ボイラー室へ

自作小説集へ

水槽と俺

第二回 悲しみにたえない光景

 俺が自分のことを魚だと認識してから、いったいどのぐらいの時間が経過 したのだろうか。すでに俺は、何の違和感もなく精神的に、今の自分の肉体を受け入れる ことに成功していた。自分が魚である、そのことはもうどうでもいい。
 魚になってしまったことは俺に責任があるわけではないし、たいした問題 じゃない。そう、そんなことは元々たいした問題じゃなかった。
 こうして魚の視点になってみると、人間だった頃に動かしていた肉体が 懐かしく感じられる。魚になったことはたいした問題じゃない。
 問題は、俺が何であるかということより、なぜこんな水槽に入れられている のか、ということだ。

 いつしか俺は、不快で、奇妙な安らぎを覚えていた。尾を振ると、水槽の底の 泥が跳ね上がり、ゆらめく透明と汚濁のコントラストがまどろみを誘う。
 その向こうに部屋の窓を見ると、白いカーテンが風に煽られ、その光景に俺は 空気の動き、風の涼しい感触に懐かしさを覚える。窓の向こうには鮮やかな青空 が広がり、俺の目には精神的にも物理的にも眩しく映る。白い雲が、飛行機雲の ように細長く青空を横切っていた。
 こういう不快なまどろみは、前にも味わったことがある。いや、それどころではない。 不本意にも、こういう感覚に浸りきることが、当たり前な俺の日常だったのだ。





「…何、思い出し笑いしてんのよ。恥ずかし〜」

 唐突に、俺は内容を暗記するほど読み込んだ漫画の、頭脳内での再生を中断 させられる。
 声をかけてきたのは、隣の席の野山秋絵だ。こいつは実に鬱陶しい女で、 俺の授業中の唯一の楽しみ、少しでも時間の流れを早めるために行うイメージ トレーニングを、頻繁に邪魔される。授業中は時間の流れが異様に遅くなる ので、こういう風に時間を忘れるための逃避行動をとらなくては、精神的におかしく なってしまうのだ。
 だいたい、この野山秋絵は失礼な女だ。人の思い出し笑いを指摘するなど、 人の心に土足で踏み込むことと等しい。プライバシーの侵害ではないのか?

 まあいい。この恐ろしく退屈な状況では、人の表情を眺め回して観察するぐらい しかすることがなかったのだろう。その証拠に、こいつも授業など全く聞いて いる様子はないし、ノートにも黒板の最初の一行しか書かれていない。
 考えてみればこいつも、人の行動を観察して何か発見したら噂を振りまくしか 退屈しのぎの手段を持たない、哀れな女だ。

 気分を著しく害した俺が、気分直しに窓の外を眺めると、晴れ渡った青空に 一本の筋雲がかかっている。飛行機雲には似ていないが、もしあれが飛行機雲 だったなら。俺は新たな妄想を開始する。

 成層圏を飛ぶ攻撃機。この学校のこの教室がロックオンされ、ミサイルが 発射される。ミサイルは軌道修正を繰り返しながら、この教室に猛烈なスピードで 迫ってくる。着弾し、一瞬で教室は爆発に吹き飛ばされる。俺達は何の苦痛も無く 地獄行きだ。
 このことは社会的な大事件として報じられ、生徒諸君の家族の嘆き悲しむ姿も もちろんマスコミは見逃さない。いじめ、自殺、バタフライナイフのような 中高生に対するマイナスイメージは一時的に忘れられ、俺達は晴れて哀れな 犠牲者という地位を手に入れる。何の問題もない。

 俺は、妄想を終えてふと、現実に立ち返る。時計を見ると、授業時間はまだ五分ほど 余っている。おれはデスペレートな敗北感を味わい、机に突っ伏した。

 勝ち目はない。
 引き分けもない。
 途中で降りることもできない。

 そんな絶望的な水槽の中で、俺達は飼われていたのだ。

つづく

自作小説集へ

ボイラー室へ