あの後。秋絵がどうなったのか、俺には思い出すことができなかった。
本当に手首を切ったのか、それともそれとは全く違う、もっと別の何かを選択していたのか。 どちらにしても、その先にあるものはロクな結果ではないはずだ。そもそも、俺が 秋絵の家に踏み込んだ瞬間から最悪の状況は始まっていた。あまりにも最悪なので、 あの後どのようなプロセスを踏もうともこれ以上悪くなりようはないと言い切れるほど、 最悪の状況だったのだ。とはいえ、あの後事態がどのように動いていたのかは俺にとっても実に興味深いこと のはずだった。あれほどまでに血沸き肉踊る事態の結末が、気にならないはずがない。
ところが不思議と、俺はこれ以上自分の記憶を辿る気にはならなかった。別にあの出来事が どうでも良くなったわけではないし、思い出すのをあきらめたわけでもない。ただなんとなく、 どうしても思い出せないのなら後回しにしてもいいことのような気がしていた。
何しろ、あまり時間がないのだ。それにしても、あのときの俺は異常だった。もちろん、秋絵の方が俺よりも遥かに 異常だったことは言うまでもないが、とりあえずあいつのことはどうでもいい。 今は自分のことだけをゆっくりと考えたい。
実際、殺人現場に居合わせた人間の精神状態というものは、あんなものではないはずだ。 あまりにも想像していたこととかけ離れている。あれほど突然に、非日常的な事態に 巻き込まれたら、パニックを起こすのが普通ではないのか?
それが、あのときの俺は秋絵が殺した男を、まるで死んだ金魚でも見るように冷静に 見つめ、そのことが引き起こす今後の展開に期待を寄せ、大いに興奮していた。自分で 考えた事とはいえ、死んだ金魚のように、とは今の俺の立場から思うと皮肉な比喩だ。 俺は心の中で苦笑する。今や俺のいる水槽は、限りなく完全に近い闇で満たされていた。こうして闇の中で 動きのない水の中に漂っていると、自分の肉体が失われたような錯覚に陥る。 そしてこの状態から俺は、またしても死を連想するのだ。確実に迫り来る死の予感に、 俺は強い恐怖を覚える。
恐怖。考えてみれば俺は自分の人生で、こうやって都合の悪い感情ばかり育ててきた のではないか。こんなことを考えていると、俺の心までもが周囲の闇の中に沈んでいく。 しかし俺はそのことには逆らわずに、突き詰めて考えていくことにした。
俺はどんな人間だったのか。俺の人生とは何だったのか。じっと、残された時間で考えたい。ふと、思いついたことがある。俺は、何かに感動して涙を流した記憶がない。別にそのこと は、秋絵が人を殺しても俺が動揺しなかったこととは関係ないのかもしれないが、それでも 感情の働きが鈍いことはかつての俺という人間を考えるに当たって、重要なファクターであるはずだ。
あれはいつのことだったか。正確に思い出すことはできないが、まあ思い出せないのなら 別にどうでもいい。今の俺にはそんなことはたいした問題じゃない。
俺はあの日、知り合いになったある女の子(名前は忘れた)と映画館に行ったのだ。たぶん 日曜日だったんだろう。これから映画館で上映されるのは、例によって『全米ナンバー1、 感動の超大作』と銘打たれた、二人の愛がどうのという、いかにも俺の苦手そうなジャンル の映画だった。館内はけっこう人が入っていて、俺達は前の方の席に座ることになってしまった。 どう考えたって映画を鑑賞するには不適切な位置と角度で設置された椅子に、二人で 並んで座る。ついでに椅子は狭くて固く、常人ならこの椅子に座って5分と同じ姿勢 を保つことは不可能であろう。ましてや、俺がこれから見る映画は『愛と感動の超大作』 なのだ。酷く憂鬱な気分になる。
それでも俺は、映画が上映されている間はどうにかして内容を把握して おくよう努めようと考えていた。はっきり言ってこういうタイプの恋愛映画を見ていて 面白いと思った試しはないのだが、それでも事前の心構え次第で面白く見ることが可能 かもしれないし、何より内容をちゃんと覚えておかなくては映画を見終わった後の 会話に支障を来たす。それだけは何としても避けたかった。
そう、俺はこれから、女の子との会話を成立させるというただそれだけのために、 2時間に及ぶ苦行に身を投じるのだ。映画がついに始まった。開始後10分、早くも内容に対する興味を失う。覚悟はしていたものの、 やはりこれはハズレだったと俺は確信し、絶望した。いや、あきらめてはならない。 俺は映画の内容を把握しなくてはならないのだ。あらん限りの集中力を振り絞り、 スクリーンを見上げた。前の方の席はこれだから嫌なのだ。首が非常に疲れる。 徐々に、尻も痛くなってきた。噂には聞いていたが、この映画館のシートは最悪だ。 その恐るべき硬度をもって、シートは俺の尻を容赦なく痛めつける。
こうして自分の体の異常に気を取られているうちに、俺は映画の内容を全く把握 していないことに気づいた。俺は戦った。精神的に戦った。だが、疲れた。もうたくさんだ。スクリーンの中では 何やら壮大な愛と感動の物語が繰り広げられているらしい。俺はそれを、寒いギャグを 飛ばしたやつでも見るように、責めるような冷徹な視線で眺めている。
やがて襲い掛かってきた睡魔に抵抗する気力もなく、俺は不快な眠りに落ちた。やがて、待ちに待ったエンディングテロップが流れてきた。俺は重々しく立ち上がり、大きく 伸びをする。全身の筋肉が生き返るようだった。辺りを見回すと、号泣している女性客 が多く見受けられる。隣に座っていた女の子も泣いていた。
残念ながら俺はこの後、このときの女の子と日曜日に顔を合わせることは二度と なかった。