今度は何だよ…」
大神は悪戯っぽく笑った。
「…今に始まったことじゃあないが、…俺は少尉をずっとだまし続けていたんだ。…話がややこしくなるから簡単に説明するが、少尉は『もぐら』を知っているか?畑にいるもぐらじゃないぞ、軍事情報用語の俗語だ。」
「…もぐら…?…わからんな」
「俺は、『もぐら』、平たくいえば二重密偵という因果な商売でね…日本海軍の情報をロシアに渡しているように偽装しながらロシア軍の動向を情報収集するという任務だったんだ。…渡した名刺には帝都日報極東支局長なんて謳っているが、真っ赤な嘘でね、俺は少尉と同じ軍属なんだ…」
「何だって?あんたが軍属だって?」
「帝国海軍陸戦部隊情報部特務班 秋水少尉であります。」
わざとらしく敬礼しながら秋水は、目を丸くしている大神につけ加えた。
「…今回、俺は米田中将に直接指名されて護衛を命ぜられたんだ…少尉達の行動をロシア軍にある程度報告しながらロシア軍内部の軍事情報を探っていたんだが、まさか俺もフィラトフがあんな行動に出るとは予測していなかった…」
「…そうか…米田司令が俺達のために……それはそうと、フィラトフ大佐はどうなったんだろう?」
「多分、あの天武の爆発で死んだに違いない…」
秋水は表情を変えずに答えた。
「…もの凄い爆発でした…」
マリアは、猛烈な衝撃波と巨大なきのこ雲を思い出していた。
「……それにしても…秋水さんとオルガ、本当によくあそこから脱出できたわね…」
「オルガのお陰ですよ…天武強奪の動きがあった時、すぐに中央のアクショーノフ准将にフィラトフのクーデター計画を伝えたから、すぐ近くまで征伐軍が来ていたんです。単車で逃げていた俺達は征伐軍の戦車に拾われてハイラルで降ろしてもらったんだ。……極東の機甲師団が武装蜂起したというのでかなりの規模で征伐軍が展開したらしい…それに、降魔組織と結託していたのはフィラトフばかりではないらしかったな…他にも軍上層部の数人が今回のクーデター計画に荷担した容疑で更迭されている…」
「…弱い心につけいるんでしょうね…降魔は…」
マリアの言葉に秋水は一瞬沈黙した。
「…そうでしょうね…悪魔は何も成す能わず、ただ自らの形象を神に似せるのみ……確かそんな警句が有りましたよ…魔というのはきっと我々の内部に巣くうものなんです、マリアさん」
秋水はまっすぐにマリアを見据えて真顔で言った。
「…ところで…秋水…少尉…」
呼び慣れず、大神は咳払いした。
「…あんたは、これからどうするんだ?ウラジオストクに戻るのか?」
秋水は首を横に振った。
「あまり、ロシアにゆっくりはしていられないんだ。直に俺が『もぐら』だってことはばれるからな。その前に香港か上海にでも行くよ。…オルガと一緒にね。…少尉達はまだしばらくロシアにいるのかい?」
「隊長の傷が直り次第、北の方に行きます。……これは、私の我がままなんですけれど、…気持ちを整理するために…行きたいところがあるんです…」
マリアの過去を知る三人は何もマリアに尋ねなかった。
マリアは病室の窓のガラス越しに空を見た。
雲の切れ目から数条の陽光が洩れている。
墓前にたむける言葉はもうすでに決まっていた。マリアはそっとその言葉を心の中でつぶやきながら、熱いロシアティーを準備するために病室を出た。