「おいっ! なんだそのナイフはっ!?」俺は、驚愕の眼差しで秋絵が持っているナイフを見ていた。その刃渡り15センチほどの ナイフには、おそらくつい先程まで誰かの体内を流れていたであろう新鮮な血液が、ポタポタと 滴っていたのだ。
「ああ、これ?」
秋絵は自分の手にしたナイフを見ながら、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
俺はその態度を見て一瞬、秋絵がふざけているのではないかと思った。これは ただ単に俺を驚かせるための悪戯なのだと。いや、そうに違いあるまい。
もし本当に秋絵が人を刺していたのだとしたら、俺はどういうリアクションを すればいいのか咄嗟に思いつかなかったので、この一瞬でとにかくそう決めつける ことにした。「いやあ…まあ、信じらんないだろうからさあ、ちょっと上がってくれない?」
瞬間、俺は言われなき不安を覚えた。いったい、俺は秋絵に何を見せられようと しているのだ? 例えただの悪戯だったとしても、いや、それならなおさら直ちに この場から立ち去りたい。だが、同時に『よせばいいのにどうして俺は』と言わんばかり の好奇心と、妙な期待感から、俺は秋絵の家に上がり込むべく靴を脱ぎ、一歩を踏み出した。
このときの俺は、今はまだいつも通りの日常なんだと、信じていた。
そこに横たわっていたのは、紛れもない死体であった。
死んだ直後の人間を見るのは、これが初めてだ。いや、殺された直後というべきだろうか。 その死体はみぞおち付近をかなり深く刺されたらしく、傷口からはおびただしい量の血が噴出 していた。
目はカッと見開かれ、目線などというものは失われたらしく、どこにも向けられては いない。これが噂に聞く、瞳孔が開いているという状態なのだろうか。俺は、自分の背筋を ゾクゾクと何かが這い回るのを感じている。
これは明らかに悪戯などではなく、疑う余地のない本物の死体だった。あまりにリアルな この物体を眺めながら、俺はかつてない興奮に襲われていた。「お前がやったのか?」
俺は秋絵に聞いてみる。たぶん、何かを期待していた。
「そう…なんだけどさぁ、うーん、いやまあ、ついうっかりねぇ」
手を頭の後ろにやって、愛想笑いを浮かべながら答える秋絵。
あまりに緊迫感のない返答に、俺の心に再び悪戯なのではないかという疑念が渦巻いた。「うっかりって…お前なぁ」
「いや、最初に白井君がね」ちなみに『白井君』とは、ここに倒れている死体のことだ。確か隣のクラスの奴で、 秋絵の彼氏という話を聞いたような記憶がある。まあ、どうでもいいことなんだが、 たぶん明日の学校では『大変残念なお知らせがあります』という話がされて、 授業もある程度潰れるだろう。ちょっと楽しみだ。
「『最近買ったんだ』とか言って、ナイフを出してきたのよ。それであたし、 『へぇ、貸して貸して』とか言って、その辺にあるもの切って遊んでたのね」
遊ぶなよ。そういえば、確かにその辺にある雑誌が切り刻まれているようだが。
「それであたしちょっとふざけて、『あなたを殺して私も死ぬわ』とか言って、 こう胸元にナイフを当てて笑ってたのよ」
「俺の胸元に向けるな! ナイフは置いて話せ!」まったく無神経で常識のない女だ! こいつはきっと、ハサミを手渡すときに 刃の方を向けて渡すタイプに違いない!
「あ、ゴメンゴメン、またやっちゃうとこだった」
「やめろ! 『また』って、お前それでついうっかり刺したのか!?」
「そうよ。ついうっかり、サクッと」『サクッと』じゃないだろが。
「なんかこう、もっともらしい理由が欲しいな。俺としては」
「うーん…そういえば、電波がピピッと来たような」
「お前、言ってることは大丈夫か?」まあ、もはやこいつの場合どこを取っても大丈夫ではないだろう。
「あははっ。変だよねぇ」
「警察に連絡しよう」なぜか急に冷静に対処しなくてはならないような気がしたので、俺は 部屋にあるはずの電話を探すことにした。
「ちょっ、ちょっと待ってよ! そんな今すぐ電話するわけぇ!?」
慌てふためいて俺の行動を邪魔しようと腕をつかむ秋絵。そういえばこいつ、 返り血を浴びてるんじゃないのか?
…やはり大したことはないものの、手が汚れている。くっ! 本当に救いようの ない奴だな、こいつは!「放せ! あーあ、血ィついちまっただろが! とにかく、警察だ、警察! 電話どこだ!?」
秋絵はムスッとした表情で、電話を指差した。
「おお、こんなところに」
「あのねぇ! ちょっと冷たいんじゃない!? 普通、そんなすぐにクラスメイトを警察に 突き出そうとするぅ!?」
「いや、俺はぜひともお前を警察に突き出してみたいぞ」俺はつとめて冷静に、本心を述べた。