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トイレット・ガール その6

 世の中というのは悲しいことに、努力しても報われないことがあまりにも多い。
 たぶんそれは事実だと思うし、俺自身も今までの人生でそのことは散々思い知ってきたように思う。
 いや、そうじゃない。
 俺は、たいした努力なんてしたことはないのかもしれない。
 努力を続けることはつらいことだから、いずれその結果を出せる可能性と秤にかけて見返りを求める ようになってしまう。
 結論を出すのは簡単だった。自分なりに根拠を持っているところが、やるせなさを増大させる。
 続けることがつらくなってからも続けることが努力なのだとしたら。
 俺は、本当の努力なんてしたことはないような気がする。

 詰まった便所を直そうと、延々と便器の穴にスッポンを突っ込みながらこんなことを考えているのは、 俺ぐらいなんじゃないかと俺は思った。

「あのー……」

 トイレ掃除の女の子、宇津乃木里美ちゃんが、恐る恐るといった感じで声をかけてきた。
 今まで彼女と二人で交代で作業していたのだが、こんな調子で話しかけてきたのはずいぶんと 長い時間一緒にやっていて初めてのことだった。

「……もう直りそうもないですから、そろそろやめませんか?」

 彼女の方からそんなことを言い出すとは、意外だった。やたらとあきらめの早い俺がここまで 作業を続けていたのは、この子の熱意に引きずられてのことだったのだが。

「え? もういいの?」
「あ、はい、もうこんな時間ですから……」

 そう言って、彼女は自分の腕時計を指し示した。

 ……しまった! 毎週欠かさず見ていたドラマの放送時間を、とっくに過ぎているではないか!
 なんということだ! ビデオの留守録を入れておかなかったばかりに、こんなことに!
 完全に、俺の油断が招いた結果だった。こんな時間まで工場にいるなんて、たとえ残業があったとしても あり得ないと思っていたのだ! 俺としたことが! なぜ、このことを忘れてこんな実りのない作業に 打ち込んでいたのだ!
 なんという不覚。後悔の念が、心に重くのしかかる。自分が許せない。自分のことが腹立たしくてたまらないのだ!

「……あ、もうそんな時間か。じゃあ、帰ろうか」

 内心の動揺を隠し、何事もなかったかのようにこんなことを言ってしまう俺。

「あ、そうですね、はは、帰りましょう」

 愛想笑いをしながら、相槌を打つ彼女。今日はずいぶんと長いこと一緒に作業していたのに、未だに どこか会話をするのが堅苦しそうなところがある。心底、人と話すのが苦手なんだろう。彼女の愛想笑いが、 妙に切なく見えた。
 その感情は一瞬、ドラマを見逃して後悔していたことなんて俺の頭から忘れさせてしまっていた。

「じゃあ、片付けよう」

 そう言って彼女から視線を外して、スッポンを引っこ抜こうとする。
 やるだけやってあきらめたときの清々しさはあったものの、なんとなく名残惜しいような気がした。
 しかし、これ以上作業を続けるつもりは毛頭ない。
 そのことをハッキリさせるべく、俺はスッポンを抜いた。
 そのとき、ゴボッという今までになかったような手応えがあったような気がした。

 ……え? 嘘だろ?

 筆舌に尽くし難い不気味な音と共に、便器の穴の底から何か白いものと茶色いものが、その醜悪な姿を 晒すべく、亡者のように這い出そうとしているのが見えた。俺達は一瞬息を呑み、次に息を吸ったときに 鼻腔に空気が触れた。これは紛れもない悪臭であると、誰かが判断を下したような気がした。
 俺達は、抑圧から開放されたように全力で反応した。

「うわっ、なんだよ、くせぇっ!」
「な、なんかひどいニオイですねぇっ」
「いや、マジでメチャクチャくさいって! 気持ち悪いし!」
「うわっ、なんかどんどん出てきますよ!」
「誰だよ、こんなの出したの!」
「あっはっは、でっかいですねぇ」

 俺達は、半ば狂乱状態に陥っていた。





「送っていこうか? もうこんな時間だし」

 後片付けが終わって、さあ帰ろうというときになって、俺はごく自然にこの言葉を口にしていた。
 普通にこんなことを言えた自分にちょっと驚いてしまった。

「あ、いやそんな、いいですよ、家、すぐ近くですから」

 遠慮がちに言う彼女だったが、全然拒否しているように見えないのは俺の都合の良い錯覚なんだろうか。

「すぐ近くだったら、なおさら遠慮することないって。じゃあ、電気消すよ?」
「あ、はい」

 俺は自分の自転車を押しながら、彼女と夜の歩道を並んで歩いた。
 頭巾に前掛け、それに長靴という、見慣れたトイレ掃除の格好を脱ぎ捨てた彼女は妙に新鮮で、 見続けて見飽きてしまうのがもったいないような気がして、俺はまともに彼女を見られなかった。
 街灯の明かりが彼女を照らしていて、通い慣れた夜道がいつもより眩しいような感じがした。
 少しの間かしばらくの間かはわからなかったが、とにかく俺達は黙って歩いていた。
 その沈黙を最初に破ったのは、彼女の方だった。

「あのー……今日はつきあわせちゃって、すいませんでした」

 本当に申し訳なさそうに、彼女は言った。さっきの狂乱状態のときはこの子も意味不明な爆笑を していたような気がするのだが、いくらなんでももうそのときの変なテンションの高さはない。
 ただ、いつもの口ごもった口調よりも自然に話しているような気がした。
 むしろ、俺の方がけっこう緊張しているのかもしれなかった。

「ああ、いや、別にいいよそんなの。それより、トイレ直って良かったな」
「あ、はい、そうですね」

 安心したように、彼女は笑った。
 自然に笑った彼女は、とても可愛かった。
 俺はまたしても何も言えなくなってしまい、結局そのまま彼女の家の前まで歩き続けてしまった。
 彼女の家は本当に工場から近くて、きっと勤め先の清掃会社もこの近くなんだろうな、などとこの期に及んで どうでもいいことを俺は考えていた。

「じゃあ、今日はありがとうございました」

 そう言って、ぺコッと頭を下げる彼女。
 俺は照れ笑いを返しつつ、これでいいのか俺、と自問自答を続けていた。
 どうするんだ。たぶん、こんな機会はもう二度とないぞ。何か言うことはないのか。
 焦りの中から、様々な言葉が脳裏に浮かんでくるようでまったく浮かんでこなかった。
 彼女が背中を向けて家の戸を開けようと手を伸ばした。
 俺は、思わず声をあげていた。

「あ、里美ちゃん」

 初めて、名前で呼んでみた。

「はい?」

 振り向いて、俺の方を見る里美ちゃん。視線が合ってしまうとさらに緊張が高まり、必死にまともな思考を しようとする俺と、それを冷静に罵倒する俺が混在しているような状態になって、次の言葉を案出するのに 不自然に時間がかかってしまった。

「……あ、あのさぁ、今度の日曜空いてるかな?」

 まあ、こんなところが精一杯だった。実際、俺の頭の中はそれどころではなかったのだが、とりあえず 言葉を形に出したのだ。意味なんかはどうでもよくて、後は彼女の返事待ちという状態に持ち込んだことで 俺は一気に気楽になったような気がした。
 が、すぐさまそれはとてつもない不安に取って代わった。
 彼女が、実に申し訳なさそうな表情で俺を見ていたからだ。

「……あ、あの、すいません……日曜は、ちょっと用事があるんです、すいません……」

 なかなかショッキングな返答だった。ああ、やっぱりそうなのか。まあいいさ、世の中こんなもんだ、 などという潔い言葉がいくらでも浮かんでくる。

「……あ、そっか……じゃあ」

 あきらめの良すぎる負け犬のように振りかえり、自転車を反転させようとする俺。
 ただそのとき、彼女は頭を下げながら、なおも言葉を続けていた。

「あ、あの、日曜日は本当に用事があるんです、すいません、本当にすいません」
「ああ、いや、いいって、しょうがないよ。じゃ」

 できるだけ平静を装い、俺は逃げるように自転車を漕ぎ出した。
 考えてみたら、なんで『じゃあ、来週は?』と訊かなかったんだろう。
 俺は、ただ自転車を走らせていた。いつもの、通い慣れた通勤路を。

つづく

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