最終回 レッド・セミナー#11 敗北
「くふ…くふふ」私は殺戮にも似た快感に狂喜していた。今やVBの画面上で対峙 しているCPUの対戦相手など、本の狭間に舞い降りた蚊のような ものだった。私がページをめくるようにキャラを操作するだけで、 対戦相手は紙面の汚れのように潰れ失せるのだ。
脳内麻薬物質が私の頭脳を駆け巡っていた。それどころか、それ はまるでVB本体にまで行き渡っているかのように、私のプレイを 熱くたぎらせるのだった。私は私の肉体を意識しておらず、意識は VBの中に入り込んでいた。もはや私は、思考ではなく計算で世界 を認識することができるのだ。
そしてVBは、バーチャルボーイ を超えた存在となっていた。
私には何も見誤るものなどなかった。真実は計算の地平線上に確 たるものとして存在し、計算が弾き出す結果は常に一つである。迷 いなど介入する余地はない。0か1か、継続か終局か。
ついに最後の子羊が姿を現した。私は最短で、あっけなく叩き潰 した。ゲームは終了し、世界が一瞬でブラックアウトしていった。 意識も、また。
目を覚ますと、驚くべき鮮やかな色彩が私の網膜に飛び込んでき た。最初、私は赤と黒以外の色を認識することが出来ず、視覚が正 常に働くまでに数秒の時間を要した。「驚きましたよ。まさかテレロボクサーをクリアするとは」
唐突に声を掛けてきたのは、私にVB拷問装置を仕掛けた張本人、 VB同好会会長その人だった。
私は激情に駆られ、身を起こした。頭が風船のように軽かった。 私の体を拘束するものは全てはずされていた。「貴様……許さんぞ」
私は会長に掴み掛かり、拳を振り上げた。拳は会長の頬を捉え、 彼は仰向けに倒れ伏した。
「そうとも! 私は絶対に許しはせんぞ。必ず訴えてやる!」
私が吠えたまさにそのとき、会長の指が銃声のように鳴り響いた。 その瞬間、私にとっては畏怖すべき電子的な旋律が流れてきた。
「うおおああああっ!」
亀裂が走るように、私の頭を激痛が走り抜けた。頭蓋骨は軋み、 脳細胞はドス黒く汚染されてゆく。涙腺が水門のように開き、涙が 止めどなく溢れ出てきた。
「やめろ! テレロボクサーッの曲なんか止めるんだ…!」
会長は私のうめきを聞いて、勝ち誇ったように立ち上がると、お もむろに傍らに置いてあったテレビの電源を入れた。
そこには、VBの拷問装置を被せられ、周囲のVB同好会会員に 見守られて絶叫している私が映し出されていた。耐え難い羞恥心の呵責に、私の心は押し潰されそうだった。頭の 中は脳髄に至るまでビリビリとした衝撃に襲われ、胸が苦しくなり、 呼吸は乱れた。激しい動悸、息切れに耐え切れず、私はうずくまっ て、こみあげてくるものを、吐いた。
私はこのとき、テレビに映されているものが自分の姿であること を嫌というほど認識していた。心理的な防衛機構が、どれほどまで にこの忌まわしい映像と記憶の一致を信じまいとしても、私の心が、 脳が、臓腑が間断なく悲鳴をあげるのだ。
恥ずかしい。なんと恥ずかしい姿なのだろうか。だが、私なのだ。 私は自分の最も恥ずべき姿を、見せつけられたのだ。不意に、会長が壁際まで歩いていき、壁の電灯スイッチを切った。 一瞬にして、辺りは闇に包まれる。私は注意を引かれ、少し顔を上 げることができた。このまま、闇と共に消えてしまえたら、と私は 考えた。
そのときだった。パッ、パパッという間隔の後に、閃光のような 赤い照明に、室内が照らされた。「ぐおおおぉぉぉっ!」
刹那にして、私がVBを装着していたときの苦痛に満ちた世界観 が、脳裏に甦った。赤い、赤い世界。狂気を湛えた赤い光。温かく も冷たくもない、錆びた鉄のような赤。狭い。動けない。閉じ込め られている!
こんなのは間違っている。どんな人間でも、こんな異常な状態に 耐えられるものか。このままでは狂ってしまう。出してくれ。こん なのは耐えられない。もう耐えられない。私は走った。この狂いかけた歯車を破壊してでも止めなくてはな らない。破壊だ。破壊、するんだ。
私の前頭部に衝撃と痛みが走った。頭を、壁に打ち付けたのだ。 さらに頭を振り上げ、何度も何度も壁を頭で叩く。痛みになどかま っていられなかった。なんとしてもここから出なくてはならないの だ。
幾度か頭を打ち付けたところで、私は頭から血が出ていることに 気づいた。壁に赤い染みが付着している。それは、赤い色だった。 目の中に、血が入ってきた。
私は急激に脱力感を感じ、がくりと膝をついた。倒れそうになる 体を、かろうじて床に手をついて支えた。内臓がキリキリと収縮し、 再び絞り出すように、私は吐いた。
それと共に気力を失い、すがるように悲痛な思いで会長を見上げ た。「…許してくれ…。お願いだ。耐えられない。もう…。許してくれ」
見ると、会長は駄犬を見るかのような侮蔑の眼差しで私を見下ろ していた。その口元に、冷酷で邪悪な笑みを浮かべている。
「どうしても許して欲しいですか」
「……はい……」そのとき、彼の双眸に何らかの企みが成功したときのような怪し げな光が宿った。気がつくと、どこからともなく取り出したVBの 箱を抱え、私の方に差し出してくるではないか。
「ならば、このVBを定価で買い取ってくれませんか」
「買います…買わせてください」私は即答した。この苦しみから逃れるためなら、VBを定価で購 入する屈辱さえも安いものだった。
ところが会長は、私の返答を無視して説明を続けていた。「このVBは、1980円で買ったものを改造しようとしたのですが、 ものの見事に失敗してしまいましてね。まるで使い物になりません。 買い取ってくれると非常に助かるのですが」
「か、買います。お願いです」
「いやあ、参りましたよ。顔を傾けることによってVB本体の傾き を感知して方向を入力する、言うなれば『首デバイス』を使用して さらにバーチャルなゲーム感覚を実現しようとしたのですが」
「うう…早く売ってください」
「技術的に問題点がありまして、安定した操作を行うためにはVB 本体の重量が相当なものになってしまうのです。そうなると当然ユ ーザーの首に相当な負担がかかってしまう…」
「も、もう何でもいいですからぁ!」
「必然的に軽量化を目指して本体の部品を削っているうちに、使用 不能になってしまったのです。傷ましいことをしました。こんなも ので良ければ、売ってあげないでもありませんが」
「買います…ぜひとも……買わせてください…」
すでに心身に異常を来していた私には、そう言って一万円札と、 五千円札一枚ずつを差し出すのが精一杯だった。
「そうですか。それほどまでに売って欲しいのであれば致し方あり ませんね。あなたの熱意には負けましたよ。売って差し上げましょ う」
彼は嘲笑を浮かべてそう言うと、私の手から剥ぎ取るように一万 円札と五千円札を奪い取った。そして、彼はVBの箱を私の手に差 し出してくる。私は箱を受け取った瞬間、自分が完全なる敗北を喫 したことを悟り、意識を失った。
あれから数日。私は奇跡的にも、社会復帰を果たしていた。しか し、おそらく生涯残るだろう忌まわしい記憶と屈辱は消えることは あるまい。私はもうVBユーザーの取材に携わることはないだろう。
彼らから受けた陵辱に屈した私に、もうVBを語る資格などあり はしないのだ。そして語る価値を見い出すこともない。これ以上、 VBユーザーについて語ることができる存在がいるとすれば、それ は彼ら自身に他ならないのだ。
知られざるVB 終