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トイレット・ガール その2

「片梨さん片梨さん」
「なんだよ」
「あのトイレ掃除の子、名前なんていうんでしょうねえ」

 後輩の立川が、満面の笑顔で俺に訊いてきた。その表情は、待ち焦がれた給料日に見せるそれよりも 遥かに活き活きしているように見えた。まるで、この世のオアシスでも見つけたかのような浮かれようだ。
 俺はなんとなく立川が浮かれているのが不愉快だったのでそっけなく作業に戻ろうかと思ったが、 全く無視するというのもなんなのでせめてそっけなく話の相手をしてやることにした。

「さあな、訊いてみろよ、本人に」
「いやあ、俺なんて、そんなこと恥ずかしくて訊けないっすよ、片梨さん訊いてきてくださいよ」

 こいつは、本当に嬉しそうだ。確かにこんな女とは全く縁のない職場に、いきなり若い女の子が 毎日来るようになってしまったのだから浮かれるのも無理はないだろうが、俺はあまり露骨に浮かれるのは なんだかみっともないような気がしていた。

「自分で訊けよ、自分で!」
「なんですか片梨さん、そっけないですねえ、名前訊いてくるぐらいいいじゃないですか」
「いや、俺はいい」

 俺はあくまでもそっけない返事をすることに徹した。
 まともに話をしているとこいつのペースに巻き込まれるのは目に見えていて、そうなると話はロクでも ない方向に発展していくのは過去の経験から嫌と言うほど知っていたからだ。

「何言ってるんですか、ひょっとして照れくさいんですか?」
「照れくさがってるのはお前だろ。自分で訊いてこいよ」
「いや〜、俺なんてウブな青少年ですから、知らない子に名前を訊くなんて〜」

 こいつは、何を言ってるんだ。しかも仕事中に。

「ああそうだ、今度二人で一緒にトイレに行きましょう」

 立川はポンと手を打って、嬉々として提案してきた。俺は呆れて苦笑し、厳かに作業に戻ることにしたが、 その前に立川に冷たく言ってやった。

「社会人にもなって、連れションかよ」





 新しく来るようになったトイレ掃除が若い女の子であるという話は、瞬く間に工場内に広がっていた。
 何しろ、一人として女性のいない職場で何年も、いや、何十年も働き続けている人もいるが、とにかくそのような むさ苦しい環境に長年慣れ親しんでしまっていると、その同じ空間に突如として「見知らぬ若い女の子」が現れる などという出来事は、言ってみれば「革命的な一大事」として俺達の目には映ってしまっていたのだった。
 それは家畜が群がるべき餌であり、主婦が群がるべきバーゲンであり、追っかけが群がるべきアイドル であった。

 実際あのトイレ掃除の女の子は、そのような劣悪な環境がもたらす価値観の錯覚を差し引いても十分に かわいいと俺達は信じて疑わなかった。
 背が低くて、ちょっと童顔で、慣れない手つきであたふたとモップを往復させるあの仕草。
 肩より少し伸びた髪の毛をゴムで束ねただけのシンプルなヘアースタイル。多少枝毛が混じっていて どことなく苦労性な印象を受けるところが、むしろ家庭的な雰囲気を醸し出しているように思える。 後姿がおばさんくさいという欠点を気にする者など、一人としているはずがなかった。
 さらに、掃除をしているときの頼りなさげな姿は、オヤジどもの保護欲を大いにそそるらしい。
 一度、あの子が間違って水の入ったバケツをひっくり返してしまったときなどは、工場のオヤジどもが こぞってトイレ掃除を手伝っていたものだった。たまたま仕事が暇だったとはいえ、これは工員にあるまじき行為であり 課長からは「お前ら、仕事しろよ」と小言を言われるものと思われたが、その子を課長が一目見た途端自分まで手伝い出した その姿は、見る者に感銘と失望を与えたものだ。
 だがそれより何より、あの子の最大の魅力は、なんといっても掃除の最中に俺達がトイレに入るだけでいちいち 顔を真っ赤にして恥ずかしがるというところにあった。確かに慣れていないとけっこう衝撃的な体験かもしれないが、 彼女はふてぶてしかった前任のおばちゃんに比べると極端に恥ずかしがり屋さんであるらしく、いつまでたっても トイレでの俺達との遭遇に慣れる事はなかった。その様子は、俺達に「彼女はいまどき清純派なんだ」という 幻想を植え付けるには十分過ぎるほどだった。

 そんなわけでこの工場の中では、あの子がトイレ掃除を始めるとこぞってトイレに駆け込んで行くという 情けない習慣が流行していた。立川などはこの習慣のために、仕事中にどう考えても尿意を我慢しているとしか 思えない素振りを見せている。きっと、そのときのあいつの小便は普段より勢いよく上向きの角度で射出されているに 違いない。
 今や俺達の雑談の内容の七割はあの子の話で持ちきりで、休憩室では誰が最初にあの子の名前を聞き出すんだ、など というたわいのない話題で盛り上がったりしていた。

 ただ、俺はなんだかそんなあの子のことが妙に可哀想になってしまって、あまりその話題を喜んで することはないのだった。別に、自分がフェミニストだとは全然思っていなかったのだが。





 タイミングが合わないように気をつけていたとしてもどうしようもないときというのはあるもので、 俺は彼女が雑巾を絞っているその横で小便をチョロチョロと放尿していた。
 横目でしゃがみ込んでいる彼女を見ると、相変わらず耳まで真っ赤にしている。いい加減、 慣れることはないのだろうか。
 俺は彼女に何か声をかけようかどうしようか、などと考えたりしていたが、結局何を話しても ちゃんとした回答は返ってこなさそうな気がしたので、そのまま黙って放尿を終えた。

 どうして今まで彼女の名前を訊いた奴がいないのかというと、何か話しかけてもこの子は 恥ずかしそうに口ごもるばかりで、全然会話にならないからなのだった。
 とはいえ、全く話ができないわけではないらしく、例のバケツを引っくり返したときなど何か 失敗をしたときには「すいません、すいません」と必死に謝っていたりする。
 どうやら、極度に内気な性格のようだ。もちろん、立川などは「そこがいいんじゃないですか」などと 言ってはばからないが。

 俺が手を洗っていると、課長がトイレに入ってきた。
 課長は小の便器の前に立ち、ファスナーを下ろすと開口一番、彼女に向かって言い放った。

「君、名前はなんて言うんだい?」

 ぶっ!?

 まさか、課長が! 課長が、そんなことを言い出すとは!
 俺は驚愕し、課長の顔を見た。
 すると課長は俺だけに見えるようにニヤリと不敵な笑みを見せ、その目配せは『甘いな君も』と語っている かのようだった。
 一方課長に対する彼女は、相変わらず「あ……え、ええと」などと言っておろおろと口ごもるばかりだった。

「実は、薄々気づいていると思うけど、君が来てから社員の働く意欲が低下していて困るんだよ。 そこで、もう少し君にも社員にもこの状況に慣れてもらいたくてねえ。最近は君の名前が気になって 夜も眠れない困った奴らが多くて、ハハハ。悪いけど、名前教えてもらえないかなあ」

 課長は俺が聞いたこともないような気さくなしゃべり方で彼女に名前を問い正していた。
 俺はその課長の思わぬ一面を目の当たりにしたことに困惑し、蛇口から水を出しっぱなしにして この場を見守ることしかできなかった。

「あ……と、そ、そうなんで……すか。すいません」
「ハハハ、謝らなくていいよ」

 俺すらも油断してしまいそうな課長の気さくな笑いが、トイレの中に満ちた。
 同時に、課長の小便が流れ出る音が絶妙なBGMとして相乗効果を生んでいた。

「……あ、ええと、私、うつのきっていいます」

 意外なほどあっさりと、彼女は自分の名前を明かした。
 課長の実力に、俺は戦慄と嫉妬を覚えていた。

「ハハハ、肝心なのは下の名前じゃないか、ファーストネームはなんていうのかな?」
「あ…………はい、さとみ……です。うつのき、さとみです」

 ためらいながらも、彼女は名前を明かした。
 うつのき、さとみ。
 良い名前だと思った。
 彼女に似合っていると思った。
 そして、その名前が課長によって明かされたことに、やり場のないやるせなさを感じた。

「そうかあ、さとみちゃんかあ。いろいろと工場の連中にちょっかい出されて大変じゃない?  良かったら、相談に乗ろうか?」
「は、はあ」

 課長、あなたには愛する妻子がいるのではないのですか?
 こんなところでセクハラをかましている場合ですか?
 朝礼で、社員に向かって「社員であることを自覚し、作業に集中すること」などとのたまうあなたが、 こんなことをしていていいのですか?

 この後、俺に促されてトイレを出るまで、課長の口説き文句がその舌の上で踊っていた。
 課長、俺はもう、あなたを尊敬するなんて、俺には、とても。

つづく

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