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立ち上がれないぐらい重力の重い正月 中編

 すでに場の空気は腐りきっていた。部屋の空気はこんなにも冷たいというのに、腐っているという最悪の状況。 外の吹雪は一向に止む気配がなく、おかげで文恵も和明に向かって『もう帰ったら』と言うことができずにいた。 この吹雪は、なんとかしてこの状態を打開しようという人間の意思を全く寄せ付けることはない。
 十四インチのテレビの中では名前の知らない芸能人達が無意味にお祭り騒ぎを慣行していたが、この部屋で ただ寝そべってそれを黙って眺めている和明と文恵は、それにすら劣るほど無意味な存在へと堕落していた。

「はぁっ……」

 文恵はため息とも欠伸ともつかぬ息を立てた。和明はそれに何の反応も示すことはなく、口を半開きにして ただ屍のようにテレビ画面に視線を固定させている。文恵も、そのことが何も気にならなくなっていた。 今や二人は、この部屋に沈殿した汚物のようなものだった。

「タバコ売ってるのってさあ」

 それでも文恵は、気だるそうに言葉を発した。

「一番近いの、そこのコンビニだよね」

 和明は、わずかに反応した。文恵の方からタバコの話を振ってくるとは。いい加減この状態に嫌気がさして、 タバコを買ってきてくれる気になったのだろうか? 和明の脳裏を一瞬だけ希望的観測がよぎったが、次の 文恵の言葉は和明の考えとは完全にベクトルの異なるものだった。

「なんでコンビニって、正月でもやってるんだろうねぇ」

 タバコではなく、コンビニ。文恵の振った話題の焦点はコンビニであり、タバコの話ではないのだった。 しかし、和明は落胆する暇もなく続けざまに文恵の話を聞かされた。

「コンビニなんて、休んでくれてればタバコ買いに行けなんて言われなくて済むのにさ。今じゃどこに でもコンビニあるから、正月ったってただの休みと変わんないよね。昔はコンビニなんて今より全然 少なくてさ、一月一日はどこもお店なんてやってなくて食べ物だってみかんとかお餅とかでさ、 『正月ってなんて不便なんだろう』って思ってたけど、今にして思えばあれで『ああ、正月なんだなぁ』って 実感あったんじゃない? 今じゃ正月でもコンビニでなんでも買えちゃうから、かえって何にもありがたくない っていうか。んん、なんて言ったらいいかなぁ。モラルって言うのかなぁ。また一つモラルが壊れたとか、 そんな感じしない?」

 文恵は、何かのキッカケで堰を切ったように突発的に喋りだすことがある。そんなとき、大抵の場合和明は ほとんど話についていくことができず、ただ相槌を打ちながら話を聞くことぐらいしかできないのだが、 今回は積もり積もった鬱屈した感情が彼に口を開かせる原動力となった。彼は口を挟んだ。

「それはただ単に、タバコを買いに行きたくないのをコンビニのせいにしているだけのような気がするんだが」
「……あんたねぇ」

 タバコを欲しているのは和明であり、どう考えても彼には文恵を非難する権利などはないのだが、 もちろんすでにこの場はそのような論理よりも感情が強く優先される、思考なき状態に陥っている。 文恵は、この発言に少々ムッときたので、ついにこの言葉を言ってしまった。

「帰ったら? 暇だし」

 あまりにもシンプルで力ある言葉だった。通常、カップルがお互いの気持ちを考えながらの会話では このような言葉は口にすることはできないであろう。だが、この場、この状況の空気は嘆かわしいことに、 そのような冷酷な言葉ですら容易には心に響くことはないほどに腐りきっていた。

「帰れってか、この天気で。そうだなぁ、俺もいい加減帰りたいんだけど、体が重いんだよなぁ。 なんかキッカケでもないと体が動きそうにないんだよなぁ」

 驚くべきことに、和明本人には無神経であるという自覚が全くなかった。文恵はイラ立って間髪入れずに 攻撃を続けた。

「あんたねぇ、そんなに動きたくないわけ? 体腐ってんじゃないの? 車で来てんだから吹雪いてたって どってことないでしょ。このままダラダラしてるより帰ったほうが百倍マシだって! 起きあがっちゃえば すぐだって! ほら立って、今すぐ! 速攻で!」

 いきり立ってまくし立てる文恵。彼女の言うことは正論であり、反論の余地などあろうはずはない。しかし、 寝そべったまま頭も動かさずに言っていたのでは、この言葉にまったく説得力がなかった。彼女だって、 起きあがるのは嫌なのだ。

「ぬう……」

 和明は、考える。この状態をこれ以上続けることは精神的に危険であるということは、彼も察知していた。 今起きあがることができたら、事態はどれほどスムーズに進むであろうか。今すぐ起きあがって、上着を 羽織って文恵の家の一階の玄関まで降りて行き、靴を履いて玄関の扉を開けるのだ。瞬間、強烈な風が 頬を撫で、雪が体の正面に吹きつけられ、それを受けた文恵が即座に『じゃあね』と言って暖かい茶の間に 引っ込んで行くのだ。そして彼は膝まで積もった深雪の中を、車までの距離十数メートルを歯を食いしばって 肩を震わせながら歩くのだ。そしてポケットから車のキーを取りだし、ドアのロックを解除して冷たいドアを 開けるのだ。素手で。
 苦難の道は続く。今度は車内からブラシを取り出して車に積もった雪を払い落とさねば。この吹雪で 車上に積もった雪の量はどれほどになるのだろうか。車の周囲を深雪に足を取られながらせわしなく 歩き回り、ブラシで車上の雪を残さず払いのけるのだ、もちろん素手で。もちろん、吹雪の中で。
 なんということか。今起きあがったら、そんなことになってしまうというのか。そのようなことは 認められない。

 苦悩。彼は苦悩していた。なんとかして、せめて吹雪が止むぐらいの時間までこの部屋の滞在時間を 延ばさねば。彼は考えた。もしかしたら、この日初めてまともに彼の頭脳を働かせた瞬間かもしれなかった。 しかし、こんなくだらないことのために頭脳を働かせてどうするのか、と呆れるだけの冷静さは 失っていた。

 ふっ、と場の雰囲気が変わるのが感じられた。いったい何が変わったというのか。和明は注意を払った。 しかしその理由は、一瞬の後に判明した。テレビがニュースの時間になったのだ。正月の特番ラッシュの中でも、 ニュースだけは普段とまったく変わらない形態で放送される。さすがに、ニュース番組の最中にまで バカ騒ぎを垂れ流すようなテレビ局は存在しない。なんとなく、正月ぐらい『芸能人がニュースキャスターに 挑戦』などという企画のバカバカしいニュース番組も見てみたいと和明は思った。

 ニュースの内容は、今年の初詣の参拝客の動向とか、各交通機関の利用状況などの正月には恒例のもの ばかりであった。和明は、今までテレビで流れていたバラエティ番組には何の関心も示さなかったくせに、 この五分間のニュース番組に限ってなぜか食い入るように見続けていた。
 そんな和明の異様な気配を察して、文恵は思わず問いかけてしまった。

「ニュース、そんなに面白い?」
「……いや」

 続く言葉を言うのに、和明はためらわなかった。精神状態はすでに異常であった。

「交通事故か火事で、誰か死なないかと思ってな」
「……は?」

 文恵は、当然の如く理解不能というリアクションを返した。
 彼は何を言っているのでしょうか。彼は、私の知らない遠いところに行ってしまったんでしょうか きっとそうに違いないです違いありません誰か彼を救ってください、などということを考えたわけでは なかったが、とにかく理解不能であることに違いはなかった。

「考えてもみろ。正月に人が死ぬと、普段より悲惨な感じがするだろ? 普段当たり前のように 交通事故のニュースをやってても、全然気にしないのに」
「まあ、そうかもしれないけど……で?」
「俺は決めたんだ」

 和明は、言葉通りの決意の面持ちで言った。

「ニュースで、誰か死んだら帰る」

 いつのまにか彼は上体を起こし、興奮した面持ちで拳すら握り締めていた。そこまで行ったのなら起き上がっても いいのではないかという考えは、とりあえず思いつかなかった。
 そしてそのころ文恵は、彼の非人間的な発言にうっかり爆笑してしまっていた。 このとき彼女は、自分は悪魔に魂を売り渡してしまったと本気で思った。

「何ワケわかんないこと言ってんのよ! 正気で言ってんの!?」

 言葉とは裏腹に、文恵はまだ笑っている。壊れてしまった。自分は壊れてしまったのだ。 文恵は頭のどこかで冷静に考えながら、笑い続ける自分を抑えることができない。壊れてしまったのだ。

『次のニュースです』

 ニュースキャスターの声に、二人は思わず反応した。二人の間に、言われなき緊張が走った。ただのニュースで、 なぜこれほどの緊張感を感じなくてはならないのか。ワケも分からぬ興奮が走り、背筋がゾクッとするのを感じた。 ニュースキャスターが一瞬目線を落とした原稿が、ひどく不吉なものに感じられた。このときの心境を例えるなら、 医者に『ちょっといいですか』と言われたときの入院患者の家族のようなものだろうか?
 二人は戦々恐々としながら、ニュースキャスターの次の言葉を待った。次の瞬間を。

『大学ラグビーの決勝戦が○○競技場で行われました」

 脱力感。
 急激な脱力感、そして安堵感に二人はふうっ、と大きく息を吐いた。ニュースキャスターは大学ラグビーの 決勝戦の内容を淡々と伝えていたが、もちろんもうそんなことはどうでもよく、二人は興奮冷め遣らぬ感覚を 満喫していた。

「……俺さぁ」

 ニュース終了後、ほどなくして和明が言った。

「ん?」
「タバコ買ってくるわ」

 あっさりと和明は立ちあがり、上着を手に取った。上着を羽織る和明を見ながら、文恵はただ「ああ、そう」 と頷いた。今までの腐った雰囲気はなんだったのだろうというほどの劇的な変化だったが、二人はもうそんな ことは気にしていない。部屋を出る和明を見やって「いってらっしゃい」と言った後、自分だけ寝そべっている のも耐えられなくなったので、文恵も起きあがることにした。
 気がつくと、吹雪の勢いもいくぶん収まっていた。

つづく

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