たとえ思いも寄らぬ出来事が起こったとしても、それに対処する術がなかった場合はむしろ 安心してしまうことはないだろうか。
それは要するに、『仕方がない』とか『どうしようもない』とか『俺のせいじゃない』とか、 そういう言葉で簡単に他人に状況を説明できて、なおかつ簡単に自分の責任を回避できる状態のことであり、 だから俺は何か良くない状況に遭遇してしまった場合はすぐに『自分の落ち度』を詮索して、それをあえて 見つけないようにすることで安心しようとしてしまうのだ。
もちろん、そういった考え方をしていると明らかに自分に責任がある場合に相当痛くて苦しい 思いをしなくてはならない。
そのくせ、自分に責任がない場合は知らん振りである。
だから俺は、『責任感の強い性格』というのは他人の場合でも自分の場合でもあまり好きじゃなくて、 実はものすごく後ろ向きな考え方なんじゃないかと思ってしまうのだ。たった今手に取った図面を見ながら、俺はそういうくだらないことを考えていた。
「課長、分からないところがあるんですが」
俺が声をかけると、課長はものすごく嫌そうな顔をして俺の方を振りかえった。
俺が入社した頃に比べると、数倍に白髪が増えた頭。しわ寄せを受けるたびに刻まれつづけて、 すっかり顔面に定着してしまった眉間のしわ。いつも肩を落として工場の中を歩くその姿は、 何か重いものを引きずっているかのようでもあった。
俺は、あろうことかその課長に対して、誰も望んでいない問いを発してしまったのだ。
このとき課長の額に滲んでいた汗は、おそらく今日の暑さのせいだけではあるまい。
罪。
この言葉が、俺の胸中に去来する。「この図面、『センターではないのでは?』って書いてあるんですけど、これはどういう」
「ああ、まだ連絡来てないんだわ。ちょっと待っててくれんか」課長は俺の問いを遮り、迫り来る納期の脅威をさらに強めるが如き回答を発した。
課長、納期は今日なんです、そのことは課長も十二分に理解されているものと俺は信じています。
それなのに、どうしてそんな悠長なことが言えるんですか。「たぶん、今日のトラックに間に合いませんよ」
この図面には、『納期急ぎます』などという、人の強迫観念を煽り立てるようなコメントが 添えられていた。別にそのこと自体はよくあることなのでどうでもいい。納期に間に合わせるのが 俺の仕事だ。
しかしなぜ、その同じ図面で、寸法の指示に『センターではないのでは?』などというユーモラスな 意見が述べられているのか。俺は一目見たとき当事者であるにも関わらず、笑いを堪えることができなかった。「いやあ、悪いけどトラックに待ってもらうから片梨君さあ、ちょっと残ってやってくれんか」
ああそうですか、構わないです、構いませんとも、残業だろうがなんだろうが。
俺の責任でさえなければ。
ひどく憂鬱な気分で、俺はトイレに向かった。
気分の悪いときは、トイレに入るととても落ち着くものだ。
尿意という裏付けのある動機により、一時的な職場放棄が許されるという聖域。
俺はトイレにいるときは、あたかも息苦しい俗世間から開放されたかのような錯覚にさえ陥るのだ。トイレに入ると、タイルの床が水浸しになっていた。バケツの中に雑巾から絞られたドス黒い汚水が溜まっている。
大便側には、掃除のおばちゃんがしゃがみ込んで便器を磨いているのが見えた。
ああ、掃除中か。
俺は気にしないで、小便側の便器の前に立つとファスナーを下ろし、パンツの中で蒸れていたそれを 引っ張り出すと、消臭器目掛けて勢いよく放尿した。
ジョボジョボという下品な音が、耳に心地よい。
しかし、この放尿が終わったら現実と向き合わなければならないことを考えて、また嫌な気分になる。
何が悲しくて、俺がこんなことを。
別に俺が残業をするのに俺の側に理由がなかったとしても、この問いを発さずにはいられない。
工場で働いていると毎日がこういうことの繰り返しで、このループはおそらくこの工場が不況で潰れるまで 続くのだろう。
慣れてくると、こういう気分で仕事をするのが普通になってくる。工場は、人生の終着点のような職場だ。 こんな工場は早く潰れてしまえばいいのに、その工場を維持するために俺は仕事をしているのだ。 なんという不毛な仕事なのか。いったい、俺のやっていることに、どんな価値があるというのか?いかん。マイナス思考に入っている。こんなことを考えていては仕事にならない。
この嫌な気分を少しでも紛らわそうと、俺は何気なくトイレ掃除のおばちゃんに声をかけた。「今日は暑いっすねぇ」
この日は今年初めての真夏日で、雲一つない晴天を呪わしげに見上げる者も少なくはなかった。
このクソ暑いときに、残業とは。人の心も、マイナス思考に傾くというものだ。「…………」
妙だな。返事がないとは。いつもなら、むしろ向こうから気さくに声をかけてくるおばちゃんなのだが。
不審に思った俺が後ろを振り向くと、赤面している若い女の子の顔がそこにあって、彼女と目が合ってしまった。「ぶっ!?」
な、なんだ!? いつものおばちゃんだと思っていたら、全然違ったのか!? なんでこんなところで、 こんな女の子が、トイレ掃除なんてしているんだ!? いやそれよりも、俺はこんな状況で平然と放尿を していたのか!?
さきほどの残業の告知などとは比べ物にならない『思いも寄らぬ出来事』に遭遇し、俺はパニックに 陥っていた。
ちなみに、このとき俺の放尿はまだ終わっていなくて、驚きのあまり横に逸れてしまった小便が俺のズボンを 直撃してしまったことは、なるべくなら彼女に悟られたくなかった。