ボイラー室へ

自作小説集へ

水槽と俺

第九回 「大変残念なお知らせがあります」

 秋絵が『お悔やみ欄』を指差したということは、知り合いか有名人でも死んだのだろうか。 そう思ってよく見ると、そこには『西本 豊』という、見知らぬ名前が記されていた。

「…誰、これ?」

 俺にはこの名前が誰のことなのか分からなかった。

「何言ってんのよ! これって川井のことじゃない!?」
「…は?」

 いったい、秋絵は何を言っているのだろうか。どこをどうすれば、『川井』が『西本』になる というのだ? 確かに下の名前の『豊』だけは合っているような気がするが。

「なんでこれが川井なんだ?」

 俺が尋ねると、呆れ顔になって『やれやれ』と俺を見下す秋絵。一瞬、腹立だしさが 胃袋を突き上げる。こいつにこういう態度を取られると、ものすごい屈辱だ。

「あんたねぇ…川井の本名でしょ、これ」
「…へ?」

 またしても秋絵の言っていることを理解できない俺。…まてよ。そういえば、すっかり 忘れていたことがある。

「『川井』って、あいつの本名じゃなかったっけ?」
「違うってば! まあ、あたしもしばらくの間、忘れてたけど」
「あいつのこと、『川井』って呼び出したの誰だっけ?」
「さあ? あんたか、ジョニーじゃなかったっけ?」

 あまりよく覚えていないのだが、確かに言われてみるとそうだったような気もする。 何しろ『川井』というニックネームはあっと言う間に定着してしまい、そのニックネームで 呼ばれはじめる前のあいつはというと、とにかく存在感のない奴であいつの本名を耳にする のは授業前に出席を取るときぐらいしかなかったから、俺にとってはあいつの本名とニック ネームは心理的に一致していなかったのだ。
 とにかく、このことはジョニーに知らせなくてはなるまい。そんなことを考えていると、 ちょうどうまい具合にこの場にジョニーが現れた。

「やあ、こんなところでニュースペーパーなんか広げて、何か面白いことでも書いてあるのかい?」

 相変わらず陽気な口調で話し掛けてくるジョニー。

「ジョニー、川井が死んだぞ」

 いきなり、前置き無しに真実を告げる俺。こういう場合、重要なのはインパクトだ。 俺は、もったいつけてせっかくのネタを腐らせるようなことは断じてしない。
 しかし後で秋絵に言われたのだが、俺はこのとき笑顔で今の言葉を口にしていたらしい。

「…ホワット?」

 ジョニーは眉をしかめる。言葉の意味を正確に受け止められなかったようだ。俺は 先程の秋絵がそうしたように、新聞の『お悔やみ欄』を指差した。意外にも、ジョニーは そこに記されていた名前が『川井』の本名であることを覚えていたらしく、さらに意外なことには、 しおらしく深刻な表情を見せたのだった。

「…本当だ…どうして死んだんだろう?」

 いつもの馬鹿馬鹿しいまでの陽気さも消え失せ、口調も重苦しくなっている。なんてことだ。 こいつ、顔面蒼白になってやがる。

「死因、書いてないしねぇ。死因が書いてないときは、大抵自殺だって話だよ。ま、普通 自殺だなんて書けないしねぇ。遺族のこと考えたら」

 ジョニーとは対照的に、いつものと変わらないのん気な調子で話す秋絵。やはりこいつは、 冷酷無比な女だ。人の不幸ほど楽しいショーはない、とでも考えているのだろう。明らかに 秋絵はこの訃報を、格好の噂話のタネとして楽しんでいた。

「確かにあいつ、自殺してもおかしくなさそうな感じだったけどな」
「あーあ、可哀相にねぇ。あんた達がいじめたせいじゃない?」
「失礼な。俺達はかけがえのない友人だったんだぞ。なあ、ジョニー?」

 ジョニーに振ってみるが、ジョニーは茫然自失として心ここにあらずという感じだ。 どうやら議論の味方としては期待できなさそうだ。俺はジョニーを無視し、間を空けずに話を続ける ことにした。

「それに、自殺だと決まったわけではないだろう。ひょっとしたら、とても新聞には 載せられないような恥ずかしい死に方でもしたんじゃないのか? 階段から落ちたとか」
「あー、そういうセンもアリかもねぇ。そうだ、電子レンジで体を乾かそうとしたってのはどう?」
「猫じゃないんだから…それだったら今流行の、郵便受けに入ってた怪しげな薬を飲んだってのは どうだ」

 俺と秋絵のブラックな話題が盛り上がっていたところだったが、非情な始業ベルが 鳴り響いてしまった。俺達は、仕方なく嫌々ながらも自分の席に戻ることにした。
 授業が始まってからも、俺は川井がどんな原因で死んだのかを一人妄想していた。 やはり自殺なのだろうか? 自殺だとしたら、どんな方法で死んだのだろう? 未遂率の 低い方法だったのだろうか? それとも、薬物を使ったのだろうか? 薬物だとしたら、 その薬物はどうやって手に入れたのだろう? あるいは、その辺で売っているありふれた 薬品でも使い方次第で人間は死ぬことができるのだろうか? あいつは変な本をたくさん 持っていたから、その辺の知識はありそうだ。もしかしたら、今まで誰もやったことがないような 画期的な方法で死んだのかもしれない。ああ、だとしたらぜひともその現場を見物させて もらいたかった!

 妄想は際限なく広がっていく。俺は興奮し、手にはじっとりと汗が滲んでいた。 気が付くと、普段はとてつもない苦痛を伴う退屈な授業もいつにない早さで経過している。 この調子なら、今日の授業はほとんど自殺ネタの妄想を続けることで乗り切れそうだ。 このことだけに限定すれば、俺は初めて心の底から川井に感謝する気になった。

つづく

自作小説集へ

ボイラー室へ