工場のトイレ掃除が宇津乃木里美という女の子に代わってから、一ヶ月が過ぎようとしていた。
最初の頃は、女性との出会いのチャンスなど皆無だった工場の連中は浮かれまくって、彼女が掃除に現れる度に 意味もなくトイレを多用していたものだったが、最近はと言うと、やはり以前として隙あらばトイレに駆け込もうと する連中が後を絶たなかった。状況は全く変わっていない。
まったく飽きもせずによくも毎日毎日そんなことのためにトイレに行くタイミングを調節できるものだと、 感心してしまう。そんなに見知らぬ女の子の前で小便をするのが楽しいのだろうか。工場の連中は揃いも揃って 変態じみた趣味の持ち主であるらしい。自分で自分を恥ずかしいとは思わないのだろうか。
などと、彼女がトイレを使っていたときに聞き耳を立てていた俺自身のことは棚に上げて考える。ただ、前と変わったところがあるとすれば、少なくとも俺がトイレを使う時間帯だけは、確かに変わったと思う。
俺は、実は最近は、彼女が掃除中のときはめっきりトイレに行かなくなっていた。彼女がトイレ掃除に来る時間はだいたい決まっていて、俺はその時間が来る前に確実に尿意を処理するようになった。
おかげで、最近はすっかりあの子とトイレで出くわすこともなくなっていた。
別に顔を合わせるのが嫌になったわけではないのだが、彼女の前で堂々と小便をしようとも思わない。
心境の変化というのだろうか、俺はついこの前彼女が口にしたことを、しきりに思い出してしまうのだった。『……高校は……行ってないんです』
工場には俺も含めて高校を出ていない人は珍しくもなかったのだが、それでもそんな工場の連中と彼女を繋げて 考えたりはしていなかった。だから、高校を出ていないと聞いたときには驚いたものだったが、確かに 改めて考えてみれば、仕事でトイレ掃除をしているような女の子の経歴に口にしづらい部分があることぐらい 簡単に想像がつく。
だから、何も高校がどこだったかなんて訊くことはなかったし、きっと他にもいろいろ訊かれたくないことも あるだろうと思う。
俺も高校を辞めたときは親を筆頭に周りから散々なことを言われて嫌な思いをしたし、そのときのことはもう 思い出したくもない。
だから一応、彼女がトイレを掃除している間は少しでも嫌な思いをする要因が減るようにと、俺は 掃除中にトイレには行かないことにしているのだった。
もっとも、工場の連中が相変わらずトイレに通っていたのではほとんど変わりはしないだろうが。そんなことを、俺は工場の裏で立ち小便をしながら考えていた。
いや、やっぱり、気をつけていてもどうしても小便をしたくなってしまうことはあるものだ。
軽犯罪と言うなかれ。
立ち小便は、ストレス解消にも持ってこいなのだ。
そうか?と疑問符が頭をかすめるが、そんなことは気にしたくもなかった。
たった三十分ほどの残業が、やけに腹立たしい。立川や他の同僚はとっくに帰っていて、 俺はやけに静かな工場でただ一人、明日の朝イチでトラックに積む製品を仕上げていた。
といっても、やっていることは機械の自動運転が終わるのを待っているだけのこと だったのだが。
それも終わって、手早く掃除を済ませると俺はいつも通りタイムカードを押して家路に つこうとした。
工場の明かりは全て消えていて、夕焼けがコンクリートの壁をオレンジ色に染め上げている。
電線にとまっていた最後のカラスが、飛び去って行くのが見えた。
残業明けの心境で、思わずフォークソングでも口ずさみたくなるような風景に感慨にふけっていると、 トイレにまだ明かりがついているのに気づいた。
消し忘れだろうか。
しょうがないな、と思いながら、トイレに向かう。
ところが近づくにつれて、物音と人の気配があるのに気づいた。
誰かいるんだろうか。もう、工場には誰も残っていないはずだが。
不審に思って、トイレの中を覗いてみる。
するとそこには、あのトイレ掃除の宇津乃木里美ちゃんが、スッポンを手に和式便器と格闘する姿があった。「……トイレ、詰まってんの?」
「わあっ!」声をかけた俺の方が驚いてしまった。彼女はビクゥッ!と大げさに肩を震わせるとスッポンを取り落とし、 壁に背中を押し付けて驚愕の表情を浮かべている。
だが、俺を見て知った顔だと知ると、安堵の表情に変わって大きく息を吐いた。「あ、ああ、ビックリしたぁ。え、ええと、か、片梨さん、どうしたんですか? こんな時間に」
「ああ、残業だったんだ。今帰るところだったんだけど」こうやってこの子と会うのも話をするのも、ずいぶんと久しぶりな気がした。
彼女が掃除中の間はトイレに行かないことにしたのは、ずいぶん最近のことなのに。
彼女が俺の名前を覚えていたのも、なんとなく意外だった。「あ、そうなんですか。……あ、これは、トイレ詰まっちゃってたんですけど、なかなか直らないんですよね。 これ、あまり使ったことないんで、なかなか上手くいかないです、はは」
彼女はそう言うと、照れくさそうにスッポンを持ち直した。
今まで、ずっとこれで便器を相手に悪戦苦闘していたのだろうか。「どれ、ちょっと貸してごらん」
俺もスッポンを借りて少しの間試してみたが、スッポンは言語を絶するような不気味な音を立てて便器の水を 波立たせるだけだった。
あまりにも不快な作業だったので、俺は即座にこう言った。「これは、今日はもうダメだと思うな。明日になっても直らなかったら、専門の業者を呼ぶしかないかな」
「あー……やっぱり、そうですか……」彼女も仕方なく、あきらめて帰り支度を始めようとした。俺は、この発言を聞いてそう思った。
ところが、次の彼女の言葉は、俺の予想とはだいぶ違っていた。「じゃあ、もうちょっとやったら帰ります」
そう言うと、彼女はまたスッポンを持ち直して黙々と作業を続けようとした。
「いや、これはもうダメだと思うんだけど……だからもう、帰ってもいいよ?」
あまりにも彼女はひたむきというか、真剣な表情になっていた。このままだと、ずっとあきらめずに 便器との格闘を続けそうな勢いだ。便器の詰まりぐらいで、そんなに遅くまで残らなくても。
そう思って俺は言ったのだが、彼女はあきらめの悪い性格なのか、納得のいかない表情で言い返すのだった。「でも……これじゃ明日、トイレが使えないじゃないですか?」
「いや、まあ、そうなんだけど……いざとなったら、近所の公園のトイレでも使えばいいんだし」
「……うーん、でも……」彼女はあくまでも今日中にトイレを使えるようにしたいらしい。
こんな仕事で、そんなに頑張ることはないと思うのだが。
そういえば、この間もそんなことを話したような気がするな。「……わかったよ」
俺は、ため息まじりに言った。
「じゃあ、もうちょっとやっていこう。俺も手伝うから」
「え、そんな、いいですよ」
「いや、なんか、このままじゃ俺もスッキリしないし」
「いや、でも、もう時間が遅いですよ」
「いいから」それから、二人で交代でスッポンを使って作業を続けることになった。
いくらやっても全然手応えは感じなかったが、とにかく俺達は作業を続けた。
俺達は、いつしかわき目もふらずにスッポンを上下させるようになっていた。
その間二人で交わした言葉は、ほとんど「ダメだな」「ダメですね」だけだったが。
正直言って最低の作業だったし何も充実していることはなかったが、あきらめずに意地になってみるのも たまにはいいもんだな、とこのときは思い始めていた。