煌煌と輝いていた、狂気の象徴である満月も今は夜空から消え失せ、再び俺の周りの 空間を闇が支配しようとしていた。闇は容赦なく時間とともに深まってゆき、静かに絶望感を 満たしてゆく。水槽の中の魚という、狭苦しい空間の傍観者でしかない俺が、圧倒的な 無力感を味わう瞬間だった。そして、突き上げるような恐怖が襲ってくる。
恐ろしい。俺は無明の闇というものが、これほどまでに恐ろしいものだとは今までに 考えたこともなかった。孤独感に心が締め付けられるようだった。あのときの川井も、 こんな思いで世の中を見ていたのだろうか。
川井が学校を辞めてから３日が経過しようとしていた。理由は学力不振というのもあるが、 本人に学校に通う意志が弱かったためらしい。 そういえば、あいつは授業中も熱心にノートをとっているかと思えば、実はただ単に落書き に熱中しているだけだったりと、まともに授業を受けている様子はなかったように思う。
まあ、それを言えば俺もそうなのだが、それでもテストで赤点を取って追試ということに なるのは御免なので、追試を受けるのだけは極力避けるために要所要所は押さえることにしている。 ところが、あいつはそういった努力すら怠り、最近は追試さえも放棄することが当然の ようになりつつあったところで今回の自主退学だ。まったく、俺から見てもどうしようもない人間だ。「なあ、ジョニー、川井の家を訪ねてみないか」
「なんだって？」俺が声をかけると、ジョニーはいつものように大袈裟な動作で振り向きざまに聴き返してきた。
「いや、なに…川井も学校も辞めて落ち込んでいるだろうから、俺達であいつを 励ましてやろうという提案なんだが」
「実に素晴らしいアイデアじゃないか！」嬉々とした表情で答えるジョニー。
「確かに！ 川井にしてみれば、ハイスクールを卒業できなかったことは、彼の人生に 大きな傷を残すことになるに違いないよ！ 僕としたことが、気がつかなかった！ 僕らにできることはそりゃあ何もないかもしれないけれども！ それでも、友人として 傷心の彼のもとに駆けつけずにはいられないじゃないか！？」
「ええい、やかましい！」
「ああ、川井！ 僕は今、後悔しているんだ！ 君の悩みに何も気づいてあげられなかった ことに！ そして、君という素晴らしいクラスメイトを失ってしまったことを！」
「………」相変わらずこのモードに入ったら止まらなくなるジョニーを無視し、とりあえず俺は 学校が終わったあとの暇つぶしに、川井の家に行ってみることに決めた。
放課後のサプライズ訪問だ。そして放課後。俺とジョニーは、川井の家の前に立っていた。ピンポンピンポンと ブザーを２回押す。ほどなくして、家のドアが開いた。玄関に出たのは、川井の母親だった。
「どうも、こんにちは」
「あら、豊のお友達？」豊、というのは川井の名前なんだろうか？ あいにく、俺はそんなものは覚えていな かったが、とりあえずそういうことにしておくことにした。
「ええ、僕らも豊君が学校を辞めちゃってから寂しい限りですよ。豊君も落ち込んでる でしょうから、今日は少しでも元気付けてやろうと思って」
自分でも恐ろしく白々しくなる俺の発言を聞いたジョニーの、笑いをこらえる気配が 伝わってくる。だが、その気配は川井の母親にまでは伝わっていないようだった。
「まあ…。本当にあの子も、どうしちゃったのか…」
そのとき、俺達の気配を察して階段から降りてくる川井を視界の端に捉えた。
「…！」
驚愕する川井の顔を認めた瞬間、すかさずジョニーが川井を『押さえ』にかかる。
「やあ、ユタカ！ 僕らは、君のことをどれだけ心配したことか！ ああ、今日は 存分に悩みを語り合おうじゃないか！ さあさあ！」
驚くべき早業で家の中に上がり込み、川井のところへと階段を駆け上がっていくジョニー。 すかさず俺もそれに続く。川井の母親は、俺達の感動の友情シーンの前に、居間へと引き下がる しか術を持たなかった。
ジョニーはなおも川井を攻め立てながら前進し、あっという間に川井を自分の部屋まで 押し戻した。「やあ、川井！ 僕らは君がハイスクールをリタイアしてから非常にブルーだったんだよ！ 冷たいじゃないか！ 僕らに断りもなしに、一人でそんな大事なことを決めるなんて！」
川井の部屋への侵攻を果たしたジョニーは、得意満面の表情で川井に語り掛ける。 川井は萎縮するどころか、早くも泣き出しそうな表情でジョニーを睨んでいた。
俺はそんな二人のやり取りとは関係無しに、川井の部屋の物を物色しはじめる。「おいおい、お前、ノストラダムスの本なんて読んでんのか。うっわー、すげぇなこの プラモの数。でも作るの下手だな、お前」
本とペンを手に取るとすかさず落書きせずにはいられない自分の性分に逆らえず、川井の本に 落書きを始める俺。
「ヘイ、あんまりなことをするなよ。ユーには、川井に対する哀れみがないのかい？」
同情したフリをしながらも、悪意のこもったわざとらしいボディーランゲージで プラモデルを破壊していくジョニー。
「やめろよ！ もう帰れよぉ！」
川井の貧弱な訴えを無視し、今度はＣＤを漁りはじめる俺とジョニー。
「おっ、すげぇ！ こんなの持ってるぜ、おい！」
「実にグレイトなコレクションじゃないか！ どうだい川井、僕らとユーの友情の証に！」数枚のＣＤを片手に、喜色満面で川井を見やるジョニー。川井は、そんなジョニーに 突然、呆れ顔で言った。
「…持って返っていいよ。だから早く帰れよ…」
その発言に、驚嘆する俺とジョニー。
「オー！ ワンダフルだ、川井！ じゃあ、遠慮なく持っていくことにするよ！」
「けっこういいところあるな、川井！」この日、俺とジョニーは、実に多くの収穫を得て帰路についた。
さらに数日後。学校で、秋絵がいつものように騒々しく騒ぎ立てていた。それだけなら 毎度のことだから無視するのだが、このとき秋絵が広げていた地方新聞に興味を引かれて、 珍しく俺の方から秋絵に声をかけてみることにした。
「なんか面白いことでも書いていあるのか？」
「あっ、ねえねえ、これ見てよ！ やっぱりこれって、そうだよねぇ！」そう言って、秋絵が指差したのは新聞の『お悔やみ欄』だった。