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水槽と俺

第七回 こけしのような佇まい

 いつのまにか、完全だったはずの闇は払われ、俺は僅かだが視界を取り戻すことが 出来ていた。月が出ていたのだ。部屋の窓から差し込む月明かりに照らされ、俺は 多少ではあるが、闇がもたらす恐怖から開放されていた。
 今や俺にとって闇は死の象徴だった。水槽の中の魚として生きている俺にとって、 今見えているこの光景だけが俺が生きている確かな証なのだ。例えその光景が、俺の入った 水槽が置かれているだけの狭い室内でしかなかったとしても、それを眺めることだけが俺に許された 唯一の自由なのだ。今の俺にとって、光を奪われることは全てを奪われることだった。 そこに残るものは、闇と絶望だけなのだ。

 だが月の光は、俺を闇の恐怖から逃がすためだけの都合の良い存在ではなかった。 闇から連想するもの、死、恐怖、絶望…。そして今夜空に輝いている月は、禍禍しいまでの 赤い光を放っていた。血と狂気。俺は赤い月から、それを連想する。
 異様な高揚感が沸き上がってきた。この高揚感は、秋絵が人を殺した現場に居合わせたときの それに近いものがあった。例えるならば、生きながらにして安全な場所から地獄を見下ろす快感 とでも言おうか。

 ただ一つ違うのは、今の俺が感じている高揚感はある見方をすれば精神的にはマイナス方向に 向かっているということだろう。妙に冷静さを保ったままの俺の心が、秋絵の殺人現場に 居合わせたときの俺を回想している。理性と感情が分離し、感情だけが妖しく光る月の赤さに 触発されて暴走しようとしていた。
 俺は、感情の働きが鈍い人間のはずだった。そう思っていた。しかし今、俺は月の狂気に 取り付かれて恍惚となっている。秋絵のときもそうだ。いったい、何が俺の心を掻き立てて いたのか。俺は、何を望んでいたのか。
 だが、徐々にそんなことを考えるのは馬鹿馬鹿しくなってきた。どうせ、もうすぐ全てが終わる。

 もうどうでもいい。もう、恐怖を感じない。もうすぐだ。もう間もなくやってくる。俺は確かに それを感じていた。それは、力強いほどの一体感だった。





「ぬおおおおっ!」
「ふぬーっ! くはぁっ! くはぁっ! ふぬーっ!」

 授業中であるにも関わらず騒々しい教室の中、俺とジョニーは腕相撲に全精力を注いでいた。 筋肉は唸りをあげ、呼吸は荒ぶり、全身から汗が噴き出る。実力伯仲の勝負が数分続いた後、 ついに俺の右腕がジョニーの右腕を倒し込もうと最終攻撃を開始した。

「シット…!」

 ジョニーも必死の形相で粘りを見せ、もう何度目になるか分からない巻き返しを謀ったものの、 紙一重の持久力の差を埋めるには至らず、ついにその右腕が机の上に伏した。

「フッ…」
「ガッディーム…!」

 汗だくで勝ち誇る俺の眼前で、悔しそうにうめくジョニー。ジョニー、というのは俺の悪友で、 本名は竹内丈二。純日本人でありながら、やたらアメリカンテイストな口調を好むところから、 いつしか『ジョニー』と呼ばれるようになっていた。しかし、英語の成績は俺よりも悪かった。

「これで昼飯は貴様のオゴリだ」
「ノー…」

 失意の底にありながらも、ポケットから財布を取り出すジョニー。そして中身を確認し、 今度はジョニーが勝ち誇った笑みを浮かべた。

「実はマネーが足りなくてね」

 そう言って奴が見せた財布の中身には、15円しか入っていなかった。

「貴様…初めから俺にオゴらせるつもりだったのか」
「ノー、ノー、ノー。マネーは工面しようじゃないか」

 そう言って、3つほど離れた席に座る川井に目線を送る。川井は、ものすごく嫌そうな 顔をして目線を逸らすが、ジョニーは構わずにズカズカと川井の席へと歩いていった。 教室の中は相変わらず騒々しく、誰も気にとめる者はいない。隣の席の秋絵に至っては、 マンガ雑誌を教科書で隠しもせずに堂々と読みふけっている。
 浅岡の授業は、いつもこうなのだ。この授業の担当である浅岡も、今では黙々と黒板に 教科書の要点を書き写しているだけで、生徒に注意したことなど最初の数回だけだった。

「ヘイ、川井」

 ジョニーが軽く声をかけると、川井は萎縮して愛想笑いともなんとも言えないぎこちない 表情を浮かべた。

「あーあ。可哀相にねぇ…」

 何かが起こりそうになると、急に首を突っ込んでくる秋絵がつぶやく。この発言は、 シャレにしてはくだらなさ過ぎるし、別に秋絵もシャレのつもりで言ったのではないだろう から、俺は無視することにした。もちろん秋絵は、言葉とは裏腹に川井に対して全く同情していない。 全く、残酷な女だ。
 俺がそんなことを考えている間にも、ジョニーが川井に話し掛ける。

「ユーは、人生を楽しんでいるのかい?」

 巧みなボディーランゲージを駆使し、努めて陽気に話し掛けるジョニー。その態度に 反比例するように、ますます萎縮する川井。その様子を横目で見ながら笑いをこらえる 俺と秋絵。

「実は、僕のマイライフに困ったシチュエーションが起こっているんだ」

 意味不明な言葉をのたまわりながら、太い声で悠然と話し続けるジョニー。 秋絵はこらえきれずに、とうとう吹き出して大声で笑い出してしまった。我慢のない女だ。 俺などは、なんとか肩を震わせてうずくまっているにとどまっているというのに。

「さきほどのマイライバルとの息詰まるアームレスリングを、君は見ていたかい?  残念ながら僕は負けてしまったけれども、実にエキサイティングなゲームだったよね!  ところが、僕は困ってしまったよ。あろうことか、その勝負には今日のディナーが かかっていたんだ!」

 ディナーとは、主に夕食のことをいうのだが、まあ一日のメインの食事のことと考えて いいだろう。しかし、今日俺達がかけていたのはコンビニのコロッケパンだった。 それがディナーというのはあまりに空しくないか、ジョニー。

「しかし! 僕の財布の中身はスッカラカンさ! どうだろう! あのエキサイティングな ゲームを演じて見せた僕らに、ささやかな! ささやかな君の好意を示してくれると、 とてもハッピーな気分になれるのだけれども!」

 話し終え、キメのポーズの状態で固まるジョニー。秋絵は、笑い過ぎて涙目になっている。 俺にはそのときのジョニーが眩しすぎて、正視することが出来なかった。
 しかし、川井は少しの沈黙の後に言った。

「今日は…お金なくて…」

 唐突にポーズを崩し、川井の眼前に顔を近づけていくジョニー。その顔には 悪意ある笑顔が張り付けられていた。

「ワァ〜ット?」

 舐めつけるように川井に問い詰めるジョニー。川井はジョニーに圧され徐々に後退 していくが、やがてバランスを崩し、椅子をひっくり返して派手にすっ転んだ。
 直ちに教室内が笑いに包まれた。無論、さっきから笑いまくっていた俺と秋絵は大爆笑だ。 さすがに、今度ばかりは俺も笑いをこらえることが出来なかった。
 ちょうどそのとき、終業のベルが鳴り響いた。浅岡がいつもの無気力な表情で向き直り、 授業の終わりを告げた。なぜか終業のときだけは、皆律義に席に戻っていく。

「ヤァ〜、ソーリー、ソーリー。また今度にするよ。ハハハ!」

 ジョニーも、川井に手を振りながら自分の席に戻っていった。今にして思えば、 実に楽しいひとときだったのではないだろうか。

つづく

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