帝劇の前から蒸気タクシーに乗り込むと、マリアは運転手に行き先を告げた。
「横浜港までお願いします。」
若草色のスカートの下から伸びる自分の足首を見つめていると、妙に不安定な気分にさせられる。舞台のためになら、どんな衣装も平気で着られるのに、なぜこんなに落ち着かないのかしら。フランスへ行っている大神さんから、手紙と一緒にこのワンピースが届いたのは10日程前の事だった。
『マリアに似合うと思う。』
そういえば、昔さくらの衣装を手にしているところを見られたときに、大神さんは私にもっとかわいらしい服を着るように言っていたわ。まさか本気でそう思っていたなんて。
『6月18日、横浜到着の予定。』
そう、今朝はずっと鏡の前で考えあぐねていたのだから。
「お客さん着きましたよ。」 運転手の声で吾に返ったマリアは、支払を済ませると車の外に降り立った。梅雨の晴れ間の青空が港の上に広がる。まぶしそうに空を見上げる彼女の視野の中に、今まさに入港しようとしている外国船がうつった。
大神一郎は、2年間のフランス留学を終え、帰国の途についていた。出迎えの人々で混雑する横浜港の岸壁が近づき、一人一人の輪郭が明確になり始めたとき、彼はそこに麗しく咲き誇る一輪の白百合を見つけた。
船が着岸し、タラップを降りてくる大神を待つマリアは、風がまつわりつく髪を細い白い指で押さえながら微笑んだ。
「ただいま、マリア。」
「おかえりなさい。」
大神の腕の中でマリアは、離れていた時間が一つに溶け合っていくのを感じながら泣き出した。マリアの頬を伝う涙を拭いて大神は荷物の中から、一本のワインを取り出した。
ラベルには、『PRI MARIA』とかかれている。サテンのシーツを身にまとってワイングラスを受け取るマリアの姿は、宗教画の様に美しかった。
「トースト!」
「美味しい。」
「マリアの名前。美しいマリア。」
「ふふふ。違いますよ大神さん。美しい聖母様ですよ。それに・・・。」
「マリア・・・・。」
「私は聖母様じゃないわ。マリアよ。大神さんを愛してるマリア・・・・よ。」
「そう、俺が愛している美しいマリアだよ。」
「あっ・・・。」
マリアの手からワイングラスを取りテーブルの上に置くと、大神は唇を重ねた。絡め合う指と指の間に、吐息を重ね合い、抱きしめ合う。
夏至に近い夜はいつの間にか、暗闇の上の薄い被膜を一枚ずつ取り除いていた。カーテンの隙間から広がる深い青い光が、マリアの寝顔を彩る。大神はマリアの耳元でささやいた。
「マリア、お誕生日おめでとう。」
「ん、ううん。」
「さあ、支度をして。」
「・・・大神さん?」
「出かけよう。」
蒸気自動車の運転席に乗り込むと、大神は何もいわずに走り出した。空が少しずつ明るさを増していく。気まずい訳では無かったのだが、服の礼を言って無かった事に気付いたマリアは、口を開いた。
「あの、ありがとうございます。」
「なんだい?」
「この・・・ワンピース。」
「見つけたときにね、思ったんだ。・・・する時に着てもらおうって。」
「えっ?」
「いや、後で言うよ。」
そのまま、大神は黙っている。蒸気自動車のエンジン音が響く中で、マリアも口を閉じた。心地よい沈黙が続く。このまま道が続く限りいつまでも走って行けたら・・・・。
車を横浜港の岸壁の近くに止めると、大神はマリアより先に車から降りて、助手席のドアを開けた。
「マリア。」
大神が差し出した右手に、マリアは手を差し伸べた。ここは、2年半前に2人で来た場所だった。
「大神さん、ここは・・・・。」
「あの時、ここで俺はマリアの手をとって約束した。でも、フランスへ行っている間に、もっと大切な事に気付いたんだ。」
「・・・・・・・。」
「マリア、俺こそ君に支えられて来たんだって事を、君を失うことがどれだけ恐ろしいかという事を。・・・マリア、いつまでも一緒にいて欲しい。そして、2人がマリアの新しい故郷になっていくように、始めていこう。」
「大神さん・・・・。」
「お願いだよ、マリア・・・・。側にいて欲しいんだ。」
「・・・嬉しい。」
頬を紅潮させながら大神を見つめるマリアの、手のひらの上に小さな箱が載せられた。促されるままにマリアが箱を開くと、彼女の瞳と同じ色に輝く指輪が出てきた。