俺は今、苦境に立たされていた。
トイレで起こりうる不測の事態の中でも、最もありきたりなものだ。
ズボンを下ろした状態で便器の上にしゃがみこみ、トイレットペーパーの芯を空しく握り締めている。
紙がない。いったいどうすればいいのだろうか。
便の状態は、あまり良好ではない。
その日の腹具合と食べた物次第では、ごくまれに尻が全く汚れない、紙を使ってしまったのが 悔やまれるような快便が出ることもあるのだが、あいにく俺が昼食に取ったのは近所のラーメン屋の 味噌ラーメン。
腹に力を込めたときには、ケチャップの容器から空気が吹き出るような音がしたものだった。
尻がこのままの状態では、ズボンとパンツを上げることはできそうにないのは明白だった。トイレ内の沈黙は、十数分に及んでいた。
まあ、体よく仕事をサボることができるのは別にいいのだが。
トイレの中は一種の聖域であり、現実逃避の思考にふけるには持ってこいの場所である。
この外界から隔絶された、心地よい静寂。
トイレに長くこもる人間を責めることなど、少なくとも今の俺にはできないような気がした。
しかし、そこから脱出不可能という状態は如何ともし難いものがある。
それがこのような情けない理由によるものなら、なおさらだ。
俺は、やはり便器の上にしゃがみこんだ情けない体勢のまま、ため息をついた。そんな俺の思索も、ついに終わりを告げるときが来たようだった。
ついに誰かが、トイレに入ってくる気配があったのだ。
ドアが開けられ、ガシャン、とステンレス製のバケツを置く音がする。
バケツ? バケツだって?
トイレにバケツを持ってくる人間といえば、限られている。…………あの子か…………。
また、ため息をついてしまった。
よりによってこんな情けない場面で、あのトイレ掃除の子が現れてしまうとは。
このことを立川にでも知られたら、しばらくの間は笑い話のタネにされてしまうだろう。
いやそれ以前に、この前の、彼女がトイレを使っていたときのことを思い出さずには いられない。あのときとは逆の状況だと考えると、一層情けなくなる。
しかし、ためらっている場合ではない。
他に誰かが来る前に、とっととトイレットペーパーを取ってくれるよう頼まなくては。
俺は気が進まないながらも、しぶしぶと声を上げた。「あのー、すいませーん」
なぜか丁寧語になってしまう。
「は、はい?」
驚いた様子で、返事をする彼女。慌てて辺りをキョロキョロ見回す彼女の姿が、目に見えるようだった。
「……紙、切れてるんだけど」
やっぱり、こんなことを頼むのはなんとなく恥ずかしいような気がする。
「…………あ、ああっ! す、すいません!」
何やら、慌ててバタバタと駆け出すような音と、モップの柄が壁に当たる音と、バケツがガランガランと 転がるような音がして、俺はいたたまれなくなった。
すぐに彼女が取って返すように戻ってくるような気配が伝わってくると、彼女が息を弾ませているのが分かった。 かなり一生懸命のようだ。何をそんなに頑張っているのだろう?「え、ええと、う、上から投げますよ?」
「おー」投げやりな返事をして、俺はトイレットペーパーのロールをキャッチする。
ああ、やれやれ。
とにかく、これで窮地は脱した。かなり気恥ずかしい思いもしたが、工場の誰かに知られることも なかったようだし、これで一安心だ。
俺は急いで後の処理を済ませて、そこから脱出した。その後、洗面台で手を洗っていると、珍しく彼女から声を掛けてきた。
「あ、あのー……すいませんでした。私、うっかり忘れてて、その、すいませんでした」
なんだか、本気で申し訳なさそうな様子だ。こんなことは前のトイレ掃除のおばちゃんのときだって しょっちゅうだったのだが、彼女にとってはとんでもない大失敗だったらしい。
こんな態度を取られると、俺はまたしても彼女がトイレを使っていたときのことを思い出してしまい、 こっちが申し訳ない気持ちになってしまう。「いや、別にいいんだけど」
取って付けたような返事をしてしまう俺。
待て待て、他に何か言うことがあるんじゃないのか?
俺は別に、こんなそっけない素振りをしたいわけじゃなくて。
何か、言うことがあるような気がする。
そして短い思考の末に出てきた言葉が、これだった。「それより……嫌になんないか? こんなとこでトイレ掃除なんてやってて」
これでいいのか、俺? なんか、違うような気がするぞ。
自分の発言を推敲している俺に対して、彼女は彼女で思うところがあるのか、発言の内容を吟味 しているようだった。彼女が口を開くまでに、何秒かかったのだろうか。
俺は水道の蛇口を閉じる。
ようやくといった感じで、彼女は答えた。「……嫌、というほどでもないんですけど……あ、でもやっぱり嫌かもしれないですけど……でも、 前の仕事、長続きしなかったし、だから今度の仕事は頑張って長く続けようって……そう思って…… ええと、だから、嫌でも頑張ろうかなって、そう思ってるんですけど」
しどろもどろながらも、やけに彼女は一生懸命話していた。
こんなに彼女の口から出る言葉を、一辺に聞いたのは初めてだった。
それが、俺はなんとなく嬉しかった。「ふーん、前の仕事って何やってたの?」
「あ、スーパーでレジやってたんですけど……向いてないんですよね……やっぱり私、こんなんだし…… お客さんを相手にするのって、ダメみたいです、はは」うつむきながら、力なく笑う彼女。
確かに彼女は、とても接客業、ましてや慌しいスーパーのレジに向いていないことは一目瞭然だった。
本人もそれを自覚せざるを得ないところがなんだか痛々しい。
俺は、もしかしたら彼女に言いたいことなんて何もなくて、ただ単に話がしたいだけだったんだと思う。実際、 彼女とこんな風にまともに会話をしたのは初めてだった。
だから、そんな俺がこんな話を聞き出すのも悪いような気がしてきた。「そうか……でも、自分に向いてる仕事に就ける奴なんて、そんなにいないしな。長く続いてたって、向いてる かどうかなんて、わかんないしな。俺も、工場の仕事は嫌だし」
「そ、そうなんですか?」
「好きでやってる奴なんて、いないと思うよ。入ってすぐ辞めた奴も多いし」俺がそこまで言うと、短い沈黙が訪れた。
気がつくと、気楽にさせるつもりがどんどん会話が後ろ向きになってきてるような気がする。
いやいや、これはまずいだろう。
彼女が『頑張る』と言っているのに、やる気をなくさせるようなことを言ってどうするんだ!?
俺は、すかさず話題を変えることにした。「あ、そうだ、高校どこだったの?」
言うと、彼女の沈黙はさらに長引いた。
……ああ、もしかすると、これはまずいぞ。
また何か嫌なことでも思い出させてしまったんだろうか?「……高校は……行ってないんです」
うああ、やっぱりそんなところか!
……って、高校行ってないのか!?
じゃあ、まだ歳なんて、全然……確かに、ちょっと幼い顔立ちだとは思っていたが。「……まあ、気にすることはないと思うよ。俺も高校中退だし」
俺は、取り繕うようにしか言えなかった。
やっぱり、情けない人間には情けないことしか言えないんだと、俺はわかった。「え、そうなんですか?」
驚いた顔で訊いてくる彼女。
自分と似たような境遇の人間だとは思いも寄らなかったのだろうか。
まあ、俺もあまり人にこんな話はしたことはないのだが。「こんな工場だからなぁ。俺以外にも、けっこう中卒の奴とかもいるんだよ。この前の立川もそうだしな」
「あ、この前の……立川さんも、そうなんですか……ええと……」訊きずらそうに口ごもる彼女。うつむきながら、上目使いで俺の方を見ている。
ええと、この場合はこれでいいのか?「俺? 片梨。面白い名前だって言われてただろ、この前」
「あ、片梨さん、ですね、そうでした、そうでした」少し笑いながら、モップに手をかける彼女。
俺の名前なんて覚えても、嬉しいことなんてないと思うんだが。
さて、仕事に戻るとするかな。
俺は出口のドアのノブに手をかける。
そのとき、ふと思いついて去り際に彼女に声をかけた。「なあ」
「はい?」
「頑張るのもいいけど……無理して、続けることもないと思うぞ」たぶん、本当に言いたいことは、こんなことじゃなかった。