ボイラー室へ

自作小説集へ

水槽と俺

第三回 なぜ俺がこんなことを?

 いつしか、窓から見える限られた小さな空は、夕焼けによって赤く染め上げられていた。
 未だに信じ難いことだが、俺は現在に至ってもなお、水槽の中で一匹の魚として 生き続けている。この夕焼けは俺にとっては、時間の経過を情け容赦無くリアルに告げる、 残酷な景観として目に映った。俺の絶望感を表現しているとしか思えないほどに、 禍禍しい夕焼けだ。

 それにしても、水中から見た夕焼けというものはこうも不気味なものなのだろうか? 俺には、まるで夕焼けの空が、太陽という傷口から血を流しているように見えた。 そしてその血は、あたかも排水溝に流れ込むように、俺のいる水槽に注ぎ込まれているのだ。
 ふと、俺は周りの水が本当に血に染まってしまったのではないかと錯覚し、気分が 悪くなった。心を、恐怖が支配する。感情が逆流する。狂気が連想される。殺意が向けられている。

 そして俺は、思い出すのだ。あいつの存在を。





「あのさあ、あんたん家、リモコン余ってなかったっけ?」
「はぁ?」

 授業中だというのに唐突に声をかけてきたのは、またしても野山秋絵だ。
 このとき俺は、社会科の教科書の人物写真に落書きをしたり、文章の語尾という 語尾に『(笑)』を書き足したりして暇を潰していた。

「リモコン? リモコンがどうかしたか?」
「だからさぁ、家のビデオのリモコン、電池変えたばっかなのになーんか調子悪いのよ。 あんたん家、学習リモコン余ってたら、ちょっと貸して欲しいんだけど」

 要するに、こういうことらしい。確かに俺の家には、ビデオを買い替えたときに余った 学習リモコンがある。秋絵の家のビデオのリモコンの調子が悪いので、他のリモコンで 試してみたいんだそうだ。
 昔は、別にリモコンの調子が悪くても本体で操作すれば 何も困ることはなかったのだが、最近のビデオは本体だけでは基本的な機能しか 使えないものが多く、リモコンなしではタイマー設定をすることすらできない。
 もしもリモコンをうっかり足の裏で粉砕したり、うっかりペプシコーラをこぼしたり、 うっかり公衆電話に置き忘れて紛失したりしたら、もう二度と予約録画をすることは できず、いちいち番組をリアルタイムでチェックして、時計を凝視しながら神経を すり減らして録画ボタンを押すハメになってしまうのだ。
 メーカーは、いったい何を考えているのだろうか? 本来オプションにしか過ぎない リモコンに機能を依存した不完全な製品を、消費者に売りつけるとは!

「ふうん。じゃあ明日学校に持ってきてやるよ」
「あー、ダメダメ。今日家に持ってきて。録りたい番組、今日の、ていうか 明日の午前だから」

 なんと横暴な女だ! さして親しくもないこの俺に、この程度の用事でこいつの 家まで出向けというのか? 深夜番組の録画ぐらい、歯を食いしばってリアルタイム でやりやがれ。



 結局俺は、パックのコーヒー牛乳一つ(80円)であいつの家までリモコンを届けて やることになった。自分の不甲斐なさに涙が出る。一度帰宅した後、くだらない用事で もう一度外出することがどれほどの苦痛を伴うと思っているのか。例えるなら、せっかく 疲れて帰宅したというのに、回覧版を隣家に届けなくてはならないときの心境だ。

 秋絵の家に着いた。ドアを開けつつブザーを押す。
 俺は、秋絵にリモコンを渡したら、早々に立ち去るつもりだった。ところが、このときの 俺は知らなかった。この呆れ返るほどくだらない用事でこの家を訪れたことによって、 まったく思いもよらなかったような事態に遭遇することになろうとは!

「あ、来た来た。ちょっと遅かったねぇ」

 玄関に、秋絵が現れる。なぜか、いつもと変わらぬ様子だった。その右手には、 血塗られたナイフが握られていたというのに。

つづく

自作小説集へ

ボイラー室へ