俺が自分のことを魚だと認識してから、いったいどのぐらいの時間が経過 したのだろうか。すでに俺は、何の違和感もなく精神的に、今の自分の肉体を受け入れる ことに成功していた。自分が魚である、そのことはもうどうでもいい。
魚になってしまったことは俺に責任があるわけではないし、たいした問題 じゃない。そう、そんなことは元々たいした問題じゃなかった。
こうして魚の視点になってみると、人間だった頃に動かしていた肉体が 懐かしく感じられる。魚になったことはたいした問題じゃない。
問題は、俺が何であるかということより、なぜこんな水槽に入れられている のか、ということだ。いつしか俺は、不快で、奇妙な安らぎを覚えていた。尾を振ると、水槽の底の 泥が跳ね上がり、ゆらめく透明と汚濁のコントラストがまどろみを誘う。
その向こうに部屋の窓を見ると、白いカーテンが風に煽られ、その光景に俺は 空気の動き、風の涼しい感触に懐かしさを覚える。窓の向こうには鮮やかな青空 が広がり、俺の目には精神的にも物理的にも眩しく映る。白い雲が、飛行機雲の ように細長く青空を横切っていた。
こういう不快なまどろみは、前にも味わったことがある。いや、それどころではない。 不本意にも、こういう感覚に浸りきることが、当たり前な俺の日常だったのだ。
「…何、思い出し笑いしてんのよ。恥ずかし〜」唐突に、俺は内容を暗記するほど読み込んだ漫画の、頭脳内での再生を中断 させられる。
声をかけてきたのは、隣の席の野山秋絵だ。こいつは実に鬱陶しい女で、 俺の授業中の唯一の楽しみ、少しでも時間の流れを早めるために行うイメージ トレーニングを、頻繁に邪魔される。授業中は時間の流れが異様に遅くなる ので、こういう風に時間を忘れるための逃避行動をとらなくては、精神的におかしく なってしまうのだ。
だいたい、この野山秋絵は失礼な女だ。人の思い出し笑いを指摘するなど、 人の心に土足で踏み込むことと等しい。プライバシーの侵害ではないのか?まあいい。この恐ろしく退屈な状況では、人の表情を眺め回して観察するぐらい しかすることがなかったのだろう。その証拠に、こいつも授業など全く聞いて いる様子はないし、ノートにも黒板の最初の一行しか書かれていない。
考えてみればこいつも、人の行動を観察して何か発見したら噂を振りまくしか 退屈しのぎの手段を持たない、哀れな女だ。気分を著しく害した俺が、気分直しに窓の外を眺めると、晴れ渡った青空に 一本の筋雲がかかっている。飛行機雲には似ていないが、もしあれが飛行機雲 だったなら。俺は新たな妄想を開始する。
成層圏を飛ぶ攻撃機。この学校のこの教室がロックオンされ、ミサイルが 発射される。ミサイルは軌道修正を繰り返しながら、この教室に猛烈なスピードで 迫ってくる。着弾し、一瞬で教室は爆発に吹き飛ばされる。俺達は何の苦痛も無く 地獄行きだ。
このことは社会的な大事件として報じられ、生徒諸君の家族の嘆き悲しむ姿も もちろんマスコミは見逃さない。いじめ、自殺、バタフライナイフのような 中高生に対するマイナスイメージは一時的に忘れられ、俺達は晴れて哀れな 犠牲者という地位を手に入れる。何の問題もない。俺は、妄想を終えてふと、現実に立ち返る。時計を見ると、授業時間はまだ五分ほど 余っている。おれはデスペレートな敗北感を味わい、机に突っ伏した。
勝ち目はない。
引き分けもない。
途中で降りることもできない。そんな絶望的な水槽の中で、俺達は飼われていたのだ。