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立ち上がれないぐらい重力の重い正月 前編

 元旦。一年の始まりであるこの日、かなりの数の日本国民がそうであるように、 この部屋にいる二人もまた怠惰な時間を過ごしていた。
 あるいは日本人は、普段の生活があくせくしすぎている分だけこの日のように 思う存分怠惰に過ごして心ゆくまで退屈を満喫し、忙しく流れる日常の大切さを再確認 する必要があるのかもしれない。
 しかしそれでも、この文字通りおめでたいほどの退屈さはある種の苦痛を伴うもの であることには違いなかった。ましてや、カップルでそのような不毛な時間の過ごし方 をしているのであればなおさらだ。

「なあ、文恵」
「んー?」
「タバコ買ってきてくれねーか」

 和明はこたつにだらしなく寝そべって冬みかんを貪っていた。こたつの上には無数とも言える みかんの皮がこんもりと盛り上がっている。ただ単にテレビを見ているだけでは退屈だったので、 無意識のうちにみかんを手に取って次々と食べていたのだが、いい加減その行為にも飽きが来ていた。
 いや、飽きが来てからもなんとなく食べ続けていたのだが、人間には限界というものがある。
 他にすることなど全く見当たらないので、彼はとりあえずタバコで一服しようと考えた。何回も考えたのだが、彼は あいにくタバコを切らしており、そのために苦痛に喘いでいたのだった。

「自分で行ってくれば」

 文恵は気だるそうに、しかし冷徹に拒絶した。文恵というのは、当然彼女のことだ。
 彼女はこたつの反対側に、まるで彼と合わせ鏡のように寝そべって、ぼんやりとテレビを 眺めていた。みかんはあまり好きではないので、最初に一つ食べただけだ。別に、そんなことは この状況には何の関係もないのだが。

「頼む。一生のお願いだ」

 和明の言葉には、意味に反して誠意など全く感じられなかった。まあ、こんなお願いはどうでもいいことなので当然の ことなのだが、今の彼にはこたつから這い出して上着を羽織って外出するという手順が とてつもない大行事に感じられる。重力は倍化し、こたつの外界の空気は凍てつくようだ。
 そんな状態で彼に何が成せるだろうか。できることといえば、彼女に向かって助けを乞うように口を開く ことぐらいしかないではないか? 彼は全力を尽くしているのだ。

「どこが一生のお願いよ。だいたい、外がこんなになってるのになんで人にそんなことが頼める わけぇ?」

 文恵は窓の外の景色も見ずに言った。この日、この地域には風雪波浪警報が出されていたのである。
 そして、この部屋から見た窓の外はどうなっているのかというと。
 真っ白い景色の中に真っ白いものが、ものすごい勢いで真横に吹き荒んでいるのだった。
 ここが雪山で、二人で遭難しているという状況ならばさぞかしドラマチックな展開になっていたに 違いない。

「いや、頼むって、マジで。どうせ退屈だろ?」

 和明は、文恵の冷ややかな対応にも屈することなく懇願した。いや、屈するも何も、今や彼の精神は この部屋の怠惰極まった六畳間の空間にさえ敗北しているのだ。今更何を恐れるものなどあるだろうか。
 それどころか、彼の卑屈な精神は懇願という名の会話によって、退屈という この状況における最大の敵に向かって抗おうとしているのだ。

「イヤ。絶対にイヤ」

 文恵の思考には、この頼みを聞くなどという選択肢は存在しない。どうせ和明だって本当にこんな頼みを 聞いてくれるとは思っていないだろう。
 というより、この二人の間にはあまりにも退屈極まったために なんでもいいから会話らしきものを成立させようという、投げやりな共通認識があったのかもしれない。

「お前はどうしてそうワガママなんだ」

 和明は、果敢にも本気でそう発言していた。
 もちろん、文恵は困惑した。どう考えてもワガママなのは和明の方ではないのか?  いや、条件反射的に判断してもワガママなのはやはり和明の方ではないのか? それとも、この場の空気は そんな疑問なんてどうでもよくなってしまうぐらい腐っているのだろうか?

「……いや、あのね」
「どうせ退屈なんだろう。なぜこの状況を打破しようという気になれんのだ」
「あんたの言ってること、なんかすごくおかしいんだけど」
「何がおかしいんだ。俺の言っていることは正義そのものだぞ」
「ああ、イッちゃってる、イッちゃってる」
「俺が、何か間違ったことを言っているか!?」

 ここで文恵は、どうリアクションしたものか思考に詰まってしまった。和明も勢いのままに喋っていた だけだったので、文恵が黙ってしまうと彼も思考停止に陥る。短い沈黙が訪れた。
 その沈黙がなんだか可笑しかったので、文恵は思わず『ぷっ』と吹き出してしまった。

「くっ……くっくっく」

 文恵がなんだか妙なウケかたをするので、和明もつられて笑ってしまった。

「お、おい、そんなに笑うか、普通」

 言いながら、和明の笑いもどんどん止まらなくなっていく。ついに二人は爆笑に及んだ。その意味のない笑いは 数分間続いた。

「ダ……ダメだ。もうダメだ、俺達」
「はぁーっはぁーっ、ああ、くだらなかった」

 やっと笑いは収まり、二人はなんとか平静に戻ろうと懸命に努めた。

「ほんっとサイッテーな正月だよねぇ。本当はさぁ、正月の過ごし方ってこういうんじゃないような 気がするんだけど。せめて初詣ぐらい行くとかさぁ。これじゃ、家族とゴロゴロしてる普通の正月と 変わらないんじゃない?」
「仕方ないだろう、この天気じゃ」

 実際、和明は二人で初詣に行こうと思って文恵の家までやって来たのだが、途中であまりにも天候が悪化して しまったので仕方なく部屋に閉じこもっているのである。
 かといって天候が回復すれば初詣に行くのかというと、そんな未来のことは想像できないほど二人の気力は減退して おり、この状態から目的を見出すことなど不可能に思われた。確かに不毛な正月の過ごし方といえば、その通りだ。

「そんなことよりも」

 和明は、一拍置いて言い放った。

「頼むからタバコを買ってきてくれ」
「イヤ」

 文恵は、即答した。和明が何を言うのか分かっていたかのような即答ぶりだった。

「頼む。このままでは、俺は……」
「どうなるって言うのよ」

 気分的にはもうどうでもよくなっていたので、会話も投げやりなものになりつつあった。

「あ、そうだ。タバコやめたら。今この瞬間から。そうよ! タバコやめたら万事オッケー!  誰もタバコ買いに行かなくていいじゃん! ああ、あたしってなんて頭いいんだろ、るーるるるー」

 文恵の言葉はある意味真実ではあったのだが、タバコを買ってくるのが面倒くさかったので禁煙に成功した、 などという前例は聞いたことはない。考える価値もない事柄だった。和明は呆れて、天井を仰ぐことしかできなかった。

つづく

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