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水槽と俺

第十二回 生きてるって素晴らしい

 俺の精神は、果てしなき螺旋の闇の底へと向かっていた。考えること全てが負の感情を 増幅させるのだ。何を考えても、自分の心を責め苦に晒し、不安を煽り、恐怖を掻き立て、 心の脆弱さを思い知らされる。記憶が後悔を産み、願望が虚無にひれ伏す。俺は、消えて しまいたいと思った。
 この苦しみから逃れられるなら、自分の思考も記憶も存在も何もかもを投げ出し、俺さえも 存在しない無の世界へ落ちても構わなかった。だがそう望むこと自体が、俺という哀れな存在 をさらに際立たせる。もはや俺には、絶望すら許されてはいなかった。この水槽は俺にとって、 闇と孤独のコキュートスだった。

 もう、なんでもよかった。誰でもよかった。俺の水槽に光を射し入れてくれる誰かを、 俺は求めていた。
 不意に、秋絵の顔が思い出された。あの口やかましくて鬱陶しい、人を刺殺したくせに 普段と変わらないのん気な態度を崩さない非人間的な心を持った、女の顔をだ。
 あいつは確かに、さして親しいわけでもないこの俺に気安く話し掛けてきて、 その馴れ馴れしさのおかげで著しく気分を害することも少なくなかったが、今の惨めな 俺にとっては秋絵の鬱陶しさでさえもが、たまらなく懐かしく感じられた。
 秋絵でもいい。あいつの顔が見たい。あいつの声が聴きたい。あいつに話し掛けられたい。  だがそれを望んでも、俺の眼前には静寂で残酷な闇が広がるばかりだ。自分が哀れで、 情けなかった。

 なぜ、俺は秋絵のことを思い出したのだろう。あいつが人を殺した直後の現場を見てしまった ことのインパクトが残っていたからか? 確かに、あのときは痛快だった。あんなことが俺の 目の前で起こってくれたことが実に嬉しかった。世の中、まだまだ捨てたもんじゃないと思った ぐらいだ。しかし、今にして思えばやはりあのときは異常なことが起こっていたと考えられる。 そう、今の俺には、考えられる。

 電波だ。地震の前兆現象として発生する電波が、まず秋絵を狂わせ、次にその狂った秋絵と 話してしまった俺を狂わせたのだ。人間も、一種の動物に過ぎない。魚になってしまった 今の俺と同じように、あのときの俺も電波を受けて狂ってしまったのだ。
 あのとき、さらに秋絵の様子がおかしくなったのも、その後俺が鼻血を出して倒れてしまったのも、 電波の影響だったと考えられる。

 そうだ。電波だ。全て、電波が悪いんだ。俺は何も悪くないんだ。考えてもみろ。 俺のような善良な人間が、川井を死に追い込んだり秋絵が人を殺したのを喜んで見てたり するはずがない。全部、電波のせいだ。

 いや、違うだろ。

 俺は、感情の働きが鈍い人間だった。とりわけ情緒的な部分は鈍く、感動して涙を流した ことなどない人間だ。誰かに本気で同情や心配をしたり、まして劣情を抱くことはあっても 誰かを愛し、大切に思ったことなど一度もない。
 だからそのはけ口に、川井が死んだことを喜んだり、秋絵が人を殺したことに興奮したり してたんだ。

 俺はあのとき、秋絵が羨ましかった。自分の力で、退屈な世界を破壊した秋絵が羨ましかった。 俺は、昨日と同じ今日、先週と同じ今週、やってもいいことをしているだけじゃ何も変わらない レールに乗った日常の前に、無力だった。だが秋絵は、そのレールからいともあっさりと降りたのだ。 それが悔しかった。俺はあのとき、いつもとは違う目で秋絵を見ていた。俺はあいつに、 嫉妬したのだ。

 だからあのとき、俺は秋絵を見放すことにした。レールから降りたあいつは、もうどこにも 進めない。人生の落伍者だ。俺はたまたま、それをレールに乗ったまま見下ろすことができる 特等席に着いたのだ。
 まるでブラウン管の向こう側に映る不幸を見て、『自分じゃなくて良かった』と胸を撫で下ろす 大衆的な優越感。俺は秋絵を、自分より劣っているところを見て自分を慰めて満足感を 得るためのピエロとして見ていたのだ。浅ましい。浅ましすぎる。俺は、なんと浅ましい人間なのか!

 俺は、ダメだ。ダメなんだよ。ダメ過ぎる。消えてしまいたい。死にたいのではない、 消えたいのだ。死には苦痛がある。俺は死にたくない。死ぬのが恐ろしいのだ。 情けないだろ。

 しかし、もう終わりだ。死は目前に迫っている。ついに俺にも最期のときが来るのだ。 俺は十分に苦しんだ。もういいだろう? 俺は頑張ったじゃないか。実に長い間、永劫とも 思える苦しみを味わった。確かにシケた人生だった。俺自身は何もせず、ただ肉体を維持するために 義務的に息をしているだけだったし、挙げ句の果てに魚にまで成り下がってしまう始末だが、それでも なんとかこの世に生まれてきたんだ。それだけでも、よくやったと言ってもいいじゃないか。
 生まれてしまったら、生き続けなくてはならない。だが、生まれてきたときに『おめでとう』と 言ってもらえても、生き続けているだけでは何もなりはしない。他に何もしなければ、死ぬだけだ。 しかし、俺にはわざわざ生き続けてまでやりたいことなど何もない。死ぬのが怖くて生きている だけだ。
 そしてもはや、生き続けるという最後の望みも費えた。今の俺は、そのときを待つばかりだ。 もう、いいんだ。何もかも。

 本当だろうか。俺は、もう何も望めないのだろうか。このまま、この闇に埋もれたまま 何もできずに死が通過するのを待てるのだろうか?

 そんな疑念が脳裏をよぎった刹那だった。俺は、見た。見ることができた。光だ。一条の光だ。 眩いばかりの、一条の光が俺の視界を射抜いたのだ!
 俺は、光に向かって全力を尽くし直進した。迷いなどあるはずがない。ついに、闇は 開かれたのだ。光だ! 光が見える! もっと光を! 俺は何かに接触したが、そんなものには 構っていられない。さらに力を振り絞り強行する!

 瞬間、鋭い音と共に、世界が割れた。俺は、宙に躍り出ていた。光が交錯する、朝陽の中へと。

 夜明けの光を浴びながら、俺は宙を舞っている。その周りには水飛沫が飛び交い、朝陽を受けて キラキラと輝いていた。割れて落下するガラスの破片が床に落ちてさらに砕け散り、空気を震わせる 高音が静寂を切り裂いている。水槽から流れ出る水は勢い良く流れ落ち、滝のように美しかった。
 光はさらに強さを増し続け、俺の見る光景を一層輝かせる。単なる狭い室内だったはずの空間が とてつもない輝きに彩られ、俺は思考を失った。何かを考えるなど、もったいない。 俺の言葉はもとより思考でさえも、この光景の美しさを前にしては意味を失ってしまう。 そんなことより、今はただ感じるままにこの光景を見ていたい。

 輝いている。水飛沫やガラスの破片だけではない。空気中の塵や床の埃、壁の煤、いや、 空気さえもが誇らしげに存在を示し、ダイヤモンドダストのように輝いている。何もかも、 美しく光り輝いている!

 そうか。俺は、ようやく分かった。俺は、水槽の外に出てみたかったんだ。

 ああ、神よ、感謝の言葉を捧げます。この世界に生まれてきたことを誇りに思います。 世の営みの全てに、その美しさに、惜しみない賛美を送りましょう。ありがとう、ありがとう。
 素晴らしい幸福です。どんなちっぽけな存在にも、どんな猥雑な存在にも等しく価値を 認めることができるのです。いかなる罪をも許せましょう。いかなる罰をも受けましょう。 そして、生けとし生けるもの全てに心の底から祝福を。おめでとう。おめでとう。

 甘美で恍惚とした一瞬とも永遠ともつかぬ遊泳も終わろうとしていた。悔いはなかった。 俺は最期に、何物にも代え難い、かけがえのない一瞬を過ごしたのだ。平らな床が、重力に 任せたままに近づいてきた。俺の体は床に叩き付けられ、





 突然、腹部に激痛を感じた。

つづく

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