北国の小樽は昔から貿易港として栄え、商業都市として北のウォール街とまで言われた街だ。
しかし長期に渡る海運業の停滞ですっかり寂れ、かつての栄華の名残の運河と石造りの倉庫群と少しばかりの誇りだけが街に取り残されていた。
その街に観光地としての新たな付加価値が与えられ、古い街並みと運河、ガラス工芸を目的に多くの観光客が訪れるようになってから久しい。
更に言えば、港には今だに僅かながら貿易船も入港しているので、外国人の姿を街中で見かける事も珍しく無い。
実際、いちろうの通っている商科大学にも毎年数名の留学生が各国から勉学の為に来ている。
小樽へ向かう列車の中で外国人女性と相席になるのもそれほど特別な事では無いはずだった。
「窓、開けてよろしいですか?」
一つ目のトンネルを抜けるとすぐに進行方向に向かって腰掛けている彼女が突然話しかけて来た。
正確なアクセントの流暢な日本語が低い落ち着いたそしてちょっとハスキーな声で語られる。
「えっ?あ、ああ構いませんよ。開けましょうか?」
本を座席の上に置くといちろうは慌てて返事をし、立ち上がって客車の窓の鍵を開けようとした。
すでに鍵に手をかけていた彼女がいちろうの言葉に応じてその手を引っ込めようとした時、ほんの一瞬二人の手が重なった。
「あっ……。」
その瞬間、いちろうの脳裏を懐かしさがよぎった。
一瞬にして消えてしまったビジョンに掴みきれないもどかしさを覚えながらも、とても大切な忘れ物に気付いたような感覚だけは残った。
「あの……、前に何処かでお逢いした事が有りませんか?」
言ってしまってから自分の言葉が、ナンパな男が女性を誘う時の陳腐な台詞とまったく同じだった事に気付いた。
「あ、いや……その……。」
いちろうは彼女の顔を正視出来ずに口ごもりながら、思いっきり力を込めて窓を大きく開け放った。
初夏の潮風が一気に吹き込んで来て彼女の髪が風を含んで大きく揺れた。
笑みを浮かべながら彼女が答えた。
「ふふっ……、残念ながら人違いでしょう。お逢いした事はありませんもの。」
そう言うと彼女はまた先程と同じように頬杖をつき潮風に髪を嬲らせながら眼を細めてじっと海を見つめ始めた。
自分の間の抜けた質問と取りつくしまの無い彼女の態度に赤面しながらいちろうはまた本を開くと膝の上に乗せた。
それから小樽駅に列車が入るまで、やはり何処かで彼女と逢った事が有るのではないかという考えが頭を離れなかった。
札幌から通学している学生達は列車が着くと大学までタクシーを相乗りして登る。
いちろうの学生時代から変らない商大生達の習慣だった。
数年前からバスが大学の坂の上まで登る様になったのだが、やはりこの方が楽なのだろう列車が入るのとほぼ同時にタクシー乗り場に学生の行列が出来る。
このタイミングを外すと一人でタクシーに乗らなければならないのでいちろうも駅に入る前に降り口へ向かった。
席を立つ時に彼女に軽く会釈をしようとしたが、外を眺めている彼女の視界から自分が完全に外れているのに気付きそのまま後髪を引かれながらも立ち上がったのだった。
改札を抜ける時に多分後を歩いているだろう彼女の姿をもう一度見たくて、いちろうは振り返った。
丁度その時ホームから改札に続く階段を降りて来た彼女といちろうの眼が合った。
振り返るいちろうの姿が駅舎の窓に飾られた数十個のガラスランプのホヤが乱反射する光りと重なりながら去って行くのを見て初めて、彼女の瞳が大きく見開かれ唇が何か話しかけるように開いた。
「…待って、あの、待って下さい!」
叫ぶように彼女が声をかけて来た。
「せ〜〜〜んせいっ!今日はもうお終いにしましょうよおっ!」
ゼミの中でも一番明るくて元気の良いエリがちょうど一段落着いた所で叫んだ。
他のゼミ生が同じ事を言ったらきっと一蹴してしまうのだろうが彼女の鶴の一声には教授もぐうの音が出ない。
仕方無いなぁといった表情で教授がテキストを閉じると彼女が更に追い打ちを駈ける様に続ける。
「お腹すいたぁ〜〜〜。先生、どっか食べに行きましょうよ。」
「おいおい。」
「先生、この間次はご飯連れて行ってやるって言ってたじゃないですか。約束ですよぉ。」
「エリには勝てないなぁ、じゃ、降りるとするか。準備が出来たら玄関に居るからな。」
教授はそう言うとゼミ室から出て行った。
「やったぁ!」
学生達は口々に叫ぶと片付けを始めた。
「いちろうセンセも行きますよね、じゃ全部で8人だから予約入れときますね。」
言うが早いか作田が携帯を取り出した。
「あ、スマン今日はちょっと付き合えない。札幌戻らなきゃならないから。」
思いがけずゼミが早く終わったのでほっとして腕時計を眺め帰りの列車の時間を算段しながらいちろうは答えた。
「え〜〜〜っいちろうセンセ駄目なのぉ。週末だからデートでも有るのかなぁ?」
ちょっと口を尖らせながらエリが言った。
「知ってますよ、いちろうセンセ。最近幸せらしいって。うふふ。」
エリと仲の良いユミが付け加えた。
携帯をかける作田の口元がニヤリと笑った。
「なんでもねぇ……こないだ運河の所をとっても綺麗な人と歩いてたって。」
「そうそう、スキー部の先輩がね、北一でって言ってたもん。」
「そんなんじゃ無いよ、まったく……。」
憮然とした表情でいちろうは鞄を抱えると研究室へ向かった。
倉庫を改装したガラス工芸館の中で軋む木の階段を登りながら様々なガラス細工をゆっくりと見て歩く。
時々気に入った物が有ったのか、まりあは立ち止まって手に取って見ては元に戻して歩き出す。
アクセサリーが並んでいる所で小さな赤い薔薇が細いチューンの先に下がるイヤリングを見つけて彼女は手を延ばした。
「綺麗……。」
「へぇ、花びらが一枚ずつになってるんだ。」
左手で髪をかきあげると色白のうなじが露になり、耳の回りがほんのり桜色に染まっていた。
チューンを摘むと耳にかざしてショウケースの上に置いてある鏡を覗き込んだ。
「似合うかしら……。」
そう言うとにっこり微笑んでいちろうの方を振り向く。
揺れる赤い薔薇の花びらに光りが反射してまりあの頬に薔薇の影が揺らめいている。
「とても綺麗だ……。」
いちろうが口にした言葉がイヤリングでは無く自分の事を言っているのだと気が付かないまりあはそのまま言葉を返した。
「本当に……綺麗。……昨日札幌の植物園へ行ってきたんです。」
「北大の?」
「駅前の。」
「じゃ北大の植物園だね。」
「小さな薔薇園があって、でもまだ早かったようで蕾ばかりでした。あの、これ包んで貰えますか?」
まりあは側にいた店員に声をかけた。
「あっ……。」
「えっ?」
「いや何でも……。」
怪訝そうな表情を浮かべながらまりあは店員にイヤリングを渡した。
自分がプレゼントしたいという言葉を、しかしついさっき知り合ったばかりなのにという状況を思い出していちろうは飲み込んだ。
まるでずっと昔から彼女の事を知っている様な感覚、それは今朝偶然列車で乗り合わせた時から続いている。
一度は否定されてそのまま別れて行くものとばかり思っていたのを彼女に呼び止められ、街を案内しているだけだ。
そんな自分からいきなりプレゼントなんて失礼だろう。
もう二度と逢わない男性からのプレゼントなんて……。
そう、ここで別れたらもう逢えないだろう。
このまま別れてしまう訳にはいかないと心の奥で何かが警告をしている。
その気持ちが時間の経過と共にどんどんと膨れ上がっていった。
「もし良かったら今度札幌で一番大きな薔薇園を案内してあげましょうか?」
工芸館を出てから札幌へ戻るという彼女を小樽駅へと送りながら意を決したように話しかけた。
突然の申し出だから断られるのは覚悟していたのだが思いがけず返って来たのは了解の言葉だった。
市内を見下ろす高級住宅が立ち並ぶ丘の中腹にその薔薇園は位置していた。
好事家の趣味の薔薇作りが嵩じてついに大きな薔薇園を作ってしまったというだけあって珍しい種類の薔薇まで数多く集められている。
早咲きの薔薇はすでに満開で園内をとりどりの色で艶やかに彩っていた。
「いちろうさん、初めて逢った時に言ったこと……覚えてますか?」
ノースリーブの赤いブラウスに黒のタイトスカート、黒いジャケットを小脇に抱えて先を歩いていたまりあが振り向きながら話しかけて来た。
彼女の耳もとでは先日小樽で買ったイヤリングがゆらゆらと揺れていた。
「初めて……覚えているけれど。」
いちろうは自分があまりにも間が抜けた問いかけをした事を思い出して改めて赤面した。
「あの時……私も改札を出るあなたの後ろ姿を見て何故か同じ事を思ってました。」
「えっ?」
「可笑しいですよね、初めて逢ったのに。でも何か思い出しそうな気持ちで……。」
「……。」
「ふふふ……。」
「やっぱり何処かで逢っているのかなぁ。」
「……いいえ、違うわ。」
妙にきっぱりと彼女は言い切った。
そのまま二人はまた薔薇園の中の小道を黙って歩き出した。
夏至を過ぎて間もなくだったので日没まではまだかなり間があったが、心無しか夕暮れの気配が辺りに漂い始めていた。
「もしかすると、逢っていたのかもしれませんね。」
口を開いたのはまりあの方だった。
「こうやって今一緒に薔薇園を歩いているように……。いつか何処かで。」
まりあはそう続けた後立ち止まって暫く黙っていたが溜め息のように低い声で呟いた。
「薔薇が毎年咲くように愛も繰り返すのかしら……。」
「えっ?」
まりあの言葉がよく聞き取れなかったいちろうが聞き返した。
「いえ、何でもないわ。ごめんなさい。」
「……。ちょっと疲れましたか?随分歩いているから……。」
コンバースのスニーカーで歩きやすい自分の足下にいちろうはついうっかりしていたが、彼女は丘の中腹までローヒールとはいえどもパンプスを履いた足で登って来て広い薔薇園の中を散策していてる。
「大丈夫です。あ、でも喉が乾いて……。」
そう言うとまりあはほっとしたように微笑んだ。
薔薇園の側に自宅が有る作田に薔薇はもう咲き出しているだろうかと訊ねた時、もう少し丘を登ると見晴しの良いバーが有ると付け足しの様に教えてくれた。
「じゃ、もう少し歩きましょう。この上まで。」
そう言うといちろうはまりあを促して薔薇園の出口へと足を向けた。
丘の頂きにあるバーは展望台のような造りになっていてエントランスからエレベーターに乗ると一気に三階まで上がる。
「二名様でいらっしゃいますか?」
エレベーターのドアが開くと待ち構えていたウエイターが声をかけて来た。
いちろうは軽く頷くと案内されるままに三方がガラス張りになった意外と広い店内の一番奥にある席へ向かった。
ピアノだけのシンプルなジャズのスタンダードナンバーが流れる店の中央では数人のグループがテーブル席で軽い食事と会話を楽しめるようになっている。
いちろう達が案内された席は窓ぎわに面して細いカウンターになっていた。
席に着くと眼下に札幌の街並が一望出来る。
少しずつ夕闇が迫って来ている街並には気の早い灯りが点り始めていた。
まりあの前にはキール、いちろうの前にはエクストラが付く程ドライなマティーニが運ばれて来た。
グラスを合わせた後軽くカクテルに口をつけるとまりあの頬が薔薇の花が咲くように色付いた。
「……美味しい。」
そう言ってグラスを置くまりあの仕種を見つめながらいちろうは今日再会してからずっと迷っていた一言をやはり伝えようと心を決めた。
「突然こんな事言っていいのかどうか……。」
「……?」
「初めて逢った時から君の事が……その、気にかかって……好きだと。」
そこまで言うといちろうはマティーニを一気に飲み干した。
まりあは先程より数の増して来た街灯りを眺めながら言葉を繋いだ。
「私……私もあの日からずっと……もしかしたらこういうのを運命というのかしらと……。」
そう言いながらいちろうの瞳を見つめた。
「好きです、初めてお逢いした時から……いいえそのずっと前から……。」
「ありがとう……。」
いちろうはカウンターの上に置かれていた彼女の手に自分の掌をそっと重ねた。
あの日掴みきれずにもどかしく思ったものがこれから始まるのだという事を強く感じながら……。