ボイラー室へ

自作小説集へ

水槽と俺

第五回 前向きにポジティブに

 ああ! まさか俺の人生で、こんなエキサイティングな事態に関われる日が 来ようとは! ぜひともこいつを警察に突き出して、なぜか俺も一緒に疑われて署に 拘留されて、状況証拠から判断して疑いが晴らされて、だがしかし謝りもしない刑事に 悪態を突きながら釈放されてみたい!

「…なんか、すごく楽しそうね」
「いや、そんなことはない。クラスメイトがこんなことになってとても残念だ」
「…冷静に無表情に涼しげに言わないでね。そういうことは」

 秋絵のシッコミを無視し、俺は受話器を持ち上げた。

「ちょっと、マジでお願い! ちょっと待って! いっしょーのお願い!」

 秋絵は両手を合わせて俺に頭を下げた。別にお願いを聞いてやる義務はないし、 こういう場合直ちに警察に連絡するのが人として正しい行為だと思うのだが、多少 気分的にハイになって寛大になっていた俺は、少しだけ秋絵に付き合ってやることにした。

「あのなあ…殺人だぞ、殺人。日本の警察から逃げられるとでも思ってるのか。 あきらめろ。ここで俺が黙ってても、そのうち」
「そんなことは分かってるわよ!」

 急に秋絵が怒鳴ったので、沈黙させられてしまった。…やはり、すぐに警察に 電話するべきだった。

「…あのさあ…あたし、なんかちょっと変じゃない?」
「すごく変だと思うぞ」

 反射的に、何の工夫もない平凡な答えを返してしまう俺。

「…ま、まあ、それは認めるけどさ…なんかあたしさあ、今、全然罪悪感ないのよ」

 …罪悪感? そういえば、確かに人を殺すということはもっと大変なことだと いうイメージは、漠然とあった。

「普通人殺したら、もっと気が変になっちゃったり、泣き叫んだり、ガタガタ震え出したり するもんじゃない? ドラマとかじゃ」

 …ふむ。確かに秋絵の様子が普段とまったく変わらないもんだから、俺もそれに 引きずられて、道徳観念というものがマヒしていた嫌いがあるかもしれんが。

「あたし、今のまんま警察に捕まっても、『いやー。つい殺しちゃいましたぁ。お巡りさん、 ご苦労様ですぅ』とか言っちゃいそーなのよ! なんか遺族の人にも印象悪そうだし、 『反省が見られない』とか言われて、罪も重くなりそうじゃない!?」

 いや…殺した時点で、遺族の印象は最悪なような気もするが…。

「俺は、精神異常者扱いされて病院送りになると思うな。お前の場合」
「あっ、そっちの方がなんか楽そう」

 喜ぶなよ。

「…じゃなくて。もっと真面目に考えよう。うん。…というわけで、もうちょっと 気分的にブルーになって、いかにも人を殺しちゃいましたって暗い気分になってから、 ちゃんと警察に自首したいのよ! あたしは! お巡りさんに、粗相のないように!」

 ほほう。ま、秋絵も実際に警察に捕まってみれば事の重大さに気づくと思うが、 こいつが警察に捕まるシチュエーションを演出するというのも面白そうだ。

「なるほど。つまり、『人を殺して罪悪感を感じている』と思わせたいわけだな?  周りの連中に」
「そういうこと。けっこう物分かりがいいじゃない」

 お前が悪すぎるんだよ。
 だが、ここでツッコミを入れていたのでは話が進まない恐れがあるので、 俺は速やかに今考えた即席のプランを述べることにした。

「じゃあ、手首を切って自殺未遂というのはどうだ。演出として」
「自殺未遂ぃ? うーん…暗いなぁ…」
「暗い気分になりたいんだろーが!? お前は!?」
「そうだけど…」

 まったく、世話の焼ける奴だ! だんだん、電話の受話器に手を伸ばしたくなってくるぞ。

「でもさあ、手首切ったら痛そうじゃない?」
「切り方を間違えなければ、そんなに痛くないらしいぞ」
「正しい切り方って、どうやるの?」
「知らん。考えろ」
「あー、ひっどーい! 真面目に考えてなーい!」

 いい加減にしろ! 自殺未遂をなんだと思っているんだ!

「とにかく、やるんだよ! 頃合いを見計らって俺が様子見に来るから!  それで俺が警察に通報する、OK?」
「…嫌だなあ…」
「おっ、だんだん暗くなってきたんじゃないか?」
「えっ、そう?」

 秋絵は、パッと顔を輝かせる。…いや、だから、輝かせるなって。

「ほれ、どうせだからそこのナイフで切れ。演出的には風呂場で、浴槽に水張って ってのが。美しさを追求するなら、全裸に」
「裸はヤダからね!」

 …ちっ。まあいい。本人もやる気になっているみたいだし。とにかくこれはこれで、 なかなか面白いイベントだった。俺は一生この日を忘れることはあるまい。 久しぶりにかなりの興奮を味わわせてもらった。今日という日は、人生の宝物だ。

 俺が感慨にふけっている間にも、秋絵は早速行動に移ろうとしていた。 ナイフを、取ろうとしているのだ。このとき俺は、今までの秋絵らしからぬ 行動の早さに、妙な違和感を感じた。
 秋絵はナイフを手に取る。その一瞬。
 何かが、ざわりと俺の背中を撫でて、頭の先を抜けていったような気がした。

 今のは、いったい? 俺は思わず動揺していた。だが、秋絵は俺には目もくれずに、 風呂場に向かって歩き出していた。

「行ってくる」

 秋絵は、ただその一言を残し、風呂場へと姿を消した。

 …いったい、なんだったのだ? 俺は考える。いや、考えようとしていた。 しかし、思考がまとまらない。いや、違う。そうじゃない。
 これはまさか、意識が遠くなっていってるんじゃないのか? そんなはずはない!  なぜ急にこんなことが? だが、意識は俺の意志に反して急激に精神への支配力を 弱めようとしていた。何か、巨大なものに飲み込まれていくような錯覚を覚える。
 唐突に、何十羽というカラスが泣き喚きながら飛び立っていく羽音が聞こえた。 その羽音に注意を逸らされた瞬間、俺の意識が向こう側に持っていかれそうになる。
 くそう! 気をしっかり持て! そのとき、俺の足の甲に何かが落ちた。 それは、赤い点に見えた。
 そして次の瞬間にはそのことすら忘れ、俺は床に倒れ付し、今頃になって、 そういえば俺はリモコンを持ってきただけだったのに、と考えていた。




 俺は目を覚ました。俺は、鼻血を流していたのだ。床を汚している赤黒いものを 見て、そう考える。とりあえず起き上がってみた。すると、傍らにどこかで見た ような死体が転がっているのに気づいた。
 …そうか。俺は今までのことを思い出した。部屋にあったティッシュで、鼻血を 拭いながら考える。
 そういえば、秋絵はどうなったのだろうか? 俺は時計を見る。
 あれから、30分が経過していた。なぜ俺は、鼻血なんか出して倒れてしまったのだろう。 ついさっきまでの強烈な体験が、霧の中の幻のように心に薄く残っている。
 俺はぼんやりとした意識のまま、あまり考えずに風呂場の方に歩いていく。
 風呂場の戸を開け放ち、そして、





 いつしか、夕焼けは終わっていた。徐々に深まっていく闇に、俺は死を連想する。 赤く染まっていた水槽の水は再び残酷なほど透明になっていき、その光景はまるで命の 黄昏のようだった。
 太陽は短い寿命を終え、変わりに夜が、闇が、あらゆる光を飲み込んでゆくのだ。
 地平線の彼方から僅かに立ち上る光に照らされ、一本の竜巻のような雲が 終わりゆく空を割っている。断末魔のように。

つづく

自作小説集へ

ボイラー室へ