「……マーニャ!待ってよ、ねえ、マーニャってばぁ、待ってよぉ。」
遠くから呼びかけるちょっと甘い声にマリアが立ち止まると、黒い三つ編のおさげ髪を振りながら幼馴染みのターニャが駆け寄って来た。
「はぁはぁ、母さんが『後でシチーを取りにおいで』って言うのを忘れたって……。」
「ありがとう。じゃお母さんの世話が済んだら暗くなる前にもう一度行くね。」
そう言うとマリアはまた歩き出した。
「それとね、マーニャ、母さん明日はパンの焼き方を教えてくれる…って……。」
雪が水鳥の羽毛のように舞う中、足早に歩き続けるマリアの後をターニャが遅れまいとついてくる。
「待ってよう……。もう、マーニャは歩くの早いんだからぁ。」
「早くないわよ。ターニャがのろまさんなのよ。」
のろまと言われた事で仲良しの幼馴染みはちょっとすねた顔になった。
「そんなんだからだめなのよ。慌てたって何の得にもならないよ。まったくマーニャのその気忙しい所はやっぱり母さんに似たのね。髪の色が違ってもマーニャも日本の人なんだから、もう。」
「えっ……。」
綺麗に編み込まれた金色の髪に積もっていた雪を払い飛ばすような勢いでマリアはターニャの方を向いた。
「……わ、私は、……私は日本人なんかじゃないわ。ロシアで生まれたのよ!ロシア人よ!たとえお母さんが……。」
碧色の瞳に怒りを湛えながら投げつけるように言葉を吐いた。
「ターニャまでそんな事を言うの?」
「ごめん、そんなつもりで言った訳じゃ……。」
あやまる友達の言葉を振り切るようにマリアは駆け出した。
「私は、……私はロシアで生まれたのよ。この国で。」
走りながら叫ぶ彼女の言葉は吹雪のなかでかき消されていった。
乱暴にドアを開けて家の中に入って来たまま、身体に積もった雪を払おうともせずにいるマリアの胸が、切らした息で大きく波打っている。
「マリア?おかえりなさい。今日は遅かったのね。」
薄暗い部屋の奥のベッドから声がかかった。
その言葉を無視するように台所へ行くと彼女は水がめの中から柄杓ですくった水を飲み干した。
水を飲んでも胸が落ち着かない。
「寒かったでしょう、外は吹雪いてるのね。こちらへいらっしゃい。」
たった今、自分が幼馴染みの言葉の何に傷ついて来たのか、目の前の母親の姿を見て再確認させられ、やり場の無い想いが一気に噴き出していく。
「いやっ。」
「どうしたの?ねえ、何かあったの?お母さんに聞かせて。」
どんなに腹立たしくても、いや感情が高ぶっているからこそ、母親の言葉に引き付けられていく。
「お母さんは何故ロシアにいるの?」
マリアは母親の黒い髪と瞳を凝視したまま不貞腐れたように問いかけた。
「マリア。それは……。」
「……どうしてお母さんはロシアにいるの?どうして日本に居なかったの?なぜ私はお母さんの子供なの?どうして?なぜ?お母さんは……。私は、私は……。」
興奮したマリアの矢継早な質問に驚き、母親は掛け布団の端をめくりあげ、ベッドの上に座り直してマリアの方へ両手を差し延べた。
「ねえ、マリアお母さんの側に来てちょうだい。」
その言葉に促されて彼女は母親のベッドに腰掛けた。
払われなかった雪が温かい部屋の中で解け出してマリアの髪を伝って雫になる。母親はベッドサイドのタオルを取るとマリアの髪を優しく拭った。
「大きくなったわねぇ。もうお母さんより背が高くなるのも時間の問題ね。」
かつて異国の地へ嫁いで来たたおやかな大和撫子の姿は、その後の彼女の人生が平坦ではなかった事と治る見込みの無い病の為にみる影も無かった。
しかし唯一その黒い瞳の中に宿る意志の強そうな光はそのまま娘の碧色の瞳にも受け継がれている。
「私はなぜ、お母さんの子供なの?どうして眼の色も髪の色も違うの?どうしてお母さんとお父様の子供なの?」
「ごめんなさいね、マリア、また誰かにお母さんの事言われたのね。」
すまなそうな母親の様子に自分が理不尽な怒りをぶつけていると気付きはしたのだが、一度堰を切ってしまった感情は簡単には元に戻れなかった。
「違うのお母さん、違うの……。」
そう言うとマリアは母親の胸にすがりついて泣き出した。
「お母さんは、お父様と出会ってロシアに来た事も悔やんでいないし、あなたを生んだ事もとても嬉しかったわ。」
「……。」
「あなたがお父様とそっくりなこの髪と瞳で生まれて来たことも、私にとても良く似ているあなたの性格も。嬉しくて大切に思っているわ。」
「お母さん、お母さん私は……。」
そのまま泣きじゃくるマリアの金色に光る髪を撫でながら、母親はつぶやいた。
「もしあなたがお母さんの生まれた国へ行くことがあったら、そう、もしもだけれど。其の時にはこの髪の色も瞳の色も誇りに思って欲しいわ。忘れないでねマリア。」
そう言われてマリアは母親の黒い瞳を見つめ返した。
「たぶん私はもう日本へ帰ることは出来ないでしょうから。」
「お母さん……。」
9歳という年齢の彼女は、育ちはじめたその身体にあわせるように自分の中で芽生えた感情を母親にぶつけながらも、たやすく小さな子供に戻れるだけの幼さの特権もまだ併せ持って
いた。
それからの事はマリアの記憶の中で、まるで他人の思い出をたどっているかのように過ぎていった。
貧しい村の大人達が集まってきて、異国の果てで命を落とした女の埋葬を黙々と片付けていく。それは葬儀と呼べる程のものでは無かった。マリアの母親自身、最後まで拒絶し続けたロシア正教への改宗が、村人達に葬儀を拒ませたのだ。
まるで大きな荷物を一つ、村の共同墓地に捨てて来たかのような埋葬が終わると、彼等は顔を見合わせながら当惑したように語り合った。
「こんな、小さいのにお母さんまで……。」
「…日本には……。」
「誰だって精一杯なのに、他人の子の面倒なんて……。」
「冗談じゃない。」
「だけれど……。」
「じゃあ、いったい誰が?」
堂々巡りのようにそんな言葉が彼女を通り過ぎていった。
「マーニャ、ねえ、家の父さんと母さんがきっとおいでって言うよ……。きっと…。」
ターニャはそう話しかけて来たけれども、彼女の家も沢山の弟妹がいて、もうすでに他人の子供を受け入れるゆとりなど無いことを二人とも判っていた。
「…………。」
「ごめんね、ごめんね。マリア。」
顔を歪ませ、何度も何度も振り返りながら両親に手を曳かれて行く幼馴染みの泣き声を聞きながらドアを閉めた。
部屋の中を見回した後マリアは、母親の使っていたベッドに上がり込み毛布に包まった。この数日間眠っていなかったと思う間も無く眠りに落ちて行った。