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水槽と俺

第十回 最も強い感情

 いつ晴れるとも知れぬ水槽の闇の中、俺は人間だった頃の回想を続けることに 辟易し始めていた。俺はなんと不毛でくだらない人生を過ごしていたのか。 記憶を手繰れば手繰るほど、自分の価値観に嫌気が差してくるではないか?

 俺は自分の生まれ落ちた世の中を、実にくだらない、価値のない世界だと思い込んでいた。 身に覚えもないのに一方的に義務を押し付けられ、平穏な社会生活を送る権利とやらを ペットフードのように皿に盛られて与えられ、自由と名のつくモノも所詮は人生というレールの 分岐点の選択ができる程度に過ぎない。
 そんな中の不確定要素といえば他力本願のカタストロフィぐらいしか思いつかなかった俺は、 一刻も早く誰かが(何かが)この世界を終わらせてくれることに期待することしかできなかった。 俺は恥ずべきことに、死を望んでいたのだ。
 自殺ではない。自殺の死では、自分の責任になってしまう。俺の望んでいた死は愚かにも、 死の苦痛など無視された死者数の数字の大きさだけが物語る、苦痛のない無責任な破滅だった。

 だが、俺は今、恐怖している。無明の闇の中、確実に迫る死の圧迫感に怯えている。 そして、自分がまだまだ生きていけることを確認したいと願っているのだ。
 恐ろしい。

 川井は、この恐怖をさえ上回る絶望の中で、死を遂げたというのだろうか。俺は不思議にも、 冷血動物である魚類と成り果てた現在こそ、川井の精神を追いつめてしまったことに後悔を 感じ始めていた。
 そして今、思い出したことがある。なぜ、川井が本名でもないのに『川井』と呼ばれて いたのか、ということだ。





 川井の死の、数ヶ月前のことだった。その頃、川井はまだその名前では呼ばれておらず、 本名の『西本』と呼ばれていたと思われる。もっとも、その頃からあいつは影の薄い人間 だったので、俺には自分のクラスにそんな奴がいたのかどうかすら覚えがないことだった。

「コラ西本、授業中に何をノートに落書きしとるか」

 それは、普段通りの退屈極まる授業中に起こったことだった。整然と訓練のように進む 授業の途中で教師(名前はやはり忘れた)が、川井改め本名西本を注意したのだ。

「熱心にノートをとっているかと思えば、ただの落書きか? さっきから、黒板も見ないで 窓の外ばかり見ているからおかしいと思ったぞ。授業に集中しろ」

 西本は不服そうな表情をしていたが、そのときはそれだけのことだった。ただ、クラス で全く存在感のない西本が、初めて周囲の注目を浴びた瞬間には違いなかった。あるいは 今回のことはただのキッカケだったのかもしれないが、ともあれこの些細な出来事が西本の 今後を決定することになった。

「ヘイ西本、まったくあのティーチャーには困ったものだね! 僕も何度あのティーチャーには 心の中でファックユーを浴びせたか分からないよ! あの男はティーチャー失格だね!  西本もそうは思わないかい?」

 授業が終わり、休み時間になって西本に話し掛けているのは、口調で分かるように 言葉遣いだけがアメリカンテイストな男、俺の悪友のジョニーその人だった。
 西本は突然ジョニーに陽気に話し掛けられたことに戸惑い、曖昧な笑みを浮かべただけ だった。しかし、ジョニーはこのときからささやかではあったが、西本に悪意 を向けていたのだ。見下していたと言った方がいいのかもしれない。とにかく、西本が机の 上のノートをしまおうとした瞬間だった。

「ところで、さっきは何を描いていたのかな?」

 一瞬の出来事だった。ジョニーが、ためらいのない素早い動作で、西本のノートを奪い取った のだ。さらに情け容赦なくノートを開き、ジョニーがその内容にざっと目を通そうとしたときだった。

「か、返せよ!」

 西本が、慌ててジョニーからノートを取り返そうとしたのだ。しかし、西本の貧弱な抵抗も 空しく、ジョニーは余裕の表情でノートの内容を盗み見た。

「おいおいジョニー、…西本、だっけ? が可哀相じゃないか」

 俺はジョニーと西本の仲裁に入るような位置に立って二人を引き離した。もちろん、 ノートを見るのに西本が邪魔だったのでそうしたのだ。もはや、西本は哀愁漂う様子で 引き下がるしかなかった。

「どうだ、ジョニー、何か描いてあったか?」
「さあ? これはいったいなんなんだろうね?」

 そう言ってジョニーが俺に見せたものは、雲のスケッチのようなものだった。他に書かれて いるのは、今日の日付だけだ。
 西本は授業中、窓の外ばかり見ていたとあの教師は言っていたが、西本は空の様子を描いていた のだろうか。俺は特に関心を惹かれなかったので、とりあえず前のページを見てみることにした。



○月○日
 今日は灰色の幕を張ったような雲を見た。形も、あまり見たことがない形の雲だった。 この前も飛行機雲みたいな一直線の雲を見た。地震雲の可能性が高い。

○月○日
 最近、ときどきリモコンの調子が悪くなることがある。大地震の前兆現象として、電磁波 が出ているせいだろうか。テレビやラジオにもたまにノイズが混じることがある。電波の 状態が悪くなっているせいかも。

○月○日
 今日も地震雲らしき妙な形の雲を見た。入道雲に似ている。

○月○日
 カラスやハトの行動には、まだ変なところはない。もう少し先かもしれない。

○月○日
 水槽のナマズが、よくガラスを叩くようになった。そろそろかもしれない。 前兆の電磁波は、人間の精神にも影響を与えるらしいけど自分ではまだ何も感じない。



 西本のノートの内容は、このように地震に関する日記が延々と続いていた。

「おいおい、すごいなこれ! 西本って、地震オタクだったのか!?」
「これは恐ろしい! 西本、地震が来そうになったら僕にも教えてくれよ、ハハハ!」

 まるでどこかの超科学雑誌に載っている文通欄のような怪しい内容に、俺達は あからまな嘲笑を西本に向けていた。西本をうつむき、じっとうなだれて俺達とは目を合わそう としない。
 俺達の、西本を嘲る会話は、周囲にいた数人を巻き込んでなおも続いた。

「いやあ、西本がこんな怪しい奴だったとは知らなかった」
「そういえば、どっかの宗教団体だか学者だかに、『もうすぐ大地震が来る』とか言ってた 奴がいなかったか?」
「ああ、あのテレビに出てた恥ずかしい奴か? 名前、なんていったっけ?」

 その後、西本はそのとき話題に上った名前で嘲りを込めて呼ばれ続けるようになり、 西本の本名はすっかり忘れられた。そしてその嘲りが込められたニックネームこそが、 『川井』だったのだ。




 俺は今、自分自身が水槽の魚に成り果てた結果、思い知っていた。確かに俺は今、 破壊衝動に満ちた電波をこの身で感じ、恐怖を味わっている。ああ、俺は知らなかったんだ。 まさか、川井が書いていたことが本当だったとは…!
 深く、暗い地の底で、そいつは静かに蠢いていたのだ。

つづく

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