「片梨さん片梨さん」
「なんだよ」
「里美ちゃんとつきあってるって、本当ですか?」
「ぶっ!?」思わず作業の手が止まってしまい、俺は立川に驚愕の表情を晒してしまった。
なんてことを訊いてくるんだ、ストレートに。脳裏に、この前の情けない自分の姿が甦る。
作業中に無駄話をするのは立川の悪い癖だが、今日の話は少しタチが悪い。
俺は内心の動揺を抑えつつ、普段通りの自分のリアクションを返そうと賢明に努めた。「何言ってるんだ、立川、そんなわけがないだろう。どこから、そんな話を聞いてきたんだ」
言った後、やや会話に間が生じた。その短い間は、しまったちょっと言葉が多かったんじゃないかとか、 これで俺が動揺しているのが悟られてしまったのではないかとか、立川は俺の内心を見透かして嘲笑っているのでは ないかとか、そういった被害妄想気味な連想を俺に起こさせるには十分過ぎる間だった。
胃液が不必要に分泌され、頭脳は俺の意思とは関係なしに緊張状態を作り出そうとしていた。「えっ。こんな噂はとっくに皆に広がってますよ〜。片梨さん、自分で言いふらしたんじゃないんですかあ〜?」
こいつは、俺が本気でそんなことをするとでも思っているのか。いや、そんなわけはない。 決して長いつきあいではないとはいえ、俺の性格はこいつだってわかっているはずだ。
要するに、俺はからかわれているのだ。立川に。
こんな根も葉もない(本当はあって欲しい)噂で後輩にからかわれるのは、屈辱的なことだった。「そんなわけがないだろう。いったい、なんでそんな話になってるんだ」
「いやあ、なんか課長がいつものように里美ちゃんにちょっかい出してたらしいんですよ。 そのときに、里美ちゃん本人から聞いたらしいじゃないですか、まったく、片梨さんもやりますねぇ」
「ちょっ、ちょっと待て!」本人から聞いただと!? 里美ちゃんがそんなこと言うか? あのときは日曜空いてるかって訊いただけで、 何もなかったんだぞ? なんかその噂、どっかで拡大解釈されてないか!?
「なんかそれ、たぶん誤解してるぞ? 話が、間違って伝わってないか?」
「え、違うんですか。じゃあ、間違ってない話はどんな話なんですか?」容赦なく突っ込んでくる立川。『いいから仕事に戻れよ』とでも怒鳴りたくなってくるが、ここで そんなことをしてしまったら俺の敗北が確定してしまう。ここは、真実をできるだけかいつまんで 説明する他に選択肢はなかった。
「……この前俺が残業したときに、遅くまでトイレが詰まってたのを直そうとしてたから、 ついでに手伝ってたんだよ。遅かったから、帰りは家まで送ったけど」
「へえ、家まで送ったんですか」立川の悪意丸出しの笑顔が、俺の不愉快な気分を逆撫でした。
「家まで送ったんだよ。いいから、仕事に戻れよ」
と俺が言った途端、工場に午前の終業のベルが鳴り響いた。
もうそんな時間だったのか。
立川が勝ち誇ったように休憩室に引き上げて行く。
このまま、昼の休憩時間まで今度は工場中の連中にこの話題に付き合わされるのか。
気が重い。重すぎる。
いったい、俺が何をしたというのか。
なぜ、俺がこんな目に遭わなくてはならないのだ。
俺の平穏な昼休みを、返してくれ。
どこか工場の連中が近づかない、誰からも話し掛けられない場所に俺を連れて行ってくれ。そうだ。俺はある考えを思いついた。
逃げよう。俺は被害を最小限に留めるべく、ひっそりと工場を抜け出した。
持ってきた弁当は、晩飯に回す。
ためらいなく一日の献立の変更を決意し、俺は近所のラーメン屋に一時退避すべく、自転車を走らせた。
俺の身に、極めて深刻な問題が起こっていた。
いったい、誰にこんなことが予想できただろうか?
今俺の身に起こっている恐るべき事態に耐えることに比べたら、猛吹雪の雪山でイチゴシロップのかき氷を 食べ続けることすら喜んで容易に行えるに違いない。
忘れようとしても、頭から追い出そうとしても、背筋に寒気が走るたびに歯を食いしばって思い起こさずには いられない。
俺は作業を続けながら、必死に目に見えぬ戦いを続けていた。額から流れる汗は、真夏日の昼下がりに 感じる暑さのせいだけではあるまい。腹の中でそいつが暴れるたびに、戦慄にも似た悪寒が走る。
どれだけ我慢を重ねようとも、一向に事態が収束に向かう気配がなかった。
限界。
この二文字を、何度恨めしく思ったことか。
まさに俺が直面しているのは人間に我慢の限界はあるのかという永遠の命題に他ならず、そして俺がこのことで 苦しんでいることは他の誰にも悟られてはならないことなのだった。
これは、罰なのだろうか。
工場の休憩室で噂話の肴にされることが嫌で、ラーメン屋に逃げ込んだ俺に天が与えた、罰だというのか?
そんなバカなことがあるはずはない。
俺は空しく自問自答する。
ならば恨むべきは、ラーメン屋のオヤジであろうか。確かに腹の調子が良くないときにあの店のラーメンを 食べて後悔させられたことは何度もあった。
しかし、よりによってこんなときに。
今、工場のトイレはあの里美ちゃんが掃除している真っ最中だ。
そして俺は、だからこそトイレに行くこともできずに、ただじっと耐え続けるしかないのだった。この下痢に。汗だけではなく、涙すら出かかっている状態だった。目線は限りなく垂直に近い下すら見ることができず、 あごを上げることすら大変危険な状態だ。下痢とは、これほどまでに人間の体を痛めつけるものなのか。
筋肉の緊張を少しでも緩めると、途端に奴らが肛門に向かって雪崩込んでくるのがわかる。
一瞬の油断も許されない。最悪だ。
俺は何度となくトイレの方向を見て、里美ちゃんが掃除を終えて出て行く姿を期待する。
しかし、未だに彼女の掃除は終わっていないらしい。
それというのも、工場の連中が入れ代わり立ち代わりトイレに入っていて邪魔をするからだ。
あいつらは、いったい何をやっているんだ。
早く出て行ってやれよ、バカどもが!
心の中で呪いの言葉を唱えながら、俺はトイレの状況を気にしていることを周囲に悟られぬように、 視線を外した。ついに里美ちゃんが掃除を終えて、トイレから退出する姿が確認された。
一日千秋の思いとは、このことか。
急いではならない。慌ててはならない。落ちつけ。落ちつくんだ。
俺は彼女の姿が視界から消えるのを見届けると、厳かにトイレに向けての一歩を踏み出した。
思いがけず、息が荒いでしまう。できるだけ早足にならないように気をつけつつも、 視線はトイレに向けて一直線だ。もう、誰も俺を止めることはできない。俺は、勝利を目前に控えた 心境で、トイレのドアを開けた。ドアのカギを開けると、一瞬の後に俺はズボンを下ろして便器にしゃがみ込んでいた。
ああ、なんという達成感と安堵感。俺の安全は、ついに保証されたのだ。
長い長い戦いはついに終わりを告げ、高らかに健康の尊さを謳うことができるのだ。
あとは、体の望むままに任せよう。俺は筋肉の緊張を緩めようとした。
そのときだった。
信じられないことが起こった。
最悪のショーが、幕を開けようとしていた。「あ、あの、片梨さん?」
きっとこのときの俺の目は、驚愕と絶望にくわっと見開かれていたに違いない。
その声は、紛れもなくあの里美ちゃんのものだった。
信じられなかったが、冷徹な事実だった。「あ、あの、すいません、ずっと話したいことがあったんですけど、普段ここでしか話ができないものですから、 あの、こんなときにすいません」
なんてことだ!
なんて非常識な行動なんだ、里美ちゃん!
頭が弱いのか、里美ちゃん!
今、こっちはそれどころじゃないんだよ、里美ちゃん!
話を聞きたいのは山々だが、今やその優先順位は俺が直面している事態に比べたら遥かに下だった。「……ええと、この前、日曜日に用事があるって言ってましたけど、あれ、ちゃんと話しておかないと、 と思ったんですけど」
今はそんなことどうでもいいから!
一刻も早くここから立ち去ってくれ!
頼むから!
ここは危険なんだ!「あの、日曜日の用事って実は」
一度堰を切ってしまった流れは、もう誰にも止めることはできない。
腹の中で暴れまわっていた悪魔が、ついに俺の抵抗を掻い潜っていくのが感覚として確認された。
そのとき、お前はこういう奴なんだ、肝心なときにはいつもダメなんだ、それがお前なんだと、そいつに 嘲笑われたような気がした。
どこか遠いところから、連続した激しい爆発のような音が、確かに聞こえた。「…………」
「……………………」俺はかつて、これほどまでに屈辱的な沈黙を体験したことはなかった。