太正16年6月19日
梅雨時の憂鬱な天気の日々が続く中、その日は珍しく朝早くから青空が広がっていた。
夜更けから眠れずにベッドに横になっていたマリアはふと、小さい頃よく母親にせがんで聞いた話を思い出していた。
『あなたはね、なかなか出て来てくれなくてね、最後はもう駄目かと思っていたの。
一晩中身体がどうにかなってしまうんじゃないかと思う程苦しくて。
でもふうっとね、身体が楽になって気がつくと部屋の中がすっかり明るくなっていて、そして全身を震わせながらとても大きな声で産声をあげるあなたがいたのよ。』
『私は朝に生まれたのね。』
『そうよ、お日様と一緒に生まれて来たのよ。』
『お母さん嬉しかった?』
『とっても嬉しかったわ。』
自分の生まれた時の話は何度聞いても飽き無かった。
甘いお菓子をねだるように何度も聞きたがるマリアに、母は厭わしがらずに同じ話を繰り返してくれた。
生まれて来た事の意味が見出せず苦しんだ時期もあった。
自分の生を忌わしい物としか思えない時期の方が長かった。
いつか母親の顔も忘れてしまう程遠い記憶の彼方へ仕舞い込んでいた。
この頃何かにつけて母親の事を思い出してしまうのは多分今日の日を迎えるにあたってなのだろう。
「お母さん……私……。」
ベッドの中で天井の辺りを眼をこらして眺めてみる。
母は何故祖国を捨てて異国の果てで自分を生んだのか。
今ならきっと何か言葉を返してくれるように思える。
あの頃何度もせがんだ自分に答えてくれたように……。
次第に薄ぼんやりと明るくなる部屋の中でマリアは起き出して身支度を始めた。
壁に架けてある白いドレスの袖に手を通すのは、後でかえで達が呼びに来る直前でかまわないのでとりあえずいつもと同じスーツを着る。
身支度を済ませると窓際により、この重いゴブラン織のカーテンを開けるのもこれで最後ね、と思いながらゆっくりとタッセルをかける。
カーテンがひかれると同時に部屋いっぱいに眩い朝の光があふれた。
ウエディングドレスの柔らかなオーガンジーのドレープにちりばめてある真珠が朝日を浴びて煌めく。
しばらくその輝きをぼうっと眺めていた。
この部屋で過ごす時間もあとわずかになるとわかってから少しずつ始めた片付けもようやく終った。
今日総てを運び出せばこの部屋の中に残るのは最初から備え付けられていた机とベッドそしてクローゼットだけになる。
手伝いましょうかという花組のメンバー達の申し出を、それ程大変な量ではないからと丁重に断わって一人で始めた作業が意外と手間取ったのは、捨て切れなかった細々とした物の整理が原因だった。
元々、華美な装飾品や余分な物は部屋の中に置かないマリアだったが、ここでの生活が7年にも及ぶとそれなりに雑多な物が増えているものだ。
考えてみるとこの帝劇へ来るまで自分の身体一つ横たえる場所さえあれば他には何も頓着しないで生きてきたはずなのに。
一度も使う機会は無かったけれど気に入っていたアイリスからのクリスマスプレゼントはクマの模様のついたハンカチ。
大神から渡された時に信じられない程嬉しかった、初めてヒロインを演じた奇跡の鐘の台本。
ロシア旅行の土産に買ってきたウオッカの礼だと米田から貰った江戸切り子のショットグラス。
数え上げていくとキリが無くなるほど。
他人から見ればとるに足らない他愛の無い物がどうしても捨てられ無くなっているのは、その物が呼び覚ます想い出の時間を愛しく大切に思えるからだ、という事に今さらながら気付いた。
ドレスから眼を移すとゆっくりと部屋の中を見回した。
ここで、どれほどの思いを過ごしただろう……。
そして、何を無くし、何を得たのか……そう思いながら全身を映す大きな姿見の前に立った。
鏡の中の自分の姿を無言で見つめる。
この私を愛してると告げてくれた人がいる。
そして、私も……。
それからおもむろに机に視線を移した。
マリアは机の引き出しを開けると最後まで仕舞わずに残して置いた黒い漆塗りの文箱を取り出した。
蓋の表面に花の形に埋め込まれた白い貝殻が光の加減で虹色に輝く。
日本に来てまだ間もない頃、ニューヨークから持って来たウォーターマンのブルーブラックインクを探して一人で入った丸善で見つけた文箱だった。
螺鈿細工の模様が花橘だと知ったのは随分後になってからの事だった。
中からマリアは3通の手紙を選り分けて取り出した。
この3年間に各々違う場所から毎年マリアの元に届いた3通の手紙だった。
素っ気無い程短い言葉が反って溢れる程の想いを伝えてくる。
もう何度も読み返してきたその3通の手紙を手にベッドに腰掛けるとマリアは一番古い日付の手紙から読み始めた。
マリア
誕生日おめでとう。
まず、それから伝えたい。
考えてみると、去年はマリアに誕生祝いを言うどころじゃなかったなぁ。
今年は本当なら顔を見て伝えたかったのだけれど、如何せん、こちらに復帰したばかりで自由な時間がなかなか取れない。
申し訳なく思ってる。
近いうちになんとか時間を取ってこの埋め合わせをするつもりだから。
マリア、ニューヨークで迎える誕生日おめでとう。
この日を一緒に過ごせないのは残念だけれど任務じゃ仕方ない。
帰ったら改めて二人でゆっくりお祝いをしたいと思っているのでそのつもりでいてくれ。
マリア、誕生日おめでとう。
今年も側にいてお祝いを言う事が出来なくて残念だ。
泣き言をいうつもりはないが、今日だけはパリと東京がこんなに遠い事が恨めしい。
叶うものなら今すぐマリアを抱きしめて祝ってやりたいと思う。
心はいつも君とともに在ると思っていて欲しい。
手紙の一文字ごとに大神と過ごしたこの年月の様々な想い出が胸をよぎる。
マリアは手紙を読み終えるともう一度文箱の中に戻し、まだ蓋を閉めていない最後の荷物の箱の中に仕舞った。
想い出を反芻しながらゆっくりと手紙に眼を通しているうちに随分と時間が経った様で階下から人の動き出す物音が聞こえ始めていた。
早朝の帝劇は厨房の中の食器を動かす音やロビーや廊下のカーペットに蒸気掃除機がかけられるモーター音が鈍く響き渡るのから始まる。
間もなく二階でも早起きな隊員室から洗面台を使う音が配管を伝わって聞こえてきたり、いつまでも鳴り続けている目覚まし時計がやっとの事で止まったり、ドアの開け閉めの音が聞こえ実に賑やかだ。
そのうちに階段を降りて行く足音が聞こえる。
あの軽快なフットワークは軽く朝飯前の鍛練を済まそうというカンナのものだ。
マリアの部屋は一番階段に近い側にあるので人の昇り降りする物音が良く響く。
いつの間にか足音だけで誰が昇り降りしているか判る様になった自分を、以前アイリスに読んでやった本に出てきた「レイチェル・リンド夫人」の様だと苦笑した。
そう思いつつもあたりまえの様に毎日聞き続けてきたそんなざわめきが明日からは聞けないと思うと胸の辺りを熱いものが込み上げて来る。
自分が随分感傷的になっていると思いながらも流れる涙を止める事はできなかった。
数日前の事。
マリアの部屋でヘッドドレスの仕上げを皆でしている時にアイリスが突然泣き出した。
「マリア……えっ……えっ……、うえ〜〜〜ん。」
マリアが長さを確かめる為にヘッドドレスを被ったとたんだった。
アイリスは泣きじゃくりながらマリアに抱きついてきた。
「え〜〜ん、マリアぁ。行っちゃ嫌だよぉ……。」
「馬鹿だなぁ、アイリス。何泣いてんだよ。」
そう言いながらアイリスを諭すカンナの瞳も潤んでいた。
「そうよ、アイリス。今から泣いてちゃ本番のブライドメイドが勤まらない……うっ。」
「さくらはん、あんたまで何やねん。」
紅蘭が口を開いた時にはすでにさくらも涙ぐんでいた。
「もう、まったく何ですの?お祝い事だと言うのに……。」
すみれはそう言い捨てるとプイと横を向いた。
それから急に立ち上がるとドアに向かって歩きながらわざと大きな声で言った。
「わたくし、お茶を入れてまいりますわっ。」
すみれの言葉を有り難く思いつつアイリスに抱きつかれたまま、マリアはうつむいて涙を堪えるのが精一杯だった。
あの時は人前だった事もありなんとか涙を堪えたが今一人で自分の部屋に居るとやはり我慢出来ない。
感傷に浸る涙の心地よさにしばらく陶然としていた。
その時聞き慣れた足音が階段を登って来るのが聞こえた。
マリアははっとして急いで涙を拭うとドアへ向かった。
階段を登って来た足音がマリアの部屋の前で立ち止まるのと、マリアがドアを開けるのが同時だった。
大神は一瞬面喰らった表情を浮かべたが直ぐにそれ以上の嬉しさを隠しきれない様子で微笑んだ。
「おはよう、随分早起きだったんだね。」
「おはようございます。ふふ、こんな時間にやって来る大神さんのほうが早起きですよ。」
大神を部屋の中に招き入れながらマリアはくすくすと笑った。
「それともまだ寝ていたほうが良かったのかしら?」
「おいおい、意地悪だなぁ。」
「冗談ですよ、大神さん。御両親は?」
「お袋やアネキ達は朝早くからホテルの美容室で髪のセットやら着付けやらが有るとかで男は邪魔だと追い出されてきたんだ。」
そう言いながら大神は壁にかかっている白いドレスに視線を移した。
「ごめん、マリアこそ忙しかったんだよね。」
「大丈夫です。支度は夕べのうちに済ませてありますから後はかえでさんに手伝って貰って着替えるだけです……。」
「いよいよだね。」
「はい……。」
俯いて答えるマリアの声が消え入りそうな程小さかった。
「マリア、でもその前に、お誕生日おめでとう。」
そう言うと大神はマリアの手を取って続けた。
「あ……、ありがとうございます……。」
(1999・6・11完)