「片梨さん片梨さん」
「なんだよ」
「あのトイレ掃除の子の名前、ついにわかりましたよ!」またしても、俺は立川の無駄話に付き合わされようとしていた。
こいつは、この話題になると相変わらず満面の笑みを絶やさない。
別に話をするのはいいのだが、無駄話なら休憩時間にして欲しいものだ。
俺は作業の手を止めずに、そっけなく言い返した。「知ってるよ。宇津乃木里美っていうんだろ」
先日、課長によってあっけなく本人から聞き出されたトイレ掃除の女の子の名前が、『宇津乃木里美』だった。
本人の口から直接聞いたのは俺と課長の二人だけだったのだが、彼女の名前は瞬く間に工場中に知れ渡っているらしい。
別に俺は自分からこの話を面白がってしたりはしないのだが、それでも彼女の噂というのは工場の中で絶えたことは ないので、皆に知れるのも時間の問題だったというところか。得意げに彼女の名前を吹聴して回る課長の姿が、 目に浮かぶような気がした。
まあ、そんなことはどうでもいいのだが、あの子の名前を聞き出したのがよりにもよって課長だと いうところに、俺はなんだか妙な悔しさを感じていた。「なあんだ、知ってたんですか。片梨さんのことだから、まだ知らないと思ってましたよ」
「お前な。俺をなんだと思ってるんだ」確かに、俺は休憩時間などにもあまり同僚と話をしたりすることはない。人の輪に入ることが苦手なのだ。
だから立川とも、向こうから話しかけられない限りほとんど話をしたりはしない。
たぶん、俺はつまらない人間なんだと思う。
まあ、無理して自分を変えようとして疲れるのは嫌なので別に構いやしないのだが。
課長が名前を訊いた現場にたまたま居合わせたことを今言わなかったのも、そのことで立川にいろいろ 訊かれるのが嫌だったからだ。
つくづく俺はこういう奴なんだと考えてしまう。
そして工場で働いていると肉体は忙しくても頭脳は暇なので、後ろ向きなことを考え出すと際限がなくなって しまって始末に負えない。
そんなときに便利なのは、『どうでもいい』という安直な結論だった。
いつものようにトイレ掃除の女の子が現れると、工員達の視線が重力に引かれるように一点に集まった。
その視線の束は、彼女の足取りに合わせるかのようにやがてトイレの方向へと移動していく。
作業の手を止めぬまま視線だけを一様にあらぬ方向に向けている工員達の様子は、滑稽というよりは 異様と呼ぶにふさわしい。
俺達は、こんなことをやっていて情けなくはないのだろうか。思わず自問自答してしまう。
さらに俺自身が情けないと思ったのは、彼女を見て条件反射的に尿意を感じてしまったことだった。いや、いかん。これは恥ずべきことだ。俺は、彼女の掃除が終わるまでトイレに行ってはならないことを 自分に課した。
今トイレに向かうことは、俺自身を工場の他の連中と一緒のレベルにまでおとしめてしまうことを意味する。
それだけは尿意を我慢することと引き換えにしてでもやってはならないことだった。
そうとも。今、トイレに行ってはならない。
ただ、今の問題は機械が自動運転を終えるまで俺の手が空いていることだ。この空き時間を何か有効に 使うことを俺は考える。
だが、考えても考えても、今作業効率を高めるために俺にできることは皮肉にも、この尿意を処理することしか 思い浮かばないのだった。仕方がない。俺はあっけなく妥協し、トイレに向かって一歩を踏み出した。
そのときだった。
立川が作業の手を止めた。
そして奴も、トイレに向かって歩き出すのを俺は見た。
明らかに俺がトイレに向かうのを見て、それに対抗するために立川も動いたとしか思えなかった。
「なんだよ、ついてくるなよ」二人で並んでトイレに向かいながら、立川に牽制の言葉を浴びせる。
しかし立川も、それを楽しむように言い返してきた。「何を言ってるんですか、抜け駆けはダメですよ」
「お前、今やってるの今日が納期のだろうが! 早くやれよ!」
「そんなもん楽勝で間に合いますよ。片梨さんの方こそヤバイんじゃないですか?」
「俺は今、たまたま手が空いたんだよ!」そんなことを言い合いながら、俺はトイレのドアを開けた。
見ると、トイレ掃除の女の子は大便のドアを開けようとしているところだった。
俺達はトイレの中に足を踏み入れる。
一瞬、彼女が俺達に気づいて目が合った。
すると突然、驚いた様子でバタン!とドアを閉めてしまった。「す、すいません!」
なんだ? 何を謝っているのだろうか。
まあ、こちらから話しかけたとき以外の場合では、 彼女の第一声は「すいません」と決まっているのだが、今の場合は謝られてもなんだかよくわからない。
そして慌てた様子でバケツを持って、急いでゴムホースを通して蛇口をひねってから水を出そうとする。
ホースの突っ込みが甘い。そう思った俺が止める前に、水道の隙間から水が飛び出てホースは暴れ狂った。「わああっ! すいません!」
水飛沫を受けながら、大慌てで蛇口を閉める彼女。
な、なんなんだ? 何をこんなにこの子は慌てているんだ?
俺達はわけのわからない思いにとらわれながら小便をするのも忘れて、この短い時間に起こった 慌しい光景を眺めていた。
「里美ちゃんさあ、今日暇? 良かったら、仕事終わってから飲みに行かない?」小便をしながら、気さくな素振りをして彼女に声をかける立川。
おいおい、こっちの名前も知らない相手に『里美ちゃん』か?
並んで小便をしながら、俺は立川の馴れ馴れしさに不快感を感じていた。「ああ、そうだ、名前言ってなかったっけ、俺、立川。こっちの無愛想な人は片梨さん。面白い名前でしょ」
悪かったな。無愛想で面白い名前で。
「で、どう、今日? 明日は仕事休みだし」
下心を隠そうともしない様子で話しかける立川。対する彼女はというと、バケツに注がれる水を凝視したまま、 立っているのか屈んでいるのかわからない体勢で黙ってモップを握り締めている。
「……いや……いいです……私……そういうのは……ちょっと……」
なんとなく、彼女の様相がいつもと違うような気がした。
思わず立川と顔を見合わせる。俺と同じく、彼女の挙動を不審に思っているようだった。
よく見ると体が小刻みに揺れているし、顔には脂汗が滴っている。いやいや、むしろ、明らかに様相が 違っているんじゃないか? これはどう見たって、我慢の限界が来ているようにしか思えない。「あのさぁ……」
何気なく、俺が口を開いた。
「ひょっとして、トイレ使いたいんじゃないの?」
ハッとした様子で、彼女が俺の方を見た。
天啓でも授かったかのように、緊張の糸が緩むのが確認された。
どうやら、図星のようだ。
たぶん、俺達がトイレに来たときに彼女が驚いてあたふたしていたのも、誰も来ないうちに用を足してしまおうと していたら突然俺達が来てしまったせいだろう。
「あの…………使ってもいいんでしょうか」
この期に及んでも彼女は、これ以上恥ずかしいことはないといったような様相で顔を真っ赤にして 俺に尋ねてきた。放尿を終えた俺は、そんな彼女がたまらなく可愛らしいと思いながらファスナーを 上げた。
「仕方がないんじゃないか。トイレ、ここしかないんだし」
「あ……じ、じゃあ、あの、すいません」彼女は恥ずかしそうに言いながら、急いで大のトイレに入ってドアを閉めた。間を空けずにガチャン!と カギを閉める音がする。
俺と立川は、一言も口をきかずにただ黙って手を洗うと、そそくさとトイレを後にした。
はずだった。トイレの入り口に、ただ黙って歩哨のように佇む俺達の姿があった。
今まさに、普段俺達が使っている便器で、彼女が用を足している真っ最中だった。
俺達は工場内の騒音を耳から振り払うように聞き耳を立てている。
女の子は、ウンチなんてしない。
俺にもそんな幻想を抱いていた時期があった。
分かっていても、頭から追い出してしまいたい現実がある。幻想とはそういうものだ。
今となってはそんな幻想は妄想の中で汚れてしまった。
だが、それでも俺の人生では実体験の中でその幻想が崩れたことは一度もなかった。
今、それが現実に、初めて間近なところで崩されようとしている。
確かに崩れようとしていた。
だが、今、俺達がこの現実から目を、いや、耳を背けることができないのはなぜなのか。
俺達はいったい何を求めてここに立っているというのか。
答えは、すぐそこに迫っていた。
聴覚が極限まで研ぎ澄まされる。
俺達は、知った。答えを。
邪なカタルシスを感じながら、今度こそ俺達はそそくさと持ち場に戻った。
俺達って、最低だと思った。