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水槽と俺

第十一回 光あれ

 死を目前に控えたとき、俺はどれほどの恐怖を感じるのだろうかと考えたことがあった。 俺は実際に生命に関わる危険に晒されたことなど一度もなかったし、秋絵が人を殺して その死体を間近に見たときも、川井が死んだと知ったときも、俺の感情は恐怖というベクトル にはまったく動かなかったので、非常に想像しにくいことだった。
 それよりもむしろ、この退屈でつまらない、そう、便利さと豊かさを求めた結果、退屈に 行き着いてしまっただけの灰色の世界から抜け出せるなら、今突然死んでしまっても構わない とさえ考えていた。俺は、死を美化していた。憧れていたのだ。世界の破滅を、待ち望んでいたのだ。

 だが俺は今、死を恐ろしいと思っている。凄まじい恐怖だ。今の俺は、水槽に入れられた 無力な一匹の魚に過ぎない。大地震が来れば、確実に水槽は破損し、俺は外界に投げ出される だろう。そして、呼吸困難で苦しみながら冷たい床の上をのたうちまわって死に至るのだ。 嫌だ。そんな死に方はしたくない。恐ろしい。

 いや、違う、そうじゃない。これは、何かの間違いなんだ。そうだ。こんな馬鹿なことが あるはずがない。こんなことが現実であるはずがない。そうだろう? 今までに、どこの誰が こんなことを体験したっていうんだ。俺が魚になっただと? そんな不条理なことはない。 科学的なものの考え方じゃない。俺は、長い夢を見ているんだ。幻覚だ。俺は、おかしく なってしまったんだ。誰か、そう言ってくれ。俺以外なら誰でもいい。俺は、俺以外の誰かの 言葉を聞きたいんだ。誰か、俺の目を覚ましてくれ。酷く心細い。この上なく惨めな気分だ。
 あまりに長く、闇と孤独に晒され過ぎた。俺は死にたくない。死にたくないんだ。それとも、 俺は既に死んでいるのだろうか? 実は俺はとっくの昔に死んでいて、この闇と孤独の死の世界に いるというのだろうか? そんなはずはない! そんなはずは!

 俺は、俺以外の誰かの姿が見たい。いや、景色だけでもいい。この闇を切り裂いて、俺に この世の景色を見せてくれ。そのためには、光が必要だ。世界を照らす光が必要なのだ。 見ることが出来ない世界は、存在しないのと同じではないか。俺は死んでなんかいないんだ。 俺が生きているという証を見たい。光が必要だ。光あれ! 光あれ…!

 闇と孤独以外に、唯一実感できることが俺にはあった。電波だ。地震の前兆現象として 発生する電波が、ブチブチと俺の命綱を引き千切る感触を刻んでいる。握り締めた命綱の手応えが 弱々しくなっていくのと同じぐらいの確かさで、今にもそいつが動きだそうとしているのが 感じられる。生きた心地がしないとはこのことだ。こんな場所からは、早く逃げ出して しまいたい。こんな恐ろしい思いを続けていたら、俺は正気を保てなくなってしまう。 もうやめてくれ! 俺はこんなのは嫌だ! 俺をここから連れ出してくれ!

 影が見えた。闇の中、まったく一筋の光さえ見えないというのに、影が見えるのだ。 お前は、誰だ? なぜ、こんなところにいる?

 そいつは、何をしてくるわけでもなく、俺の方を向いてじっと佇んでいるように見えた。 いったい、何を考えているのか。まったく正体の分からないそいつがそこにいることにより、 俺の孤独感を一層浮き彫りにされたようで酷く不愉快な気分になった。
 もしかしたら、あいつは俺のことを嘲笑っているのだろうか? こんな狭い水槽の中で、 死に怯えながら独り惨めな気分を味わっているこの俺を! なんと陰険な奴だ。 確かにそう考えてみれば、あいつは超然とした態度で俺を見下しているように見える。 何様のつもりだ! 俺がそんなにおかしいか! 俺を見て笑うのはやめろ!

 そうか。わかったぞ。お前は、川井だな? 川井なんだな? 俺を恨んで、あの世から この俺を笑いに来たというわけだ。ご苦労なことだな。ああ、そうだよ。俺は怖いんだ。 死ぬのが怖いんだよ。もう死んでいるお前には分からないだろう、この惨めさは!  俺に何か言いたいことでもあるのか? 言いたいことがあるなら言ってみろ!

 俺は、いつでもお前に直接何かしていたわけではなかった。お前をからかって遊んでいたのは、 ジョニーだ。全部あいつが悪いんだよ。俺は、ジョニーが面白そうなことをしていたから、 いつもついてまわっていただけなんだ。そりゃあ、ちょっとばかり酷いこともしたかも しれんが、悪かったのはだいたいジョニーの方だ。
 ジョニーは酷い奴だった。全面的に悪いのはいつもジョニーだから、俺はいつでも責任を ジョニーに押し付けることができた。だが、ジョニーは悪友とはいえ友達だ。だから、俺は ジョニーを裏切らなかった。ジョニーがやっていたことだから、俺もやったんだ。
 それに、お前に手を出していたのは俺達だけじゃない。皆でお前を見下すことが、俺達は 楽しかった。連帯感があったんだ。お前は、別に死んでも良かったんだろう?

 黙れ! お前のような奴に馬鹿にされてたまるか! 消えろ! 消え失せろ!  地獄に落ちろ、カラスに食い散らかされたゴミ以下の陰気臭いダメ人間が!

 影が、急激に大きさを増していった。深海に、黒い津波が迫ってくるような恐怖が走った。 視界いっぱいに影が広がり、俺は影に呑まれた。影は闇と化し、さらに恐怖を増幅させる。 意識の輪郭が闇に削り取られ、心が痩せ細っていくのが感じられた。
 また、命綱が切れる寸前のブチブチッという感覚に襲われたような気がした。

つづく

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