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水槽と俺

第一回 不条理

 ふと気がつくと、俺はガラス張りの水槽の中に入れられていた。
 周りを見回そうと首を左右に振ろうとすると、視界がわずかに揺らぐ。 首を振ろうとして胴体までよじってしまったので、水槽に張られた少し濁った水が 揺れたのだ。
 そんな俺の動きに、反応して動いた個体があった。そいつは、水槽の外にいて 俺より大きな身体を持っていた。その個体は、傍らにいたもう一つの個体に何やら 喋りかけている。しかし、そんなことは俺にとってはどうでもいいことだ。

 それにしても、なぜ俺の首は回らないのだ? なんとか首を回そうと多少の 努力をしてみたが、そうするとなぜか身体全体までもが向きを変えてしまう。 狭い水槽の中でかなりのオーバーアクションをしてしまったために、水槽の底に 沈んでいた埃が舞い上がって、視界が悪くなってしまった。上方では、水面が 波を打っている。
 落ち着け。なぜだ。なぜこんなことになっているのだ。落ち着くんだ。 そうだ。こんなときには深呼吸だ。俺は息を深く吸い込もうと、えらを大きく 開いた。

 えら? えらだと。なぜ俺は、ここでえらなどという単語を思い浮かべたのだ。 深呼吸をするなら、普通は口から空気を吸うべきではないのか? いや、違う。 そもそも空気などどこにあるというのだ。俺の周りにあるのは、ついさっき俺が 濁してしまった水槽の水だ。そして空気は、水面の向こう側と、ガラスの向こう側 にあるのだ。どういうわけだ。俺は、空気を吸わなくてもいいのか。苦しくはない。 えらで呼吸をしているからだ。

 なぜ俺にえらなどというものがついているのだ。俺はついに魚になってしまったのか。 首が回らなかったのは、実は首などという部位は俺という生き物には存在せず、頭部と 胴体がダイレクトに繋がってしまっているからなのか。
 俺が魚。俺が魚に! ああ、なんということだ、俺が魚に!

 俺はとりあえず、この事態を受け止めることにした。俺には魚として生きてきた記憶 はない。だいたい、魚にこんなことを考える知性があるだろうか? そうだ。 俺は人間だった。この水槽の外にいる奴等と同じだった。ということは、これは 夢だということだ。そうだ、これは夢なんだ。これは夢なんだ、そのうちきっと目が覚めて いつもの日常に戻るに違いない。そして俺は、いつもの時間に起きて、いつもの時間に 学校に行き、くだらない授業で無益な時間を過ごして、周回魚のように再び俺の家に 戻ってくるのだ。晩飯を食べて、風呂に入り、テレビを見て、観葉植物がストレスに耐える ように一日を過ごすのだ。

 そうか。夢なんだ。だが、惜しいことをした。俺が本当に魚だったら、もう学校にも 行かなくてもいいし、将来のことを考えなくてもいいし、煩わしい人間どもとも共生 しなくていいというのに。水槽の中には、社会はない。俺はここで孤独に、人間に与えられた 餌を甘んじて貪り、飼育される平穏な余生を過ごすのだ。

 それにしても、これは夢だとしても、ここはいったいどこなのだろうか? 水槽の外は、 白い壁に覆われた四角い部屋だった。その中に、二人の白い服を着た人間が何やら話を している。興奮しているのだろうか、しかし、俺は魚なので人間の表情の意味は分からない。

 しかしこれは、ずいぶんと長い夢だ。いつになったら目覚めるのだろう。この程度 のリアルさの夢は、今までにも見たことがないわけではない。しかし、俺は少し不安に なってきた。何かきっかけがあれば、目覚めることができるだろうか。とりあえず俺は、 全力で水槽のガラスに体当たりをかましてみた。
 体当たりを慣行すると、予想以上の激しい衝撃が返ってきた。水は激しく揺れ動き、 水面は波打ってその水が水槽の周りにビシャビシャと零れ落ちる。水はしばらく揺れ続け、 俺は自分のしたことの成果に動揺していた。動揺しているのは、俺だけではなかった。 白衣を着た研究員らしき人間二人は目を大きく見開き、二人揃って俺のことを凝視している。 白衣? 研究員? いいぞ。どうやらだんだん、人間としての思考能力が回復してきて いるようだ。こんな人間社会の常識が、魚などに分かるわけがない。やはり俺は、人間 だった。

 それなのに。それなのに、なぜ俺は目覚めることができないのだ? 畜生、これは 夢なんだ。いい加減にしてくれ。もうこんな夢には飽きた。俺は魚なんかじゃない。 違う違う、違うんだ。俺は魚なんかじゃない。俺は夢から覚めることができないだけなんだ。 母さん、何をやってるんだ。早く俺の部屋に入ってきて、俺を揺り起こしてくれ。 不良債権のニュースを見ながら弁当を作っている場合じゃないんだ。夢だと分かってる のに、俺は自力じゃ起き上がれない。このままでは、俺は本当に魚として一生この狭苦しい 水槽の中で生きていかなくてはならないんだ。誰でもいい、誰か俺を起こしてくれ。

 気がつくと、水槽の外にいた研究員もいなくなっている。いつの間にいなくなっていたんだ、 俺の許可もなしに。これは俺の夢なんだぞ。俺の夢なのに、どうしてドアを開きっぱなしに して部屋から出ていってしまったんだ。こういう場合は、大抵死にそうな目にあって目が覚める んだ。例えば、あいつらは板前で、俺は水槽の中から捕まえ出されてまな板の上に 乗せられるんだ。そうしたら俺は絶叫して、嫌でも目が覚めるというパターンが普通なんだ。 それなのに、あいつらはどうしてセオリーを無視して俺を放って部屋から出てしまったんだ。 このままでは俺は目覚めることができない、誰か俺を起こしてくれ。早く俺を起こしてくれ。

つづく

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